Tenrikyo Europe Centre
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ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ
只今は、十一月の月次祭のおつとめを一手一つに賑やかにつとめさせて頂き、誠に有り難い事と存じます。まだまだ未熟な者ですが、思いますところをお話しさせて頂きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
日々の会話の中で、「あの人は徳がある。」「私にはそんな事ができる徳がない、」
又、「徳を積ませてもらいましょう。」という言葉を耳にします。この「徳」について、今日はお話をしたいと思います。
皆さんは「徳」という言葉を聞いた時に、どんなイメージを思い浮かべらますか。子供の頃の私のイメージは「神様という銀行への貯金」でした。良いことをすれば、神様銀行の預金が増え、悪いことをすればそれが減ってしまうというようなものでした。今は、むしろ「それぞれの人の心、魂のもつ力」のイメージに変わってきました。同じような辛い状況にあっても、それを前向きに乗り越えられる方もあれば、そのままつぶれてしまう方もあります。この違いはどこにあるかというと、私は「魂の持つ力、徳」にあると思います。
天理教のある先生は、「徳」をそれぞれの人がもっている心の器に例えてお話し下さいました。みんながそれぞれ器を持って、雨を受ける状況を想像してみて下さい。持っている器が大きな人は雨をたくさん受ける事ができます。けれども、器が小さければ、その器に合った量しか入れられません。人間は自分の持っている器の大きさが分からないものですから、小さい器なのにたくさん入れようとします。隣の大きな器の人と同じだけほしいと思うのです。でも器の大きさが違うのですから、いくら頑張っても自分の思うようには成ってこないのです。自分のもっている器を大きくしない限りは、不可能なのです。あれもほしい、これもほしいといろいろ買って、借金地獄で苦しんでおられる方は、正に自分の器の大きさが分からないで、器以上に入れようとした結果だと言えると思います。
では、この器の大きさは生まれもったもので、変えられないのでしょうか。そんなことはありません。もちろん、変えられます。では、どうしたら心に大きな器をもつことが、いいかえれば、徳を積むことができるのでしょうか。
逸話篇に次のようなお話があります。
教祖が、飯降よしえにお聞かせ下されたお話に、
「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」と。(百十一朝、起こされるのと)
ここでお話しになっている「朝起き、正直、働き」この三つの教えが徳を積むための一つキーワードだといえると思います、この三つの教えについては、同じ逸話篇に『三つの宝』という題で載っています。
ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、
「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」
と、仰せられた。
伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、
「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
「この三つを、しっかり握って、失わんようににせにゃいかんで。」
と、仰せられた。
伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。(二十九三つの宝)
このお話を戴かれた飯降伊蔵先生は皆さんもご承知かと思いますが、教祖が現身を隠された後、神意によって、教祖に代わって、親神様のお言葉を取り次がれた方であります。このようなお役をなされた方は、天理教では、この方お一人です。伊蔵先生はもちろん生まれつき心のきれいな方であったとは思いますが、教祖のお言葉を素直に生涯守って通られたからこそ、神様に選ばれるだけの徳を積まれたのだと思います。
教祖は常々伊蔵先生に次のようにおっしゃったという話が残っています。
「伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。何でも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済みになるのやで。」
このお諭しを受けて、伊蔵先生は、それ以後、壊れた橋や足もとの悪い道を人知れず直して通られたそうです。
人は得てしていいことをした時には、人に言いたくなってしまいます。人に褒めてもらいたい、自分の大変さを分かってもらいたい気持ちがあるからです。又、人の前では気をつけていても、人が見ていないとつい「これぐらいにしておこう。」とか「これぐらい、いいだろう」と自分を甘やかしてしまいます。私自身、特に朝起きる時にそれを感じます。誰か人が泊まっていれば、さっと起きられるのに、家族だけだと、「後十分、後五分」とついつい寝過ごしてしまいます。このお話を考えるようになってからは、人前であんな偉そうな話をするのにこれでいいのかと、正に自分との戦いです。
「朝起き、正直、働き」をいつも心において、裏表なく実行させて頂きたいと思います。
この伊蔵先生がお話し下さった言葉がほかにもありますのでご紹介させて頂きます。
人間と云ふものはこの世で住ましてもらふには何からでも陰徳をつまして貰はねばならん。徳はいただけん。そこで人間普通のことをするのはあたりまへや。陰徳は、些細な事や、かうすれば後のためになる、人のためになる。この些細な事に気をつければ陰徳はつまれ、神様は喜んで下さるのや。人に云はれてするのは陰徳ではない。かうすればくさらぬ、いたまぬと云う心が大事や、粗末にしては天の理にかなはん。(『みちのとも』昭和十一年六月号)
陰徳をつむという事は些細な事なんだ。「こうすれば後のためになる、人のためになる」という心ですれば、それを神様が喜んで下さる。「人にいわれてするのではなく」、常に「こうすればくさらぬ、いたまぬ」と心を使う事が大切であると教えて下さっています。
もっと具体的な例を挙げて、お茶出しをする青年さんに対して諭されたお言葉があります。
・・・この炭はね、神様からお与え下さってあるのです。その炭であるから上手に使わねばならん。焰の立つように燃したならすぐに灰になってしまうで、灰をかけておいたなら一時間のものなら三時間も四時間も長持ちする。二時間のものを一時間で使ってしまうなら三時間だけ神様のご守護を無駄にすることになる。この世の中のものはみんな天のものであるから、どんなものでも大切に長く使わせてもらわねばいけないよ(『みちのとも』昭和二十二年四月号)
普通の人が一時間で使う炭も、神様のお与えだと思って工夫すれば三時間も四時間も使える。逆に何も考えずに使っていれば、知らないうちに神様のご守護を無駄にしてしまっていることになっているのです。自分自身の日常を振り返ってみますと、どれだけ多くの神様のご守護の無駄づかいをしてきたかと恐いぐらいです。
今は実に簡単にいろんなものが手に入ります。「そんな細かいことを」と思う人が、もしこの中にいるならば、きついことを言うようですが、知らず知らずのうちに心が贅沢になってしまっているのではないでしょうか。伊蔵先生は誰一人寄り来る人がなかった時に教祖のご苦労を見ながら、中山家を支えて通られた方であります。その先生の心にあったのは、常にご苦労の中を通られた教祖のお姿であります。その当時の様子を後に語られています。
一厘の銭でも粗末にしてくれるな。今日の日のあるのは皆教祖のお陰である、教祖ご存命中には、夜中に芝一本もないところをお通り下された。ある年の暮れのことであった、夜十二時過ぎに、寒いから一くべあたりたいと仰せられたから、立って柴箱の所へ行ってみたれば、何もなかった、ようようのことで松葉のこぼれたのをかきよせて、片手に一ぱい持って来て、小さな瀬戸物の火鉢に焚いてあげた、松葉だから火は残らんので、お三方(教祖、秀司先生、こかん様)で火鉢の縁をさすってお寝みになったこともあった。(『みちのとも』大正五年四月号)
寒い季節がやって来ましたが、お陰様で私たちは寒さに凍えることもなく、生活させて頂いています。これも先輩方がお道の上に一生懸命お通り下さったから戴いているご守護の姿であります。だから喜んで通らせてもらったらいいと思います。けれども寒い夜に燃やす柴もなく、落ち葉を燃やしてお通り下さった教祖のことを忘れてはならないと思います。
徳をつむための二つ目のポイントは、世の中のもの全ては神様からのお与えであると信じ、物も人も無駄にしない、生かすように心がけることだと思います。
今回、徳についてお話をしたいと思ったきっかけは、この夏に大教会の夕勤め後に、みんなで愛町大教会の初代会長様のお話を読ませて頂いたことにあります。今まで申し上げたことが、そのままに書かれていますので、読ませて頂きたいと思います。
徳とは人の前にあるのではない。
人の見ていない影にある。
人の見てない陰こそ誠をしておけ。
すると人のできない働きをする。
人の見てないところこそ、自分がよく知っている。
自分の知っていることこそ、神が知っている。お陰様という言葉をよく聞く、その通りである。
かげが正しく通ってあれば、人間は何一つ困るということが起きてこない。
かげで物を大事にしている人には、物のお与えが充分ある。
かげでお金を大事にしている人には、お金が集まってくる。
かげで人を助けた人は、大事な時に思わぬ人の援助を受ける。
かげで天理を全うしている人のいうことはこわい。
物事がいう通りに成ってくる。だからいう通りに守らないと理が出てくる。
人間はかげと共に歩き、かげはどこまでもその人について働く。
人間はどういう道を通って来たか。日々人の見ていないところでどういう通り方をしているか。それがその人の財産だ。
だからお道はかげで天理を全うすることを教えるのだ。
徳と呼ぶものは、その人の陰の力のことである。 (『因縁に勝つ』関根清和編より)
説明の必要はないと思います。人の見ていないところでどういう通り方をするのか、自分自身に問いかけながら、教祖百三十年祭までの三年千日を一日一日通らせて頂きたいと思います。
ご清聴有り難うございました。