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2023年7月月次祭神殿講話

英国連絡所代表、ロンドン櫻井布教所長 サイモン・パタソン

皆様ご存知のように、昨年、10月26日の秋季大祭で、真柱様は、立教189年1月26日に教祖140年祭を迎えるにあたり、年祭への三年千日の始まりに際して諭達をご発布なされました。

教祖の年祭は、明治20年陰暦正月26日に、私達人間の心の成人を急き込まれるため、定命を縮めて現身をお隠しになられた教祖を記念し、10年ごとに勤められています。

諭達第四号で、真柱様は私達に、教祖年祭への三年千日は「ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである」と呼びかけておられます。

教祖のひながたは、天保9年陰暦10月26日に、教祖・中山みき様が月日のやしろとなられてから、現身を隠される明治20年陰暦正月月26日までの50年間を指します。中山みき様は、月日のやしろになられる前は、40歳の妻そして母親であられました。しかし、天保9年陰暦10月26日のその日から、教祖のひながたとして知られる50年の旅路を始められたのです。

教祖はそのひながたを、貧のどん底に落ち切るところから始められました。私はこの意味を理解するのはとても重要だと思います。教祖は、親神様のやしろになられてから急に貧乏になられたわけではありません。教祖は、庄屋敷と呼ばれる、田舎にある村の、良家に嫁いでおられました。さらに教祖のご主人は庄屋をつとめていたので、何不自由ない生活を送っておられました。

しかし、教祖月日のやしろとなられたのち、教祖は私達人間に対して、与えられた物や経験の全てに感謝することがいかに大切かを知ってほしいと思われました。そのため、教祖がまず最初にされたことは、中山家の財産などを全て、困っている人々に施すことでした。さらに、物質的な成功よりも、他の人をたすけたり、慎みのある生活を送ることの方がはるかに大切であることを、隣近所や周りの人々に示すため、中山家の家屋を取り壊されたのです。

教祖伝第三章「みちすがら」に、

嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困っている人々に施された。

とあります。

また、教祖は、一れつ人間をたすけたいとの親心から、自ら歩んでたすかる道のひながたをお示しくださいました。さらに、物を施して、物への執着を捨てることで、心に明るさが生まれ、自ずと陽気ぐらしへの道が開けると教えられました。

初めは、教祖の家族も含め、このような教祖の行いに、人々は、気が狂ってしまったのではないか、悪霊に取り憑かれているのではないかと教祖を信用することができませんでした。しかし、教祖は笑顔で、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」と仰いました。

そして、村の人やその周辺の方たちに、自身が穏やかで優しい心の持ち主であることを示すために、裁縫を教え始められました。その結果、村の人たちは次第に、教祖の気が違ったわけでも、悪霊に取り憑かれたわけでもないことに気づき始めました。またその頃には、教祖の息子の秀司様も寺子屋を開き、村の子供たちに読み書きを教えていたことから、家族揃って人だすけのために働かれていたことがわかります。

嘉永6年、教祖が56歳の時、最愛の夫である善兵衞様が66歳で出直されました。教祖はその年、17歳だった末娘こかん様と3人の信者を、親神様の神名を流すため浪速の町へと遣わしました。そしてこかん様は、教祖に言われた通り街頭で「なむ天理王命、なむ天理王命」と拍子木を打ちながら神名を唱えられたのです。これは天理教の布教の始まりを意味する重要な出来事でした。

翌年、教祖が57歳の時、教祖は「をびや許し」を始められました。その当時、出産は命懸けのことでしたので、「をびや許し」を始められたのは教祖のひながたにおいて、非常に重要な出来事でした。そして、人々は次第に、教祖の不思議な力を信じ始め、教祖が言うことに耳を傾け始めました。をびや許しを下さる時には、教祖はこのようにおっしゃいました。

人間思案は一切要らぬ。親神様に凭れ安心して産ませて頂くよう。

それから数年後、教祖が60歳を過ぎたある日、娘のこかん様からもう家にお米が残っていないことを知らされましたが、それを聞いた教祖は、

世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。

と諭されました。

諭達第四号で、真柱様は、

教祖はどんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられた。

とお諭くださっています。

私は、立教189年1月26日に勤められる教祖140年祭に向けて、三年千日の歩みを迎えている今だからこそ、皆さんに、教祖のひながたの全容を読むことができる教典や教祖伝と言った教理本を、今一度読み直していただきたいなと思います。

教祖は50年にわたるひながたの間、私たちが今お道の教えと呼んでいる陽気ぐらしへの道を教えてくださいました。その中で、おつとめの手振りと鳴物、元の理、十全の守護、八つのほこりたんのうかしもの・かりものおさづけひのきしんを教えられ、さらに天理教の三原典の一つであるおふでさきを書かれました。しかしおそらく一番大切なことは、教祖は長年のご苦労や投獄の間でさえも常に明るくお通りくだされましたが、そこから、どんな困難な状況にあっても、親神様に凭れ感謝することの大切さを教えてくださっています。

さらに、諭達を読むと、教祖が「人救けたら我が身救かる」と教えられたように、自分のことを考える前に、他の人のことを考えることの大切さを教えてくださっています。

今から37年前の1986年1月15日、ちょうど教祖100年祭を11日後に控えたその日に、私は26歳でよふぼくとなりました。私はその前の年、ちょうど妻と結婚する少し前に、別席を3席運んでおりましたが、それが私の初めてのおぢばがえりでした。私はその時、本当にふるさとに帰ってきていると感じたのを覚えていますし、その時の東西礼拝場の新しい畳の匂いは今でも忘れられません。そして初めておぢば月次祭に参加した時、何百人もの人たちと一緒に畳の上に座って、教祖が教えてくださったみかぐらうたを唱和し、おつとめをする、そのなんとも言えない素晴らしさを覚えています。ちなみに私は畳の上に座るのがとても好きで、以前は正座をするのを楽しんでいましたが、今はもうできません。その時の月次祭の最中、長時間床に座っていたせいで、体が痛み始めたのですが、突然、誰かが私の肩をマッサージしてくれているのを感じました。誰がやっているのだろうと振り返ってみましたが、誰もいませんでした。それはきっと教祖の力強くも優しい手だったのではないかと、今でも思っています。

あれから何度もおぢばに帰らせていただいていますが、帰るたびに親神様と教祖の温かい親心を強く感じられ、感謝の気持ちで一杯になります。私が最後におぢばに帰ったのは、2020年1月の春季大祭で、ちょうどコロナウィルスの大流行が始まる直前でした。私は、ロックダウンの直前に、教会、上級教会、大教会、そしておぢばに参拝できたことは、神様のご守護だと感じており、心から感謝しています。その後の英国連絡所での2年間は、ソーシャルディスタンスをとりながら、何度もZoomで月次祭を行わなければなりませんでした。また英国の信者さんを励ましながら、明るく陽気にいていただけるようにも努めました。コロナウィルス大流行のため、この3年間おぢば帰りが出来ず、その思いが募ってきていますが、今年の10月の秋季大祭に合わせて帰参する予定ですので、またおぢば教祖殿で、温かい親心を感じられるのを楽しみにしています。

また、立教189年1月26日、教祖140年祭としてつとめられる春季大祭におぢばで参拝する予定で、それも楽しみにしています。そしてその時に、私自身のおさづけの理拝戴40周年も祝うつもりです。ここにお集まりの多くの方々も、その日に合せておぢば帰りができることを願っています。私達がそこにいることで、必ず教祖はお喜びくださるだろうと確信しています。

ご清聴ありがとうございました。

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