Tenrikyo Europe Centre

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2017年10月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

立教180年の年も早いものでもう10月に入りました。月次祭以外の、これまでの主な行事を振り返りますと、多数の未信者ボランティアの協力を得て開催しましたチャリティーバザーでは、今年も入場者数約600名から寄付金6000€以上の大金をお預かりすることが出来ました。7月には天理教の集い、8月末には パレット(若者の集い)が賑やかに開催され、夏のこどもおぢばがえりでは、ヨーロッパグループとしてパレードにも参加頂きました。参加した子供の中には、自分が楽しむだけでなく、参加者受け入れのひのきしんを行った子達がいたことも大変嬉しいことでした。

そして、この10月、11月には、みなさんにをいがけをしていただく好機となる 陽気ぐらし講座 をヨーロッパ4カ国で開催いたします。当出張所での開催は10月29日15時からとなります。また、天理日仏文化協会でも昨年同様、1000名を超える登録があるなか多種多彩な活動が活発におこなわれました。

ご存じの通り、出張所も文化協会も信仰実践の場であります。日々に頂く親神様のご守護、真柱様、また各自が所属する会長様からお掛け頂く親心に対して、「ありがたい」「もったいない」という気持ちで行う「ひのきしん」の上に、親神様、教祖が更なる実をお見せ下さっているのだと思います。

さて、天理教は今から176年前の江戸時代後期、1838年10月に始まりました。この事から、10月のお祭りは月次祭ではなく大祭と呼び、世界の平和を祈念すると共に、立教の元一日を振り返り、そこに込められた思し召しを噛みしめ、教祖の道具衆として、新たなる一歩を踏みだす日とするよう教えて頂いております。

今日は、時間の関係もありますので、立教の元一日については、教典教祖伝をお読み頂くということで、特に触れず、むしろ、教祖の道具衆として新たなる一歩を踏み出す気持ちが少しでも皆さんの中で高まればという思いから「幸福」について、お話をさせて頂きます。

教典では幸せについて、以下の様に書かれています。

人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定まるのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。

私達は、日頃「幸せ」を求めて生活しています。私もそうですし、勿論、皆さんもそうであるに違いありません。自ら不幸な人生を送りたいと思っている人は一人もいないでしょう。しかし、現実には、自分は、不幸だと言う人が沢山います。私の周りにもお金や地位、教養や元気な身体さえあるのに、毎日を憂鬱に暮らしている人がいます。残念ながら、人は幸せになるために生きているけれども、何をしていても必ず幸福になるようには作られていないようです。

幸福とは、まずもって、心の「状態」を指している言葉です。

状態とは、ある特定の時間の様子を言うわけで、自分の心の中に湧き上っているこの瞬間の「喜び」の気持ちが、「幸せ」の状態を私達にもたらしています。

また、幸せは、主体的な欲求を満足させることから生れます。主体的ということは、つまり私の幸せに関係する欲求は、誰か他人の欲求ではなく、幸せを享受する本人である私のみが抱く欲求なのです。ですから、その欲求を毎日の生活の一瞬一瞬で、増やしたり、減らしたり、変化させるのも私自身でしかあり得ません。

みかぐらうた5下り目の5つに、

いつまで信心したとても 陽気づくめであるほどに

とあります。

この日本語の信心という言葉について、ある日本の宗教哲学者は、この信心の「信じる」とは、未来の出来事を期待するためではなく、現在の心の状態を表現すために使用されるものだと説明していました。神に対してあれこれと願う未来への期待があれば、実は厳密な意味での信心とはいえず、現在の心の状態を神に表すことが本当の信心であるといいます。

その意味においても、日頃から親神様、教祖に対して、第一に、私が表すべき思いは「現在、私は満ち足りています。ありがとうございます」という「感謝」に尽きることがよく分かります。

よく、人間の生き方には、二種類しかないといわれます。

それは、人生の時間がすぎ去るのをただ眺めて、動物的本能のまま自己中心的に「生きる」か、あるいは、神の子としての尊厳を保ち、理性と感謝の気持ちを持って、人生の時間をより良く過ごすかの2つです

実際、多くの宗教は感謝することを教えています。文化的にも、紀元前の時代から 現在まで、感謝は、時代を超えて推奨されており、感謝はビジネスにも役立つと言われています。ほぼ全ての言語は感謝の言葉を持っているそうで、人間社会のどこであっても、とにかく美徳だと言われていることに間違いはありません。

では、この幸せのキーワードとなる「感謝」について、学問の上では、いったいどのようなものととらえられているのでしょうか。

驚いたことに感謝についての科学的な研究は1990年代に始まったばかりで、ここでは感謝(gratitude)は「個人が価値あるものと評価しているものを,他者が意図的にくれた,もしくはくれようとしたときに感じる肯定的感情」と定義されています。

一方で、この先駆者として知られるカリフォルニア大学のロバート・A・エモンズ教授などは、感謝を「命あることへの驚き」とも定義し、感謝の能力は人類のDNAに深く織り込まれているとも述べています。

カリフォルニア大学教授、心理学者のリュボミアスキー博士は、感謝することには次のような効果があることを発表しています。

  1. 感謝の想いによって、ポジティブな人生経験をますます味わえるようになる。
  2. 感謝を表せば、自尊心や自信が高まる。
  3. 感謝は、ストレスやトラウマに対処する助けになる。
  4. 感謝の表現は、道徳的な行いを促す。
  5. 感謝は社会的な絆を築くのを助け、これまでの人間関係を強化し、新しい人間関係を育む。
  6. 感謝の習慣は、ネガティブな感情とは両立せず、怒りや苦々しさや欲望といった気分を減らしたり、防いだりする。
  7. 感謝は、嬉しいことにも慣れてしまう性質を妨ぐ。

以上のように、感謝には、ポジティブ感情、信頼、優しさ、社交性など、社会的な側面の強い性質があることが分かっています。日頃から感謝を感じやすい性格の人は、人生の満足度が高いことも分かっているそうです。

この中の7番目、感謝は、嬉しいことにも慣れてしまう性質を妨ぐ効果というのも、私達が、日頃、親神様のありがたいご守護に慣れないようにするためにも重要な点かと思います。

また「4番.感謝の表現は、道徳的な行いを促す。」について、興味深い話がありました。

それは、 ある大学の研究で「ありがとう」といった感謝の表明を心掛けさせると、それが親切行動への動機付けになり得るかを調べるものでした。

実検は、一週間、一日一回以上、自分の周りの人に「ありがとう」と伝えさせ、以下のような質問に答えてもらったそうです。

  1. 今日の「ありがとうの数。
  2. 今日受けた親切のなかで最も嬉しかったこと。
  3. 2番の親切をどのくらい嬉しく感じましたか。

そして、その後、実験者の親切行動の回数を比べたところ、増加が認められたそうです。

この研究者は、その理由として、ポジティブな感情が高まりを挙げていました。

私達、このお道の信仰者は、このような研究結果が無くとも、すでに教祖より感謝することがどれほど、幸福に生きることの上で大切なのかを教えて頂いています。

個人的には、私達、信仰者が、感謝の心を持つことで、幸福に向け歩む筋道は、次のようなではないかと思います。

まず、かしものかりものの教えを深く信じること。何事にも感謝をするようになると嫌なことでも受け入れる力が増します。そして、何事も受け入れる力が増すと、不安恐怖がなくなり心が自由になります。心が自由になると、人を愛する力が増します。愛する力が増すと気持ちが前向きになり、「勇み心」が出てきます。「勇み心」が増すと、今以上に、おやさまのひながたをたどることができるようになります。そして、ひながたを辿るにつれて、自らの徳分もより発揮され、心の状態がいつでも、幸福感で包まれるようになっていくと思います。

昨年、中田善亮、表統領は所信表明の中で、今こそ、真剣に根本から信仰的な思案をするときであると述べられました。その中で、ご守護を感じ、感謝しているかを思案するように求められました。

普段から何気無いことに感謝する心を持ち続けるということは、簡単なことではありません。私自身はその事を強く実感しています。努力が必要です。

だからこそ、感謝という、この短い一言が持つ不思議な力を信じて、これから、しっかりと心を定めて毎日の生活の中で「ありがとう」を一回でも多く伝える取組みをしていこうではありませんか。

最後におふでさきを2首引用して私の話を終わらせて頂きます。

このよふをはじめた神の言うことに
先に一つもちがうことなし1号43

しやハせをよきよふにとてじうぶんに
みについてくるこれをたのしめ2号42

ご静聴ありがとうございました。

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