Tenrikyo Europe Centre

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2018年5月月次祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

教祖がお残し下さった教えには、西洋人には理解しがたいものもあります。西洋人によく見られる、あらゆる物事を個別に考え、理解しようとする傾向がその理由のひとつでもあると思います。心のふしん、形のふしんもそのひとつであろうと思います。今日はこの点について少し話をさせていただきます。

ご存じの通り、私はボルドー教会の会長をしております。最近、ボルドー市中心街の古いアパートである教会建物の老朽化が進み、信者さん方を迎え入れるための建築規格から外れることになったため、改築、改装工事を行うことにしました。

しかし、この計画には、最初から多くの問題がつきまとい、停滞に見舞われました。重大な選択を数多く迫られる複雑困難な計画であることから多くの決定事項が先延ばしにされ、工事もまだ始まっていません。

今日、こんな話をさせて頂くのも、お道では、形のふしんと、心のふしんは対をなすものだと教えられていますが、この事について、私自身が、現在、多くの思案すべきことをお与え頂いているからです。

少し前に、以前ヨーロッパ出張所長を勤められていた鎌田先生の神殿講話を偶然に見つけました。現在の出張所の神殿工事が終了する予定の年、1990年の春季大祭時のものです。その講話の中で先生は、よふぼく各自の心のふしんが、形のふしんに貢献することに触れられて、その話は以下のように結ばれています。

「今年、ようやく神殿の工事完了を予定しています。中に入って頂くとお分かりのように屋根工事も始まり、もうすぐ瓦が敷かれます。問題がなければ6月初旬に終了する予定です。一方で、私達の心のふしんは進んでいるでしょうか。親神様は、あらゆる手立てを使い、おつとめの為にようぼくを引き寄せようとなさります。特に、この普請を機にして、私達の身体や家族に「ていれ」を見せて、引寄せて下さいます。陽気ぐらし世界建設のためになさるのです。

その意味からもどうぞ、親神様の思し召しに応えさせて頂き、更なる心の成人を絶えず続けて頂きたいと思います。」

そして、先生は日本語で「ていれ」が出てくるおふでさきを引用なさいました。

にち/\によふほくにてわていりする
どこがあしきとさらにをもうな三号131

をなじきもたん/\ていりするもあり
そのまゝこかすきいもあるなり三号132

それよりもひねた木からたん/\と
ていりひきつけあとのもよふを七号 19

このさきハあゝちこゝちにみにさハり
月日ていりをするとをもゑよ八号 81

とのよふな事もやまいとをもうなよ
なにかよろづハ月日ていりや十号 68

にち/\にみのうちさハりついたなら
これハ月日のていりなるかよ十号 71

みのうちにとのよな事をしたとても
やまいでわない月日ていりや十四号 21

しかときけ心ちがゑばせひがない
そこでだん/\ていりするのや十五号 70

これらのお言葉一つひとつが、現在の私の心に大変強く響きます。先程、述べましたように、現在、改築工事を計画している真っ最中ということもあり、また、私の生活の至るところでも教祖の「ていれ」の意味するところについて思案せざる得ない数々の事柄、不具合が生じているからです。

「ていれ」という言葉に、大変敏感になっているといっても良いかと思います。

人生、それぞれの歩みの中で、試練を抱えている時期は生活することも容易ではありませんが、とりわけ、その試練の意味自体を理解することが難しければなおさらです。鎌田先生は、講話の中で教祖の「ていれ」が意味するところは、いかなる場合であっても罰を意味することはないと説明なさいました。それはむしろ、親神様が陽気ぐらし世界建設のために使う用木を完璧となるように鍛え上げたい思し召しの表れだというのです。「ていれ」とは、我々ひとり一人に対して、お与え頂く確かなよふぼくとなるための心の成人を遂げるチャンスであって、過去の行為に対する罰では決してないのです。

この点について、私達は何を教えて頂いており、どう考えていくべきなのでしょうか。

この最近、私が経験した様々な問題を振返って見たとき、必然的な形で、自身の神に凭れきる心について見つめ、思案するようになっていったことに気付きました。この純真な心持ちこそが、すべてのご守護の根本なのです。人生で何か問題が生じるとすれば、それは、誠実な心が欠けていると教えて頂いています。

「日々という常という、日々、常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。良く聞き分け。」

また以下のおふでさきには、

しんぢつの心みさだめついたなら
いかなしゆこふもするとをもゑよ四号 52

とあり、そして、教祖伝にも以下の様にあります。

心を入替え、ほこりを拂い、誠眞實の心を定めて願うならば、どのような自由自在のたすけをも引き受ける。教祖伝 第八章)

形のふしんは心のふしん次第なのです。神様に添いきる心を定めることが、何事においても順風満帆にいく原動力であることがこの下りから読み取れます。

私達が目指すべきものは、このように明確に教えられているのですが、しかし、どうすれば、いつ誠の心を働かしていて、どんなときに働かしていないということが分るのでしょうか。誠の心が欠けていることを教えて下さるネガティブな事情はすぐに身に降りかかるわけではないのです。

教祖は、おふでさきを通して、こう忠告されています。

めへ/\にいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな三号 33

また真柱様は諭達第一号で。

人をたすける心は、何よりも親神様の思召しに適う誠真実である。

とお教えくださいました。

結局、この意味するところは、自分の心のなかで、他人を特別に助け上げたいという気持ちがあるかどうか、言い換えれば、他人の健康、豊かで喜びの生活を見たいという思いを感じていれば、そこには誠の心があると思うのです。

一方、反対に、 心の安寧や喜びがなくなると、些細な問題に対しても、やがては心配や恐怖心が代りに湧き上がるようになります。そして、取るに足らない自分のことでやたらと心配するようになり、自分を取巻く世界は、辛く暗い世界へと変わっていくのです。このような時、他人をたすけさせて貰いたいという欲求を、その人の心の中に見ることはありません。

皆、それぞれの生活を振返ってみれば、誰でも心の中に、誠真実の心が欠けている時が多々あるはずです。そんな時には、往々にして、心に不安や不満が立込めています。また、面倒臭さや、勇気がないという理由から、私達は、ある種の自己満足観だけの生活を送り、本当の自分の心の状態を真剣に見つめることを後回しにしがちです。

私自身についても、普段から生活のなかで小さな心得違い,時にはより大きなものを生み出していることは、分っていますが、確固とした自覚もなく、また仮にあったとしても心の中で、行為の自己正当化を図ってしまっています。

このような心遣いに見られる間違えは、目に見えて気づかされる親神の慈愛のお手入れを頂く日が来るまで繰返し続けられてしまいます。

そして、事が起るごとに、やはり人生でより神に凭れる真実を出すときだと自分の心に語り掛けるのです。実際、全てが順調なときは、心の状態に注意散漫となります。ですから、神の「いけん」を頂いた時のみ、つまり事情、身上を頂いた時にだけ、本当の意味で真実の心が培われると言えます。

あらゆる「ていれ」は、より形のふしんと関連付けることが出来るのではないかと思います。

精神的な行為は、それ自体が「ふしん」と考えることができ、ようぼくが、その歩みの各段階で頂く小さなおていれは、誰に対しても、最初の地ならしという目的があると思うのです。親神様が、真実、誠の心がさらに大きく育つよう、また教えの本質に立ち返らせる意図があるのだと思います。

「ていれ」を頂戴するお陰で、私達は、心の中に根源的に宿っている喜びに気付くことができます。

どんな心にも、本来の喜びや満足感は存在しているのですが、ただ単に、心に積ったが邪魔をして、その存在する場所に辿り着くことがなかなか出来ないでいるだけです。

それゆえに心にを積ませているのは、人間思案だということを理解して、時には様々な頭から湧き上ってくる考えから離れ、そして頭の中をスッキリさせるためにも、心を見つめ、その奥底にある喜びを湧き上らせることが大切です。

教祖は、思案を巡らせることを仰いましたが、しかし、それには、まず喜びが宿る心の中にまで考えを落し込むことです。そうすれば、その思案に心の喜びという特別な香りを沁み込ませることができるのです。

頭のみでなく、心を通した思案は、平和的で、それにより対人関係は、よりまとまりのある調和的なものとなります。人同士が争う原因は、我々はそれぞれが、バラバラで個別であるという信じ込みに起因していると思います。もし、全ての人の心が互いに結び合っている心の場所にまで思案を落し込むならば、必然的に喜びと安らぎを見つけることができるのです。

喜びは人間思案に頼るのではなく、神に凭れる真実の心としっかりと結ばれていることがお分かり頂けたかと思います。この二つは、そのどちらか一つが欠けても存在し得ません。

また、他方、おていれは私達を教祖へと近付けます。

教祖が唯一本当にお喜びになることは、私達の心に喜びを見出だすことだと仰いました。ですから、このことを考えるだけでも、喜びがまだ心に無かったとしても、心に少しなりと喜びが湧いてきます。そして、喜びと誠の心こそが、あらゆる問題を解決する力だと考えることが、さらなる喜びの連鎖をもたらすことになるのです。以下のお歌にあるとおりです。

しんぢつの心を神がうけとれば
いかなぢうよふしてみせるてな五号 14

私達は、このお言葉によりお道の御用として理があるならば、教祖がどのような企てに対しても力を貸して下さるのだと確信を持つことができます。全ての物事は、必要に応じて準備用意されており、いかなるときも親神様が後ろ盾をしてくださっているので、特別な何かをする必要はないと教祖が言われているからです。問題に対する全ての答えが周りに用意されています。答えは既にあるのです。頭の中のざわつきが無くなり、気持ちを落着かせるためには、私達の身体、また自分の周囲に頂くご守護への感謝の心をもって、周りを見渡すだけで十分です。

しかしながら、それでも私達は、往々にして何か起こりうることに対して恐れを持ちがちです。それは、言動への考え、また因縁について、心に残る引っ掛りのせいで、凭れきる真実の心がないことの証拠でもあります。

真実、誠の心で通るということは、自分自身の中で、親神様から最良の未来が約束されているという絶対的な信頼を置くことでもあります。

このたすけはやくりやくをみせたさに
月日の心せくばかりやで七号 29

教会は、おつとめが勤められる場であります。私は建物普請に関わるすべての関連事項、つまり最初の思わくから全ての行程を経て最後に至るまで、それらは、同時に神に凭れて通る真実の心へと近づいていかなくてはならないものであることが分ったのです。

もし私達がこの人生を注意深く見ているならば、私達がその真実の心で通ろうとする度に、毎回、親神様も十全のご守護をお示し下さっているのが分るだろうと思うのです。

ここから結論的に言えることは、私達がそれぞれの人生で頂く全てのおていれは、徐々に我々を神に凭れる一条の道へと向かわせるもので、そのお陰により、建築やその他のことであっても、あらゆる御用の実現が心の真実のままに出来上ってゆくということです。

形のふしんと心のふしんは一対であって、だからこそ、私が思うには、お道におけるどんな形の普請であっても、かならず関係するよふぼくの人生に「手入れ」がもたらされ、それにより親神様が更に少しずつでも誠真実の心、つまるところの陽気ぐらしの心になれるよう仕向けてくださっているのだと思います。

私も同様、真実誠の心を更に磨き、神に凭れて、これから更に心のふしんに進めて行きたいと願っております。

ご静聴ありがとうございました。

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