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2020年10月大祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

ご存知のように、天理教では10月は、天保九年に教祖のお口を通して立教の宣言がなされたという意味で大切な月です。この月のおつとめでは、私達の信仰の端緒となったこの出来事に思いを寄せなければなりません。

この年、親神様は、月日の社になるいんねんのあった教祖のもとに降りて来られました。教典から抜粋しますと、

にんけんをはじめだしたるやしきなり
そのいんねんであまくたりたでおふでさき四号55)

このよふをはぢめだしたるやしきなり
にんけんはじめもとのをやなり

月日よりそれをみすましあまくだり
なにかよろづをしらしたいからおふでさき六号55-56)

親神は、この約束により、人間創造の母体としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。

この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

ここにありますように、月日のやしろたる教祖にも魂があります。そこからも、魂の問題がいかに難しいかがお分かりいただけるでしょう。とはいえ、魂は現代においてもしっかり考えなければならない問題だと思います。私が魂の定義を明確に理解しているわけではありませんが、教祖伝にみられる話を例に、現在お道で教えられている範囲内で考えられることをお伝えしてみたいと思います。

魂は、出直しの教理にとって不可欠です。私たちは、魂に刻まれたいんねんによって結びついているわけですから、魂なしには生まれ変わることはできません。出直した後、親神の懐住まいを経て、またこの世に戻ってきます。

魂は、世代をまたぐものです。魂自体はきれいなものですが、そこには善い行いも悪い行いも、世代を超えて積み重ねてきた記録が刻まれています。この記録によって、生まれ変わりの条件ができあがっていき、それぞれの魂の特徴に相応しい場所に生まれ変わってきます。

もちろん、魂に差はなく、その価値に個人差はありません。しかし、現実世界において、役割の違いはあります。教典教祖伝を読めば分かるように、つとめ人衆の役割を任される魂はあります。

それは、その人たちが選ばれた人たちというわけではなく、その働きに違いがあるということです。みんなが医者の世界はおかしいですし、みんながサラリーマンでもおかしい。

それと同じで、みんながつとめ人衆だと、やはりおかしいわけです。陽気ぐらし世界建設のために、それぞれが違う役割をになっているのです。それを教えるために、親神おつとめと関連付けて、教祖のご家族を例えとして使っているのです。

最近、教祖伝にあるお話から考えさせられたことがありました。秀司先生の非嫡出子、お秀さんのお話です。

このこ共二ねん三ねんしこもふと
ゆうていれども神のてはなれ

しやんせよをやがいかほどをもふても
神のてばなれこれハかなハん

このよふハあくしまじりであるからに
いんねんつける事ハいかんでおふでさき1号60-62)

このおふでさき第一号のお歌はお秀さんの出直しの予言と言われています。実際、お秀さんはほどなく出直されます。

お秀さんに関して、さらに第三号では

このものを四ねんいせんにむかいとり
神がだきしめこれがしよこや

しんぢつにはやくかやするもよふたて
神のせきこみこれがたい一おふでさき3号109-110)

「このものをむかいとり」とはお秀さんのお出直しのことで、神が出直させたとも読み取れます。そして、お秀さんの魂はお屋敷に帰ってくるようになっているとも仰っています。

さらに明治8年第七号ではたまえさんの誕生についてのお歌があります。

このたびのはらみているをうちなるわ
なんとをもふてまちているやら

こればかり人なみやとハをもうなよ
なんでも月日ゑらいをもわく

このもとハ六ねんいぜんに三月の
十五日よりむかいとりたでおふでさき七号65-67)

このはなしどふゆう事にをもうかな
これが大一このよはじまりおふでさき七号70)

なわたまへはやくみたいとをもうなら
月日をしへるてゑをしいかりおふでさき七号72)

「これが大一このよはじまり」「月日をしへるてゑをしいかり」といったお言葉から、この魂の話を通してつとめの重要性を説かれていることが分かります。事実、この明治8年に、教祖おつとめの最後のお歌を教えられ、つとめが完成します。

この出来事は、親神が、正式な婚姻関係がないと困るので、このいんねんある魂を正妻のもとに生まれさせるために、婚外子の命を引き取ったんだ、という風に解釈されることがあります。

しかし、私はこの考えにはまったくもって同意できません。二代真柱は、教祖には跡取りとか正式な婚姻関係とかにはこだわりはなく、ただ魂の問題だけが教祖の気がかりな点であったと、第十六回教義講習会の中で仰っています。

つまり、お秀さんの場合、つとめ人衆のいんねんある魂が、つとめを教える前に出直してしまったということです。図らずも出直してしまった以上、改めてお屋敷に生まれ変わらせる必要ができたのです。

教祖はお秀さんをそのままお側に置いて、おつとめをつとめさせることもできたのです。しかし、お秀さんの出直しは不幸にしての出直しで、親神が意図的に命を引き取ったのではなく、そんなことを親神は望んでいなかったのです。教祖はお秀さんを非常にかわいがられていたとの話も残っているそうです。

そう考えると「このものをむかいとり」「神がだきしてめていた」というような表現は単に、親神は亡くなった人の魂を受け止め抱きしめて、そして相応しいところに生まれ変わらせるんだよという風に捉えることができるわけです。

親神は人の命など見抜き見通しですが、だからと言って親神が人の生死をコントロールするわけではないのです。親神は決して、「あ、間違えて婚外子のところにこの魂を生まれ変わらせてしまった。正式な奥さんのところに生まれ変わらせないと。」なんてことを言うわけがないのです。

命とは、一度生まれてしまえば、親神は最後までその命を見届けるのです。一度出直してしまえば、親神はその魂を胸に抱きしめて、心新たにこの世に生まれ変わらせてくれるのです。天理教の教えでは、運命なんてものは変えられるのです。どんな人であっても、親神の思い一つや、生まれついての魂だけの理由で命を奪われることはないのです。

言い換えれば、天理教の教えでは人は運命によって死ぬことはないということです。出直しは、日々の行いから生じる八つのほこりや十全のご守護、いんねんなどが複雑に入り組んだ事情の結果と言えます。魂一つの理由で命が入れ替えられるなどという考えは非常に危険だとすら思います。人の運命には親神の思いが込められているとは思いますが、ただそれだけの理由で死ぬことはないのです。

少し魂の話からそれますが、出直しについてもう少し話します。教祖の娘さんのこかんさまや、嫡子の秀司先生は、教祖がお姿をお隠しになる前に出直されました。こかんさまの出直し教祖の制止を聞かずに梶本の家に通い続けたからだとか、秀司先生の場合は教祖の想いを汲むことなく教会公認の許可に奔走したからだとか言われています。確かに教祖伝を読めば、そうとも読めます。

しかし、人はただ、その行いが親神の思いに添わなかったからとか、その魂の生まれたところが相応しくなかったといった、宗教的な理由だけで死ぬことがあるのでしょうか。かならず、現実的な理由があり、いんねんが積み重なっていった事情によって精神や身体に問題が起こってくるのではないでしょうか。

こかんさまは、教祖が「あんた言うこと聞かんな。神さん退くで」とおっしゃったから出直したのではないのです。こかんさまの周囲の人が教祖の想いとは異なる助言をし、それによって生きづらい状況ができてしまい、精神的に苦しんでしまった結果だと思うのです。心が病めば、体に影響が出るのは必然です。

私たち信仰の元を思うにあたり、教祖伝を読むことはとてもよいことです。しかし、時代背景には気を付けなければなりません。教祖伝は短い本ですから詳細までは分かりにくい点もあります。今日私がお伝えしたかったのは、親神が人の命を奪うことはない、出直しとは生まれつきの魂の問題だけで決まることではないということです。

人の出直しには、必ず人間にも責任があります。親神の思し召しは人間の理解を超えるものがあるとはいえ、教祖伝にある教祖のご家族の出直しは、親神の意志だけで引き起こされたものではないと理解すべきだと思います。

親神教祖も私たち人間を尊重してくれているのです。そうでなければ、心の自由など与えるでしょうか。魂がどうであろうと、結果的に親神の思いに添わない行動をとることがあったとしても、私たちの人生を尊重してくれるのです。私たちの人生は、私たち自身で作り上げることが許されていて、それは教祖の教えと何ら相反することはないのです。

ご清聴ありがとうございました。

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