Tenrikyo Europe Centre

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2023年2月月次祭神殿講話

内子パリ布教所長 松川高明

皆様ご承知のように、教祖百四十年祭に向かう三年千日の活動が先月より始まりました。教祖年祭の元一日は、教祖が九十歳で現身を隠された、明治二十年陰暦正月二十六日にあるとお教えいただきます。

おさしづに、

さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで/\。(明治23・3・17)

存命々々と言うであろう。存命でありゃこそ日々働きという。(明治29・2・4)

影は見えぬけど、働きの理が見えてある。(明治40・5・17)

と仰せ下さいますように、教祖はお姿こそ隠されましたが、お魂は元の屋敷におとどまり下さり、今なおご存命で、世界たすけの上にお働き下されているのであります。このご存命の教祖の親心に応えて、たすけ一条の道を真剣に通らせていただき、少しでも成人した姿を教祖にご覧いただき、お喜びいただこうと、年限を仕切ってつとめるのが、教祖年祭の意義であるとお聞かせいただきます。

教祖が今なおご存命でお働きくだされている証拠の一つとして、次の話を紹介させていただきます。これは私の友人が経験したある不思議な話です。

ずいぶん前の話になりますが、ようぼくである友人がビルの管理の仕事をしていた頃の話です。

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それは、ある夏の暑い日のことです。彼が若い従業員とビルの上層階で仕事をしていたら、下の道路を熱心に神名流しをして通る老夫婦とお孫さんらしき二人の小さい子供の姿が見えたのだそうです。彼は暑い中、大変熱心な方々だと感心して、若い部下に「すまんが、このお金で下を通って行く、あのご家族にアイスクリームを買って、差し上げてくれないか」と頼んだそうです。

「わかりました」とその部下がすぐに言いつけ通り、アイスクリームを差し上げて戻ってきて、釣り銭とレシートを友人に渡しました。

「ありがとう」と言って、彼は何気なくレシートを見たら、アイスクリーム5個と表示されていたので、部下が自分の分まで買って食べたのだなと思った彼は「家族は4人なのに、5個買って、お前も食べたのか」と聞いたら、その若い部下は「いいえ、僕は食べたりしてませんよ。4人じゃなくて、5人いましたよ。一番先頭には赤い着物を着たおばあさんがいました」と答えたのだそうです。まったく信仰のない若者の目に赤衣を召された教祖のお姿が見えたのかと思い、友人は驚きのあまり息を飲んだそうです。
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私達ようぼくが勇気を出して、にをいがけ、おたすけにかかる時、教祖は必ず先回りをして、私たちの先頭に立ってお働き下さっているのだと、確信せずにはいられません。

私たちは年祭活動の千日の間、教祖がお通りくださったひながたの道を手本に歩みを進め、たすけ一条の御用の上に一層専心して通らせていただき、ご存命の教祖に、より成人した姿を御覧いただき、御安心いただきたいものであります。

諭達第四号で、真柱様は、世界たすけの歩みを進めるためのようぼくの大切な角目として、次のように五つに分けて分かりやすくお示しくださっています。

  1. 進んで教会に足を運ぶ
  2. 日頃からひのきしんに励む
  3. 家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛ける
  4. 身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願う
  5. 病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝える

この五つの角目を、日々忘れることなく意識して勤めさせていただけば、親神様は必ずその真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下されるのだと仰せいただきます。

教祖が現身をお隠しになられて後、道の先輩方は教祖の年祭を成人の一里塚として、たとえ、いかなる節をお見せいただいても、教祖はご存命のままにお働き下されていることを固く信じ、旬々におかけくださる親のお声に添うて通って来られました。教祖の最初の年祭は、一年祭として、明治21年に執行され、続いて、5年祭、その後は10年ごとに、教祖の年祭が執行されております。そして、来る3年後の一月二十六日には、教祖百四十年祭が執行される運びとなっているのであります。

昔ある先生から教祖年祭に向けての心構えについて聞かせていただいたお話に、「やる気」という言葉がありました。それは、教祖の年祭を、自分が成人させていただける機会だとしっかりと自覚し、「やる気」をもって臨めるかということであろうと思います。勉強や仕事もそうですが、自分から「よし、やるぞ」という気構えを持たなければ、何ごとも長続きしません。心定めはこの「やる気」を文字化したものだと思います。頭の中で考えているだけでは、現実化しません。自分の「やる気」を文字にして書き出すことによって、自分がどのように行動すれば良いのかが明らかとなり、その行動を継続することで、自分が考えていることが現実化していくのだと思います。まさに「思考は文字化すると現実化する」と言われる所以です。

さて、ここヨーロッパ出張所におきましても、教祖140年祭が勤められる2026年1月26日までと日を仕切って、ヨーロッパ管内全体で勤められる月次祭への参拝者人数を8000名、そして初参拝者数500名の数値目標を定めております。またこの三年千日活動における成人目標として、次の四つを掲げております。

  1. 月次祭に参拝しよう
  2. 家族や知人を誘って参拝しよう
  3. 日々の感謝の気持ちを表そう
  4. 次世代に信仰を伝えよう

こと分けてお話ししたいと思います。

まず1番目の「月次祭に参拝しよう」です。

先ほど述べました、諭達第4号のようぼくの歩みにおける五つの角目の最初に「進んで教会に足を運ぶ」とありました。先月のご本部の春季大祭の神殿講話で表統領先生がそれに触れられておりましたが、「なぜ教会に運ぶのか、それはそこに親神様、教祖の御理が祀られているからであります。子どもが親の元に足を運べば親はまずお喜びくだされます。物理的におぢばへ毎日運ぶことがかなわなくても、教会なら運べます。おやの思召しや親心をわからせていただくには、それが一番の近道なのです。」とおっしゃいました。教会には親神様、教祖の御目標様が、また布教所や講社をお祀りしているお宅には、おぢばから下付された神実様がお祀りされています。親神様、教祖にしっかりと心を繋がせていただくためには、神様をお祀りしている教会や布教所に足を運び、おつとめを勤めさせていただくことが何よりも大切なことであると思います。日々のご守護に御礼申し上げ、人のたすかり、世界の治まりを願って、真剣におつとめを勤めることが大切なのであります。

月次祭の理合いについては、教祖の逸話篇に次のようなお話があります。

「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は、何もするのやないで。この日は、結構や、結構や、と、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」

「二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで。」

ご承知のように、各教会や布教所で勤められる月次祭は、おぢばで毎月26日に勤められるかぐらづとめの理を受けて勤められるものです。「この日は、結構や、結構や、と、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」と仰せられるように、日々の身上かりもののご守護に御礼申し上げ、人のたすかり、世界の治まりを願って、真剣におつとめを勤めさせていただきましょう。

2番目は、「家族や知人を誘って参拝しよう」です。

家族を誘って参拝するのは、それほど難しくないのかもしれませんが、逸話篇にもあるように、『男の子は、父親付きで』とか、子どもを伴わずに参拝された方に『道切れるで』とか、夫婦はもちろんのこと、親子が揃って参拝することの大切さを教えてくださっています。

また、未信者の知人を誘うには、ひとことのにをいがけが必要となります。

みかぐら歌に、「ひとことはなしハひのきしん にほひばかりをかけておく」とお示しいただきます。前真柱様がご発布くださいました諭達第3号においては、「一言のにをいがけは、人の運命を変える。それは、をやの声を聞く時、心の向きが変わるからである」とお教えくださいました。ちょっとの話を以て匂わせておく、またなるほどの人という良き匂いを以て信仰を伝える。そしておつとめが勤められる場所であるところの、この出張所や近くの教会、布教所、講社をお祀りしているところへご案内させていただくことが大切なのであります。最終的には、おぢばへお帰りいただいてようぼくになっていただくということが、大きなおてびきとなります。先ほども述べましたように、私たちはこの3年間で初参拝者数500名の数値目標を定めております。私たちようぼく信者が今まで以上に積極的に周りの知人にお声がけをし、初参拝のご守護がいただけるように頑張りましょう。

3番目は、「日々の感謝の気持ちを表そう」です。

日々の感謝の気持ちを行動に表すには、ひのきしんをさせていただくことが一番であります。教典に次のようにお教えくださいます。

ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。」

ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。」

さて、ここで少し話は脱線しますが、皆さんが考える幸せのバロメーターって何でしょうか。

ある調査で、幸福度が高い人が選ぶ「幸せのために重要」だと思うことは何か、という問いに対して次のような結果が出ました。1位は「健康」、2位「精神的なゆとり」、3位「経済的なゆとり」、4位「配偶者・パートナー」、5位「自由な時間」という回答になったそうです。しかしながら、私たちの周りを見渡してみると、身体が健康でも不幸だと感じている人や、お金や物に不自由していなくても、自分は不幸だと思っている人が意外に多いのではないでしょうか。

それはなぜでしょうか。それは「感謝する」という心がないからではないでしょうか。

小さなことや普段通りの日常に幸せを感じる人がいる一方で、恵まれた環境でも幸せに感じられない人もいます。私たちの日常には、本当は小さな幸せのかけらがたくさん転がっているのです。それに気づかせていただけるかどうかは、「感謝」という言葉がキーワードになります。神様に守られて日々生かされていることに感謝し、家族の絆に感謝し、人の思いやりに感謝し、すべてのお与えに感謝すること。まさに感謝にあふれ、感謝に囲まれた生活こそが、最も不自由から遠い生活だと言えるのではないでしょうか。その感謝の気持ちを行動に表したものが、ひのきしんなのだと思わせていただきます。

最後の4番目は、「次世代に信仰を伝えよう」です。

諭達第四号で、真柱様は次のようにお示しくださっています。

教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。

かように、信仰を引き継いでいく大切さをお説きくださっています。

教祖の逸話篇でも次のように仰せくださっています。

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」

私たち信仰者は、教祖お一人から始まったこの道を、先人たちがひながたを心の頼りとして懸命に通ってくださったように、我々の次世代にしっかりと信仰を引き継いでいく義務があるのだと思わせていただきます。

私たちは、「十年の中の三つや」と仰せ下さる親心を有り難く受け止めさせていただき、三年千日と仕切って目標を定め、今より少しでも成人させていただき、ご存命の教祖にお喜びいただけるよう努めさせていただきたいと思います。

そして、この3年間はこれまで以上に「教祖教祖」と"教祖"を慕い、心明るくひながたの道を歩み、たすけ一条の実践に励ませて頂きたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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