Tenrikyo Europe Centre

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2019年2月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

今日は「二つ一つが天の理」ということについて思案をしてみたいと思います。

「二つ一つ」というのは、相対する二つのものは二つで一つだという意味です。1枚の紙があります。その紙には表と裏があります。表があるということは、必然的に裏があり、裏があるということは、表があるということになります。表と裏で1枚の紙、これが二つ一つということです。

自然界では天と地、空間においては上と下、時間においては過去と未来、人間社会においては善と悪、人生においては生と死、そして生き物においては男と女、親と子、これらも、全て二つ一つの関係で成り立っていると言えます。そして、「二つ一つが天の理」、つまり「天理王命」の「天理」というのですから、この教えを理解する上で最も大切な事柄の一つだと言えます。

この「二つ一つが天の理」という教えは、「おかきさげ」の中に記されています。「おかきさげ」というのは、別席を九回運んだ後、「おさづけ」を拝戴した人に下されるもので、親神の「よふぼく」として人だすけに向かうために欠かせない心構えが綴られています。その終わりの部分に「二つ一つが天の理」と綴られています。

今、人だすけにむかうためと申しました。「おかきさげ」の中には「たすける理がたすかる」とも記されております。これも「たすける」ことと「たすかる」ことは、「二つ一つ」の関係だと言えます。

「二つ一つ」ということは、見方を変えますと、一つのものには二つの面があるということになります。私達は神を親神と唱えています。これも神を「二つ一つ」で表していると言えます。神と言えば、一つしか存在しないような印象を持ってしまいますが、親という性質を加えることで、父親と母親の二面性が浮かび上がってきます。

おやさまのお立場は「神の社」、または「月日の社」と申します。この月日ということばも、月と太陽という二つの性質を兼ね備えています。これらのことからも、「二つ一つが天の理」ということは、この教えの根幹であることがよくおわかりいただけると思います。

親神おやさまを通してその思し召しを我々人間にお説きくださったのは、人間が陽気に暮らすのを見て共に楽しみたいとの思し召しからです。ですから、「二つ一つ」ということを、私達の日常生活の中に活かすことが大切であると思います。

私はお道の教えを聞いて、結婚や夫婦についての考え方が大きくかわりました。当時、私はまだ独身でしたが、結婚や夫婦については、一人の男性と一人の女性がいっしょになる、「1+1=2」という考えでした。しかし、「二つ一つが天の理」ということを考えると、「一人の男性と一人の女性が一体となった一組の夫婦」ということになり、「1+1=1」となります。

親神はこの世人間を創造するにあたり、まず、夫婦を拵えたとお教えいただいています。おつとめの地歌の中にも「この世の地と天とをかたどりて、夫婦をこしらえきたるでな、これはこの世のはじめだし」とあります。男性も女性も人間です。しかし、男女の生殖機能は異なります。ですから両機能を満たすためには、一組の夫婦でなくてはならないことになります。

しかし、この考えは大きな問題を抱えています。なぜかというと、独身の人は人間ではないということになってしまうからです。私も当時独身でしたので、毎日「夫婦を拵えきたるでな、これはこの世のはじめだし」と唱えながら、思案していました。そして、この教えは陽気暮らしをするための教えであるということを考えたとき、夫婦を雛型にして、たすけあうということの大切さを教えられているのだと、気づかせてもらうことができました。

人間は喜怒哀楽を感じます。生きていれば、怒り、憎しみ、悲しみ、後悔といった感情を抱きます。このような感情を完全に消してしまうことは不可能です。しかし、家庭や社会が、怒り、恨み、悲しみ、後悔で満たされてしまうと、陽気暮らしからはどんどん遠ざかってしまいます。

そこで、「二つ一つは天の理」ということうを考えてみましょう。人から何か言われて、腹を立てることはよくあります。腹が立つという感情は、心の中から湧き出てくるものです。それを止めるのは不可能であると言ってもいいでしょう。しかし、この腹立ちを表とすると、その裏はどうでしょうか。

人から間違いを指摘されたりして腹が立つのは、自分は正しいと思っているからです。つまり、腹立ちや怒りの原因は、自分自身の心の中にもあるということになります。

私は天理日仏文化協会で日本語を教えています。授業中に学生の間違いを指摘することはよくあります。私から間違いを指摘されて、怒る学生はほとんどいません。反対に「ありがとう」とお礼を言われることも少なくありません。お礼を言われると、私自身も嬉しくなります。これが「二つ一つは天の理」ということを日常生活の中で活かすということだと思います。

とはいえ、これを夫婦や親子の間で実行することは容易なことではありません。しかし、無理だと放棄するのではなく、少しでも天の理に近づけるよう日々努力することが大切なのではないでしょうか

おやさまは国家や警察の迫害干渉により、何度も警察署に呼び出され、留置されました。これに対して、おやさまは、「残念」、「立腹」という言葉を用いながらも、警察は、神意にそぐわないものを取り払うために、あるいは、埋もれた宝を掘り起こすために、また、高山に道を広めるために、親神が引き寄せたのだとおっしゃいました。そして、いそいそと警察署お出かけになったと言われています。「二つ一つが天の理」ということを身をもって示された一例だと思います。

次に時間的な二つ一つ、過去と未来について考えてみたいと思います。

生きていれば、必ず自分の好まざる事態に遭遇するものです。しかし、このような障害に遭遇したときに、嘆き、悲しむだけでは陽気暮らしは遠ざかってしまいます。おやさまは病や苦しみの原因は心の埃だとお教えくださいました。ですから、身上、事情に直面したときには、過去の心遣いを反省することが大切です。しかし、これだけだと二つの中の一つです。過去の過ちを反省するだけでは、むしろ心は暗くなってしまいます。おやさまは、病や苦しみは陽気暮らしに向かうための親神のてびきであるともお教えくださいました。身上、事情で人を苦しませるのが目的なのではなく、身上、事情を通じて心の埃を掃い、心の向きを変えて、陽気暮らしへ導いてくださっているのです。

通常、人は今の原因を過去の中に探します。しかし、過去は二つのうちの一つです。原因は未来にもあります。つまり、今の原因は過去と未来の両方ということです。これが、時間的な「二つ一つ」です。

おやさま親神の思召しにより月日の社となられてから、我が家の財産を徹底的に貧しい人々に施されました。おやさまのご自宅、中山家は村の中では比較的裕福な家でした。しかし、中山家は貧のどん底に落ちました。さらに、おやさまの夫は出直し、母屋まで解体して売りに出してしまうことになります。母屋の解体が始まったとき、家族はこの世のどん底に叩きつけられたように感じたことと思います。また、周囲の人々も、いよいよ中山家も終わりだと確信したことでしょう。

ところが、そんな中、おやさまは「これから世界の普請にかかる。祝うてくだされ」と言って、母屋を解体する職人に酒肴をふるまいます。

おやさまは家を売ることを祝ったのではありません。未来を祝ったのです。では、取り払われた母屋の跡はどうなったでしょうか。みなさんご承知のことと思います。もしご存じではない方がいらっしゃいましたら、この神殿の後ろの壁にかけられている写真をご覧ください。

親神は人間が陽気暮らしをするのを見てともに楽しみたいとの思し召しから、人間をお創りくださいました。今、私達一人一人がおかれた状況は異なりますが、過去を遡ると、全ての人はこの陽気暮らしの思召しに辿り着きます。同時に、親神は常に私達を陽気暮らしへ導いてくださっているのですから、全ての人間の未来は陽気暮らしに向かっていることになります。つまり、私達は陽気暮らしを出発して、陽気暮らしに到着するのです。言い換えれば、陽気暮らしは出発点であり、到着点なのです。出発地と目的地が同じということは、矛盾しているようにも思われますが、これも「二つ一つが天の理」ということだと思います。出発点が陽気暮らしで、到着点も陽気暮らしなら、当然今この瞬間も陽気暮らしになるはずです。

最後に「おぢば」でつとめられる「かぐらづとめ」について考えてみたいと思います。この「かぐらづとめ」も「二つ一つ」を象徴しています。甘露台を囲む10人のつとめ人衆は、男5人、女5人です。さらに、男1人と女1人女が対となり、男女5組で構成されています。そして、この10人のつとめ人衆は「かぐらづとめ」により、人間創造の元を再現しています。また、同時に人間が陽気暮らしの雛型ともなっています。つまり、「かぐらづとめ」は私達の元へ帰ることでもあり、目的に到達することでもあるのです。

本日は「二つ一つが天の理」ということについてお話をさせてもらいました。日々の生活の中で教えを活かして、共に陽気に暮らしていけますことを願いながら、講和を終わらせていただきたいと思います。

最後までご清聴くださり、ありがとうございました。

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