Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所長 長谷川善久
さて、私たちは先ほど一月の大祭をつとめさせて頂きました。今日の大祭をつとめるにあたって私たちの気持ちの上で大切な点は、教祖のひながたの最後をもう一度思い起こすこと。そして、その限りない親心に対して捧げる感謝の気持ちを新たにさせて頂くことです。
西暦1887年1月26日、教祖は、世界たすけを進めるうえから、姿を隠し、広くおさづけの理をお渡しくださるようになりました。
姿は見えないけれども、日本のみならず世界中どこにでもお出掛け下され、私たちようぼくを導き、陽気ぐらし社会実現のための道具としてお育て下さるようになったのです。25年の定命を縮めてまでも人間をたすけてやりたいと思って下さった教祖に感謝の念を持つことは、その親心にお応えしている自分であるだろうかと自問することに繋がるとも思います。
教祖の親心とは、一言で言うと、たすけ一条の心であり、教祖50年のひながたはたすけ一条のひながたです。立教に始まり、教祖のひながた、教祖年祭の元一日、そして存命の理をもってするお導きを一貫しているのが、一列子供をたすけたいとの親心です。
はたして私たちは、日頃からこのような身に余る教祖からいただく愛に感謝しているでしょうか。その感謝を表し、親神様に胸の埃を払っていただく朝夕のおつとめを真剣につとめているでしょうか。
出張所でも毎日朝勤めの時に拝読させていただいている諭達第四号に「よふぼくは、進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。」とあります。
日頃、教会や布教所、また出張所に足を運ぶことが難しい人。また人にお道の話をすることが苦手でにをいがけが出来ないと思っている方もおられるでしょう。そのような方でもおつとめだけはご自宅で、一人であっても出来ると思います。先程の諭達にあるように、せめて、身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願わせていただきたいと思います。
おつとめを真剣につとめる為にも、手振りは一緒でも、今日のおつとめは、昨日のおつとめとも違い、明日のおつとめとも違うということを意識することが大切です。一生の中で一度きりのおつとめだということです。その事を思えば思うほど、自然と一回一回のおつとめの価値、重要性が意識され、より真剣になりにならざるを得ません。
終始、心が揺らぐことも無く、真っ直ぐ神様に向かってつとめることのできたおつとめほど、日常の雑多な心配事が消え去り母の懐に抱かれたような温さが心に広がることを感じます。そして、そのような感覚を体験させてくれるおつとめとは、多くの場合、誰か他の人のたすかりを真剣に願うなかでつとめた時であることは、みなさんも経験があるのではないでしょうか。また年祭活動において、教祖のひながたを辿ることを至る所で耳にするわけですが、私はおつとめをつとめるという行為自体が、教祖のおひながたを歩んでいることを意味すると思っています。教祖のおひながたは、私達におつとめを教え、それを実行させることを促される道であったからです。
私達は、真剣におつとめをつとめることで、親神様に埃をはらって頂き、「身上かしもの・かりもの」への感謝、つまりは身近な人を含めた、全ての身の回りの物事への感謝がより深まるようになるのです。
そして、その先にあるのが、他の人と心が繋がり合う「一手一つ」の生活です。
おさしづには
一手一つに皆結んでくれるなら、どんな守護もする。(M31.1.19)
と教えられています。
そして、「一手一つ」になるために、欠かすことのできないことが、「談じ合い」です。お互いに心を繫ぎ合い、一手一つになるためには、教祖の教えを芯に談じ合いをすることが大切なのです。
このことについても、おさしづに
皆々談じ合ってすれば、どんな事でも出来てくる。(M.27.6.29)
とある通りです。
3代真柱様は、教会内容の充実と談じ合いについて、神殿講話で次のように教えて下さっています。
教会が末代まで親神様の思し召しに添って発展するには、まず教会に人が寄らなければなりません。そうしてお互いが成人できるよう、神一条に物事を談じ合い、たすけ合わなければなりません。そうして、この場合の談じ合いとは、自分の意見を勝手、勝手に言い合うのではないのであります。教祖のお心に自分たちの心の向きを変え、喜び勇めるよう話し合うことが私の申します談じ合いであります。」また「教会の陽気ぐらしということは、陽気ぐらしすなわち親神様の思召を求める人たちが寄り集う所であるということであります。そういう人たちが談じ合い、練り合い、諭し合い、励まし合うのでありますから、たとえ性質は異なりましても、癖性分は異なりましても、必ずその人々の心から発散するところの雰囲気は陽気ぐらしそのものになるということを私たちは教えられておるのであります。(秋季大祭神殿講話 1991年)
この出張所においてもあらゆる状況、場面において喜び勇めるような談じ合いを通して心の触れ合いをし、陽気ぐらしの雰囲気のなか一手一つの動きをより充実していけるよう努力していきたいと思います。
さて、2026年1月26日まであと一年となりました。漠然としていたものが、現実味を帯びてきた人もいることでしょう。ご本部より、この教祖140年祭は、2026年1月26日のみ勤められると聞かされています。
親から子、子から孫へと信仰が伝わり、これまで代を重ねてどんななかも結構にしていただいた信仰です。今一度、これまでの自らの信仰の道を振返り、この信仰を自分の代では子供達にどうしたいのかということまでも思案を進めることも、三年千日活動の今の旬にすべきことだと思います。
どのような困難にあっても教祖に喜んで頂ける道を何とか捜し出そうとする強い意志、努力が真実の種であります。この真実の種を蒔く思いが、教祖に導かれるままヨーロッパにおいても大きく広がっていくことを心から願っています。
ご静聴ありがとうございました。