Tenrikyo Europe Centre

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2014年1月大祭神殿講話

大ローマ布教所長 山口英雄

只今、ヨーロッパ出張所、立教177年春の大祭が盛大に勤められました事、皆様方と共にその喜びを分かち合いたいと存じます。ご指名を頂きましたので、一言思う所を述べて、その責を果たしたいと存じます。暫くおつきあい下さるようお願いもうしあげます。

さて、私たちの教祖が「月日のやしろ」になられたのは、ご存知のように、天保9年、つまり、1838年10月26日、今から数えて177年前です。教祖が現身をお隠しになられます直前、教祖を介してなされた親神様と人間の押し問答は、涙なくしては語れない所です。それは、親神様の「つとめ」を急き込む思いと人間側の思いの緊迫したせめぎ合いでした。当時、天理教は政府の公認を得ていませんでしたから「つとめ」をすれば、ご高齢の教祖が監獄に連れて行かれてしまいます。教祖の弟子としてそんな事はできません。それに対して親神様は、公認問題はいずれ許すとしながらも、今すぐ「つとめ」をするようにと仰せられたのです。初代真柱始め多くの先達は迷いに迷いましたが、この問答の後、意を決して「つとめ」をつとめられたのです。しかし、十二下り目の「だいくのにんもそろいきた」のみかぐらうたをお聞きになっていた教祖は、満足げな顔で息を引き取られてしまったのです。「つとめ」を勤修し終えた先人達は、これで教祖も元気になって下さるだろうと思っていた事でしょう。それだけに教祖が現身を隠されたことは、先人達にとっては、まさに晴天のへきれきであり、大地がひっくり返ったような驚きと嘆き、悲しみを味わったのではないでしょうか。

教祖50年の「ひながた」は、まさに「つとめ」と「さづけ」で「世界だすけ」を押し進め、神人和楽の「陽気ぐらし」の世界を建設するという目的で一貫しているのです。

教祖は慶応2年(1866年)つとめの第一節「あしきはらい」のつとめを教えられ、その後「たすけづとめ」の完成に向けて、それに必要な環境を整えられていきます。慶応3年(1867年)正月から8月までに「十二下り」のお歌を作られ、その後節付けと振り付けに満3年かけていらっしゃいます。その年「よろづよ八首」のお歌を作られ、「十二下り」の始めに付けていらっしゃいます。

明治6年(1873年)には「雛形かんろだい」が作られています。

明治7年(1874年)6月18日、教祖はかねてから制作を依頼していた「かぐら面」が完成し、保存されていたので、それを受け取りに前川家にいかれました。そこで、教祖に帯同した一行は初めて面を付けて、「おてふり」を試みられています。その後、おやしきでは、毎月26日には、お面を付けて賑やかに「かぐら」「てをどり」の本勤めが執り行なわれました。

明治8年(1875年)6月には、人間を創めだした元の場所を定める「ぢば定め」が行われます。

明治10年(1877年)には、教祖は三曲の鳴物を教えられ、「たすけづとめ」の完成に向かって着々と歩みが進められて行きました。

さらに、明治14、5年(1881、2年)頃から、「こふきばなし」を説き明かされ、「つとめ」の意義の確認と「つとめ」の勤修を急き込まれました。

そして、明治20年(1887年)を迎えます。「たすけづとめ」が勤められ、平穏無事に勤められたという安堵感もつかの間、「教祖の現身のお隠し」という大事件となり、先生方は途方にくれてしまったのです。

先生方は、飯降伊蔵先生を通して、「おさしず」を仰ぎます。そして、返って来た言葉は次のようなものでした。

「さあさあ、ろっくの地にする。皆そろうたか、そろうたか。よう聞き分け。これまでに言うたこと、実の箱に入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、おやの命を25年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見ていよ。今までとこれから先としっかり見ていよ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に、扉開いてろっくの地にしてくれというたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれどもようやらなんだ。又又、これから先だんだんに理が渡そう。よう聞いておけ。」(1887年2月18日)

こうして、「世界だすけ」のもう一本の柱として、「さづけ」が一般の人たちも戴けるようになったのです。

さづけ」拝戴の出来事を少し眺めてみましょう。

教祖は元治元年(1864年)の春頃から50人から60人ぐらいの人に「扇のさづけ」を渡されています。その中で、山中忠七と仲田佐右衛門はそれぞれ「扇」,「御幣」、「肥まるきり」の「さづけ」を戴いています。

また、その年(1865年)の終わり、12月26日には、辻忠作ほか数名が「さづけ」を戴かれました。それは、前栽、喜三郎「平骨の扇」、同、善助「黒骨の扇」、同じく幸右衛門「御幣、肥さづけよう」、豊田、忠作「御幣、肥さづけよう」と「さづけ」を戴かれています。

明治7年(1874年)12月26日には

一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾,三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井

と4名の者に、教祖は直々に、さづけの理を渡されたと書かれています。これが身上たすけのために「さづけ」の理が渡された始まりです。

このように「さづけ」を戴いた人の数は非常に少なかったのです。そこから、先ほど申し上げましたように、明治20年(1887年)2月18日の「おさしづ」で「これまで子供にやりたいものもあった。これから先だんだん理が渡そう」となるのです。その当時、「おさづけ」を戴くのにはどうしたら良かったのでしょうか。それは一生懸命に「誠の心」を作る事だったでしょう。「おさしず」には「誠の心にさづけ渡そ」(1887年12月12日)と言われています。

その「誠の心」を作る事が難しいのです。

「誠」という言葉はおさしづ中に合計766回使われています。その中で、明治24年(1991年)までに全体の半分以上の389回も出て来ます。その時期には多くの人たちは「誠の心」を作るように促されているので、人々は真剣の中にも真剣に日々を通り、「さづけ」を戴かれた事でしょう。

「誠の心」を作ろうとして先人は色々な事をなさっているようです。例えば、断食をしたり、冬の寒い時期に水垢離をしたりして誠真実を捧げました。そのような自分を苦しめて誠真実を捧げる例はお道の初期の先生,例えば、泉田藤吉先生や中川よし先生を始めとして枚挙にいとまがないでしょう。

話は少し変わりますが、昨年の8月に中東のシリアは、化学兵器を使って、一般市民や婦女子を殺害したとして、国際的に非難を浴びました。アメリカ,フランス等は、化学兵器を使わないように警告するためシリアを爆撃すると言っていました。その時にカソリックのローマ法王は、9月1日のアンジェルスのお話の中で、次の土曜日から日曜日、つまり9月7日より9月8日にかけて1日の断食をして、シリアの平和を祈ろうと、キリスト教信者のみならず、各宗教の信仰者、無宗教、無神論の人たちにも呼びかけました。私は、これをきっかけに断食について考えてみました。

断食とは、一定期間食物の全部または特定の種類の食物を断つ事です。断食は、宗教的行為としてよく行われて来ました。

キリスト教では、イエスは福音を述べ伝える前に、荒野の悪魔と対決するために40日間の断食をしています。

イスラム教では、太陰暦をもとにしたラマダンという断食の月を作っています。暦が太陽暦と比べるとずれて来ますので、ラマダンが真夏に当たる事もあるのです。こんな時は、日中水を飲む事も物を食べる事も出来ませんから大変な苦痛になります。人々は太陽の沈むのを待つのです。人々はこのような体験を通して、食物とそれを与えてくれた神への感謝を新たにします。また食べる事の出来ない者の苦しみを知るためでもあると言うのです。

仏教では、釈迦は激しい断食、死とすれすれの断食をしました。しかし、心の安らぎをえられなかったので、苦行が真理に至る道ではないことを悟りました。その後、断食で衰弱しきった体力を回復するために、ブッダガーヤの菩提樹の下で座禅を組んで、悟りを開いて仏陀となったのです。

では、お道の教祖はどうしたのでしょうか。

教祖は慶応元年(1865年)、30日間の断食をなされています。心配なさった側近の先生方に「水さえ飲んでいれば痩せもせぬ、よわりもせぬ」と仰り、異端事件を引き起こした針ケ別所村の助造の下へ赴き、異端に対し毅然たる態度をおとりになっています。

更に、明治5年(1872年)、教祖75歳のとき、75日間の断食をなさっています。これは神命によってなさったということです。その直後教祖は「別火別鍋」と仰っています。

このように見て来ると、「誠の心」を作ろうとする事は、一般の人にとってはなかなか難しく、かなりの修行をしないといけないのかも知れません。

「誠の心」ができれば、私たちの日常生活はバラ色でしょう。親神様に直ぐ受け取って頂けるし、親神様より直ぐにお返しがあるでしょう。

「誠」について述べているいくつかの「おさしづ」を上げてみましょう。

  • 誠あれば、うちうち睦まじいという理になる。(明治21年、1888年)
  • 誠一つは自由自在(明治22年6月1日,1889年)
  • 常々真の誠あれば、自由自在である(明治21年12月25日、1888年)
  • めんめん心に誠さえあれば踏み損ないはない(明治30年12月23日)
  • 誠の心の理が成る程という理である。常に誠という心あれば、その場で、天の理が直ぐに受け取る。直ぐに返す返す。(明治21年11月11日、1888年)
  • 誠というのは天の理である。誠より外に受け取るところなし(明治20年9月18日、1888年)
  • 真の心の誠の理が救けるという救かるという(明治22年8月1日)

私たちが、「おさづけの理」を拝戴した後に戴く「おかきさげ」の中にも誠という表現があります。

  • 日々という常という、日々誠一つという、誠の心と言えば一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものはない。誠一つが天の理
  • 一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという
  • 成程の者、成程の人というのは常に誠一つの理で自由という

今、私たちが断食もしないで、水垢離も取らず、われわれの身体を痛めつけず、「誠の心」を作り上げる努力をしないのならどうしたらよいのでしょうか。

それには、もう人救けしか方法はないでしょう。それは積極的に「さづけ」を取り次がして頂く事です。「さづけ」の取り次ぎには病む人の心定めのみならず,「さづけ」を取り次がして頂く者の誠真実しかないでしょう。その積み重ねによって、更に一段高い所の誠真実に昇華して行く事が出来るのではないでしょうか。今、教祖130年祭へと向かう旬は「さづけ」を取り次がして頂く旬です。格段の御守護を頂ける旬です。このヨーロッパ出張所での心定めは私たちに目標を下さっているのです。それに向かって頑張りたいと思いますし、頑張らないといけないのです。

終わりに一つのお言葉をご紹介して、今日のお話の締めくくりとさせて頂きます。

「たすけ一条の理を聞き分けるのが一つの理である。心一つの理に寄って、互い互いの誠の心がたすけのこうのうの理である。」(明治21年8月9日,1888年)

ご清聴有り難うございました。

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