Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所長 長谷川善久
只今は10月の大祭を奉仕者、参拝者一同、無事、陽気につとめ終えさせて頂きました。誠にありがとうございました。
これより少々お時間を頂きまして、神殿講話をつとめさせて頂きたいと思います。しばらくの間おつきあい頂きますよう願い申し上げます。立教176年の年も早いものでもう10月に入りました。 毎月の月次祭を除いた、 これまでの主な行事を振り返りますと、管内信者に加えて、多数の未信者ボランティアの協力を得て開催しましたチャリティーバザー。今年は過去最高の入場者数740名、寄付金は6500€にも上りました。また4月~6月にかけてロンドン大学で開催されました天理大学図書館展では英国教友を中心に来場者数1万名を超えるという御守護を頂きました。7月には天理教の集いを開催し、ヨーロッパ各地から集まった約70名の教友と共に「おたすけ」について考え、学びました。8月末には パレット(若者の集い)9月には 本部講師による 陽気ぐらし講座 をヨーロッパ4カ国で開催し、においがけの一助としても活用いただきました。
夏のこどもおぢばがえりへの参加では、ヨーロッパグループとしての60名もの人がパレードで大行進を見せてくれました。参加した子供の中には、自分が楽しむだけでなく、参加者受け入れのひのきしんを行った子達がいたことも大変嬉しいことでした。
また、天理日仏文化協会でも語学センター活動、エスパスベルタンポワレによる芸術部門活において、昨年同様、多種多彩な活動が活発におこなわれました。なかでも東日本大震災以来、希望者がなく中止になっていたおぢばでの夏期日本語講座が再会されたことや、9月からの新たな活動として、こども柔道教室が始まったことは大きな喜びであります。
このような事を言うと、出張所、文化協会スタッフがさぞかし仕事を頑張ったんだろうなあと思われる方もおられるかもしれません。勿論、そのことは否定しません。しかし、ご存知の通り、出張所、文化協会は、 一般的に言われるような自己実現の喜びに基づく労働力を提供するような場所ではありません。 私たち信仰者にとっては、まさに信仰実践をするための場であります。親神様からお貸し頂いているこの身体をはじめ、家族や子供、家、人間関係への御守護、またそれぞれの所属する教会さんや真柱様をはじめとしたご本部の先生方から掛けていただく親心を、あたりまえと思わず、「ありがたい」「もったいない」と思って皆さんが実行するひとり一人の小さな「ひのきしん」が集まったところに親神様、教祖が大きなよろこびを見せて下さっている姿だと思います。
ここに改めまして、みなさんの出張所、文化協会活動へのお心寄せに御礼申し上げます。
さて、天理教は今から176年前の江戸時代後期、1838年10月に始まりました。この事から、10月のお祭りは月次祭ではなく大祭と呼び、世界の平和を祈念すると共に、立教の元一日を振り返り、そこに込められた思し召しを噛みしめ、教祖の道具衆として、新たなる一歩を踏みだす日とするよう教えて頂いております。
立教の元一日を振り返るとは、つまりこの「陽気ぐらしの教え」が伝えられた始まりはどのようなものであったかを思いおこすということです。天理教教祖伝によると、この話は立教の日の丁度一年前、天保八年(1837年)10月26日に中山家の長男、当時17歳の秀司が突然左足に激しい痛みを感じた日までさかのぼります。
激しい原因不明の足の痛みを除こうと、中山家では一年かけて9度もの寄加持が行われましたが、目立った効果はなく、1838年10月23日晩には、秀司の足痛に加えて、父善兵衛が目、母みきは腰に痛みが起こるという事態になりました。そこで急遽、24日の朝を待って寄加持をすることになったが、加持台になる予定の女性が不在であったため、みきを代役に使ったところ、みきの口を通して親神様から「我は元の神、実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天下った。みきを神のやしろに貰い受けたい」とのお言葉があったのです。
このお言葉は、私たち人間が初めて耳にした親神様直々のお言葉であり、親神様がどのような神様であるか、なぜここおぢばで、いま、なんのためにこの教えを開かれたのか、教祖がどのようなお立場であられるかという、この教えの大変重要な点が述べられているお言葉であります。
つまり、親神様は、この世の想像主である元の神という事。また火、水、風をはじめとする十全の守護をお恵みくださる実の神であるという事。中山家の屋敷が人間を宿し込まれた元のいんねんある場所である事。そして人間創造時に交わされた約束により、この時、全人類をたすけるために教えをひらいたということ。さらに、教祖は全人類の母親のいんねんある魂であるため、神のやしろとしての立場で神意をお聞かせくださるというものです。
しかし、当時、この時に居合わせた教祖の夫、善兵衛様やその他の人にはこのような深い意味合いが分かるわけもありません。善兵衛様は、当然ともいうべく、「みきを神のやしろに貰い受けたい」とのお言葉をひたすらお断りになられます。これに対して、親神様も親心を持って言葉を尽くし、諭すうちに、3日間もの長時間が過ぎさろうとするなか、教祖が次第に衰弱していくのを見かねた善兵衛様は、「みきを差し上げます」とついに神様の申し出を受け入れるのです。陰暦1838年10月26日午前8時。西暦では1838年12月12日にあたります。これが天理教がはじまった元一日であります。
親神様は、 「このたび、世界一れつをたすけるために天下った。」と告げられました。天理教が始まった地に住む日本人だけを救うのではなく、世界中の人間を分け隔てなくたすけるということをはっきりとその目的として告げてくださったのです。
そして、その目的を達成する道筋を教えて下さったのが、教祖、中山みき様であります。教祖は地上における神として実際にその身をもって日々の通り方の手本をお示し下さいました。そして、そればかりでなく、今、現在も 存命で、我々が気づかずに進もうとしている人生の危険な場面を優しく手を引いて避けながら共に歩んでくださっている母であります。
その教祖様が人類救済の手だてとしてお教えくだされた「おつとめ」の実行を促される上から、その姿をお隠しになられてから、130年目にあたるのが2016年1月26日であります。教祖の年祭は人間一般の年祭のように親戚が集まって故人の遺徳をたたえたり、人柄を偲んだりするものではありません。この年祭を目標に我々が進めて来た成人の姿と活動の成果をご覧頂く事にその意義があります。
そうしたうえから、教祖130年祭活動の指針として、昨年10月26日、真柱様は「諭達第三号」を発布してくださいました。先ほども全員で読ませて頂きました諭達であります。この中で、真柱様は今の世界の状況を「慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。-中略- まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである」と警鐘を鳴らしておられます。陽気ぐらしを妨げている第一の原因に「慎みを知らぬ欲望」を挙げておられるのです。
では、天理教が一般社会に提唱する陽気ぐらしをする上での3つのキーワードの一つとしても、感謝と助け合いとともに挙げられている「慎み」とはどのようなものなのでしょうか。
ある先生によると、「慎み」は陽気ぐらしの妨げとなる心遣い8種類「おしい、ほしい、にくい、かわいい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」全てに関わる重要な心遣いで、「八つのほこり」を自分が抑えたり、周囲の人に積ませないようにするための重要なポイントになるなる心遣いだということです。
慎みの心があれば、「ほしい」という埃の気持ちも抑えることができるからです。また例えば夫婦の中でも、ある事情があって、どちらも自分の主張を曲げずに関係が険悪になりそうなとき、どちらかが「慎み」の心を使い、相手の主張が通る様に考慮したならば、当然相手もそれに応える形で態度が和らぎ、結果物事は丸く治まり易くなるものです。
「自分が上で相手が下」というような考え方でなく、どのような立場の人の意見にも耳を向ける広い心。 どんな形の器にも合わせる事ができる水のような柔軟な心、また誰にでも素直に「すいません」と言えるのが慎む心の現れであろうと思います。
また、慎みの心を常に持てるようにするには、何事にも感謝の気持ちをわすれないようにすることが大切です。
有名な教祖の言葉に「世界には、枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与えくだされてある。」というのがあります。
この話をとっても、まず健康でありがたいという喜びと天からの水の恵みに対する喜び感謝の気持ちがあります。このように全てのものは、神様からの与えであることがわかったならば、感謝の気持ちに心が包まれ自然と「一杯の水であっても大切に頂こう」という慎みの心が生まれてくるのです。ちなみに、朝の洗面などでも、コップを使用すれば、通常水は0.5リットルで足りるところ、何も考えず、仮に蛇口を一分間、開けっ放しにしていると5リットルもの貴重な水が無駄になるそうです。
天理教が運営する病院の地下にある廃棄物収集場の壁と焼却炉の扉には、漢字一文字をかえた語呂合わせで、「廃棄物は拝棄物」と書かれた標語がはってあるそうです。置き換えられている漢字は、どちらも「はい」と発音しますが、最初の漢字の意味は、くずれて使えなくなる、すたれてだめになること。後の漢字の意味は、拝むこと、礼拝です。
ゴミは最初からゴミであったわけではなく、私たちの暮らしを便利にしてくれた残りです。無造作に捨てるのではなく、なぜそのゴミが出たのかを振り返り、拝むぐらいの気持ちで処理をして欲しいという思いが込められているそうです。この話を聞いて、さすがは慎みの生活を実践する天理教の病院だと感心しました。
このように、慎みにも簡単に分けると2種類あり、一つは、対人関係における心の使い方という意味での「慎み」。もう一つは、電気や水や物類を節約するという意味での「慎み」があるのが分かります。
このうち、お酒を飲む量を摂生するとか、物を節約するという意味などにおいての慎みは日頃から良く聞かれるところですが、対人関係における慎みはどうでしょうか。
自分が心に慎みのある生活をしているか、どうかは、心や言葉は目に見えない為、流しっぱなしにした水のようにははっきりとは分からないと思われるかもしれません。
しかしそれも、あなたが普段何気なく、使っている会話の中での言葉を観察すれば一目瞭然です。もし人を褒める言葉や感謝を表す言葉の数に対して、他人に対する文句、自分がおかれている状況などへの不満の言葉の数の方が多ければ、慎みのある心を持っているとは決して言えないでしょう。それどころか、不平不満が多ければ多い程、貴方の中にある見えない蛇口の栓が大きく開かれ、人生を幸せに過すための大切な徳が流れ出てしまって無駄に捨てられているようなものと考えても良いでしょう。神様の御守護に感謝する気持ちを底辺に持つ「慎みの心」からは、どんな事に対しても自然と不平不満は生まれにくいからです。
「慎み」について、真柱様は、1998年、教祖御誕生200年の年に出された諭達第一号の中でも、「今こそ人々に元なるをやを知らしめ、親心の真実と人間生活の目標を示し、慎みとたすけ合いの精神を広めて、世の立て替えを図るべき時である」と諭され、慎みの心で生活し、助け合いの精神を広めることよう求めておられます。
また、おさしずにも
「慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に。」明治25年1月14日
とあり、私たちの幸せのうえで、「慎み」がどれほど大切なものかを教えて下さっています。
頭では分かっていても、それを実行することは簡単なことではありません。
しかし、今、これから2016年の130年祭に向けて、我々がなすべき事は、諭達に示された事柄をどんなことであれ、出来るところから、素直に実行することだと思います。
「慎みが理や、慎みが道や。」とまで、お教えくださる大切な「慎み」の意味するところをしっかりと掘り下げ、実行するなかで、「おたすけ」の相手を1人でも多くお与え頂けるよう、みなさんと共々に歩ませて頂きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。