Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所役員 小林弘典
本日は、「八つのほこり」、その中でもとりわけ「かわい」について、考えさせていただきたいと思います。
「八つのほこり」とは、身上、事情の元となる人間の心のほこりのことです。日々「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」と唱えますが、この「あしき」とは、「八つのほこり」を意味します。ですから、その手振りが表しているように、「あしきをはろうて」と唱えながら、自分自身の胸をはらいます。日々の「おつとめ」においても、「月次祭」においても、とりわけ何かを願うときも、常に「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」と唱え、自分の胸をはらいます。
「お願いづとめ」「お礼づとめ」という言葉をよく耳にしますが、お願いには、お願いの、またお礼には、お礼の「つとめ」があるわけではなく、いつ、いかなる場合も、「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」と唱えます。身上をお持ちの方に「おさづけ」を取り次がせていただく際も同じです。
つまり、「八つのほこり」は、教えの基本と言えると思います。そして、この「ほこり」が事情、身上の元であると教えられているのと同時に、その「ほこり」をはらうことが、親神がこの世人間をおつくりになった目的である、神人和楽の「陽気ぐらし」の第一歩でもあるとも言えます。
「つとめ」の出だしは、常に、「あしき」と唱え、「合掌」しますが、これは、何よりもまず、自らの「心のほこり」についてしっかりと思案しなければならないということを意味しています。
なぜ、いつ、いかなる際も、まず最初に、「あしき」、つまり「八つのほこり」について思案しなければならないか。ここに、「人間をたすけたい」という親神の大いなる親心が込められています。
さて、この「八つのほこり」についてですが、「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と教えられています。そして、今日、なぜ、その中の「かわい」について、思案させていただきたいかと言いますと、これは、今、私がいちばん積んでいる、また積みやすい「ほこり」ではないかと思ったからです。
話を進める前に、まず、フランス語の訳について、言及しておかなければならないと思います。
フランス語では、この「かわい」は、「égoïsme」と訳されています。この、「égoïsme」を手元の辞書で見てみると、「興味や楽しみを満たすための過度の執着心」といった内容の説明があります。また、フランス語の「égoïsme」は、日本語では「利己主義」とか、そのまま「エゴイズム」と訳されています。これらは、「かわい」という「ほこり」の説明とほぼ一致するもので、別に翻訳に問題があるとは思いません。適切な訳だと思います。
しかし、一方で「かわい(い)」を辞書で引くと、フランス語では、「mignon, gentil(e), joli(e), adorable, petit(e)」という訳になっています。
では、なぜ、教祖は、「執着」とか「利己主義」と言わずに、「かわい」と説いたのでしょうか。「執着」や「利己主義」なら、他の「にくい」「うらみ」「はらだち」「よく」などと言った言葉と同様、聞いただけで、好ましくない印象を受けます。しかし、「かわい」だと、日本語を母国語としている人なら、むしろ好ましい印象を持ってしまいます。
最初、教祖がご在世であった頃は、この「かわい」は、むしろ好ましくない意味で用いられていたのかとも思いました。言葉というものは、時の経過と共に意味や用法が変わることがしばしばあります。しかし、教祖が自ら筆をとってお書きになった「おふでさき」の中にも、この「かわい」という表現が、たくさん出てきます。
例えば、
一列のこどもがかわいそれゆえに
いろいろこころ尽くしきるなり(4-63)人間の我が子の意見思てみよ
腹の立つのもかわいゆえから(5-23)一列のこどもはかわいばかりなり
どこにへだてはさらになけれど(15-69)こんなことなんで言うやと思うなよ
かわいあまりて言うことやでな(16-41)月日には世界中はみな我が子
かわいいっぱい思ていれども(17-68)
というお歌があります。
フランス語訳の「おふでさき」では、これらのお歌の「かわい」は、全て「amour」と訳されています。「エゴイスム」と訳されているお歌は、
この道はおしいほしいとかわいいと
欲と高慢これがほこりや(3-96)
だけです。(おふでさきは、すべてひらがなを一部漢字に変えてあります)
これらの事実を見ても、教祖が「おふでさき」を執筆なさった頃も、「かわい」は決して悪い意味では、用いられていなかったことがわかります。むしろ、フランス語で、「amour」と訳されている意味の方で用いられることのほうが多かったことは間違いないでしょう。教祖は、子を思う親の愛、人間を思う親神の愛、これらを「かわい」という言葉で表現されたのだと思います。
さて、私たち夫婦は、昨年、長男を授かりました。私は、長男を見ては、日々「かわい」と思いますし、実際口に出して言うことも多々あります。また、人から息子が「かわい」と言われると嬉しいものです。日本語を話されない方には、少しわかりにくいかも知れませんが、この「かわい」という言葉は、日本人にとっては、ほんとうに日常的な言葉で、小さな子供や子犬やかわいい女の子を見たときには、だれもが発する言葉です。それが、「ほこり」と言われても、なかなか理解に苦しみます。しかし、その「かわい」が、八つのほこりの一つだということは、そこに非常に重要な親神の思召しがあるのではないかと思い、改めて考えてみました。
話は変わりますが、教祖の教えで、いつも「八つのほこり」とともに説かれるのが、「かしもの・かりもの」という教えです。どちらも、天理教教典では、第七章に記されています。簡単に言えば、親神は人間一人一人の心に体を貸しているのであり、人間の側から言えば、一人一人の心が親神から体を借りているという教えです。
とはいえ、私たちは親神と体の賃貸契約を交わした覚えはなく、また、私たちの体のどこかにその印が刻まれているわけでもありません。ですから、何度も聞かされ、頭では理解できているつもりでも、健康な毎日を暮らしていると、ついついそのことを忘れてしまいます。そして、自分の体は自分のもの、目が見え、耳が聞こえ、鼻がきき、口で飲み食いし、話し、手足が思うように動くということが、「あたりまえ」だと思ってしまいがちです。
長男が生まれたときは、元気かどうかを確かめ、喜ばせて頂きました。今となっては、「あたりまえ」のことのよう思いますが、本当に嬉しいものでした。産後の妻の体も心配しましたが、こちらも元気そうな妻を見て、安心しました。長男の出産に立ち会わせて頂き、私は、何とも言いがたい気持ちになり、ただただ親神のご守護や周囲の方々のご親切に感謝するのみでした。
しかし、だんだんと日が経つにつれ、その感謝の気持ちも薄れ、妻も子も元気なのが、「あたりまえ」と思うようになっていたように思います。感謝の気持ちを忘れたわけではありませんが、つい「あたりまえ」と思ってしまうのです。
ところが、生まれて間もなく、長男が便秘になり約一週間便がでないことがありました。私も妻も心配して、いろいろ手を尽くしましたが、なかなか出ません。そして、一週間ぶりについに便が出たときは、私も妻も、二人で大声を上げて喜びました。便が出るという「あたりまえ」のことが、こんなにも嬉しいもものかと、改めて感じ、親神のご守護に感謝すると同時に、「かしもの・かりもの」という教えについても改めて考えさせられました。
我が子は、「かわい」です。それは、「あたりまえ」です。「それは、間違っている。ほこりだ。」という人はいないでしょう。しかし、いつしか、子どもではなく、自分自身が「かわい」に変わってしまってはいないしょうか。一番こわいのは、「かわい」と言う心遣いではなく、それを「あたりまえ」だと思う心遣いではないかと思いました。
よく思案すれば、こういったことは、だれにでもあるのではないでしょうか。だからこそ、教祖は「八つのほこり」の一つに「かわい」という言葉を用いたのではないでしょうか。だれもが、「あたりまえ」だと思い込んでしまい、それが「あたりまえ」だと言い、ついその心遣いを顧みることを怠ってしまう。だからこそ、注意しなければならないと、お教え下さっているように思います。
自分の子どもだけではなく、他のことについても同じことが言えるのではないでしょうか。これは私自身のことですが、最初は、「ひとのために」と思ってやっていても、つい、いつしか「自分のために」と思うようになって、しまいには、「せっかくたすけてやっているのに、礼も言わん」と思うようになっていることがあります。また親神への「お礼」のつもりで 、つまり「ひのきしん」でやっていたことが、つい、いつの間にか、「自分自身に対する見返りを求める気持ち」に変わってしまって、「こんなにやっているのに、たいしていいこともないし、見返りもない」と思うようになっていることもあります。
人をたすけるとか、親神への恩返しと思ってやっていることは、たしかに、すばらしいことですが、その反面、いつの間にか、ほこりをつんでいるということがあるということには、なかなか気づきにくいものです。これを、「誠の中のほこり」と言うそうです。
もし、ほこりが、盗難、浮気、暴力、罵倒などと説かれていれば、もっとはっきりしますが、それでは、わかったときには、少し遅すぎます。ですから、その前に、その元となる、なかなか気づきにくい心のほこりを払いましょうという暖かい親心ではないでしょうか。
また「ほこり」という言葉についても、よく思案させて頂かなければなりません。まず、「ほこり」があるかないか、ということが問題ではない、ということです。例えば、今、私の目の前にある、この台の上にも、「ほこり」はたくさんあります。この神殿の空気中にも、ほこりはたくさん舞っているでしょう。それが、見える人もいれば、見えない人もいるでしょう。同様に、私たちの心にも、ほこりはあります。それに気づくこともあれば、気づかないこともあるでしょう。だから、教祖は「おつとめ」をせよと言われたのではないでしょうか。
また、「つとめ」によって、他人の心のほこりを詮索するのではありません。ですから、それを手振りに表してくださっているのではないでしょか。教祖は、他人ではなく、自分自身の心のほこりをはらいなさいと、「おつとめ」をお教えくだされたのだと思います。
ここで、おやさまの逸話編を一つ紹介させて頂きたいと思います。
明治十六年ごろのこと、おやさまから御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南へ三里ほどの所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、いまだかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかってきた。高井は「私は、まだ、その事について、おやさまに何も聞かせて頂いておりませんので、今すぐ帰って、おやさまにお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、おやさまにお伺いした。すると、おやさまは、
「それはな、どんな新建(しんだ)ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りをしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくによってに、掃除するやろう。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が浸み込んで、鏡にシミができるのやで。その話をしておやり。」
と、仰せくだされた。高井は、「ありがとうございました。」とお礼申し上げ、すぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」とお取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事を言ってすまなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。
(天理教教祖逸話編、130「小さな埃は」、219ページ)
現在、天理教ヨーロッパ出張所では、2年後に創立40周年を控え、「各家庭に親神様をお祀りましょう」と呼びかけています。しかし、これは、お社を据えるのが目的なのではありません。お社を据えて、日々、「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」とおつとめをして、心のほこりをはらおうというのが目的です。また、これは、天理教ヨーロッパ出張所からのお願いではなく、教祖の口を通して告げられた親神からのお願いです。
おやさまは、「世界一列をたすけるために天下った」と仰せになり、「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」のおつとめをお教えくださいました。世界一列をたすけると言っても、別に、「大規模な救済活動をせよ」とは仰っておりません。「おつとめ」を通し、銘々の「ほこり」を思案し、その「ほこり」をはらうことこそが、世界一列をたすける第一歩であり、最も大切なことだということではないでしょうか。
最後になりましたが、今日は、天理教ヨーロッパ出張所の月次祭です。月に一度の心の大掃除の日です。一人一人のきれいになった心を親神がお受け取り下さり、また来る一か月を無事に親神にお連れ通り頂き、来月のこの日に、また皆様とともに月次祭がつとめられますよう心より願い、講話を終えたいと思います。