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2019年9月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

天理教では、教祖の半生ともいえる「ひながた」をたどることが重要だと教えられています。つまり、教祖の半生が私たちにとって、人生のモデルという風に考えられています。しかし、私たちは本当にひながたをたどっているでしょうか。みなさんは、日々ひながたを実践されているでしょうか。無意識のうちに、日常生活でひながたを忘れていないでしょうか。

実際、ひながたを実践しないでおこうと思えば、いくらでも言い訳はできます。教祖のひながたは大変すぎる、古すぎて科学の進歩した私たちの時代にはふさわしくない、などです。 ところが、実にすんなりと教祖のひながたをたどることは可能なのです。

まず、第一に、教祖と同じようにするのは不可能だということは分かりきっています。それが最も重要なポイントです。教祖は病人を助けるために奇跡を起こし続けましたが、そんなことは私たちにはできません。ご老体でありながら、若者と力比べなどもされました。私も若いつもりですが、それでも二十代の若者たちと腕相撲をして勝てる気はしません。教祖は袖のうちに花畑を見られましたが、私の裾からは脇しかみえません。このような人間離れした話がたくさんあります。逸話編をお読みいただければよく分かります。こうしたお話は、私たちに、教祖は人間とは違うということを教えています。教祖は人間にはできないことを実現されてきたのです。

教祖は世界人類を助けるためにこの世におられました。したがって、ひながたをたどる、とは字面だけを追えば、教祖のように世界助けのために何でもする、ということになります。しかし、そんなことをしろと言われたら、一信者には荷が重すぎます。教祖の半生は、とても私たち人間が真似できるものではありません。では、ひながたをたどる、とはどういう意味なのでしょうか。教祖のお考えも、その行いも神聖で尊いものですから、人間ができるものではありません。とにもかくにも、次のように考えてはいけないのです。

こんなとき教祖だったら、どうされるだろうか?

こんなことを考えるのはとても危険です。教祖を自分の立場に引きずり下ろしたり、自分を教祖の立場に引きあげたりなんてことは、絶対にしてはいけません。人間ではない、教祖の考えを理解できるなんて思ってはいけないのです。教祖月日のやしろであり、それは何にも代えがたいものです。おふでさきにもこうあります。

しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている12号68

これは教祖のお考えは人間心ではなく、教祖のお言葉は神聖なものだという意味です。

とはいえ、教祖のことを考え、教祖が私たちに何を望んでいるのかを考えることは大切です。教祖が私たちに期待することは、他人と喜びを分かち合えるように導いてくれるおつとめをしっかりつとめ、心の成人を進めることだと思います。それはおふでさきみかぐらうたを通して理解できるでしょう。

おつとめをしっかりつとめるとは、陽気ぐらしを実現するために人間世界をおつくり下された、元始まりに返ることです。ひながたは、つとめの完成に向けて残されたものであり、おつとめに深く関係しています。ひながたをたどるとは、教祖のしたことを真似するのではなく、ひながたにおつとめの重要性を認め、時空を超えたその意義をつかみ取ることだと思います。

明治22年11月7日の有名なおさしづがあります。抜粋しながらご紹介します。

まず、このように始まります。

難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。
皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。

これは難しいお言葉ではないのでそのままご理解いただけると思いますが、ひながたの道を通れとおっしゃっていますが、難しいことはしなくてもいいともおっしゃっています。つまりひながたをたどることは特別難しいということではありません。

次に、

ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。

お道の信仰では、ひながたを通らなければ意味がないのです。

続いて、

僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。

ひながたは、1838年から1887年までの49年間です。ほぼ50年です。しかし、親神様は50年もひながたをたどれとは仰っていません。それでも人間には無理だとおっしゃっています。三年千日、とだけ仰っています。しかも、千日でも難しいぞとおっしゃっています。

千日とはどういうことでしょうか。千日は、分にすると144万分です。これを50年に延ばすと、一日だいたい79分です。毎日79分、教祖のひながたをたどるようにすれば、五十年分になります。先ほども申しましたように、教祖のひながたはおつとめを完成させることに費やされました。つまり、私たちがひながたをたどるには、この毎日の79分をおつとめの完成のためにつかわなければならないということになります。実際、毎日80分ほどの時間しっかりとおつとめをつとめることは簡単ではないでしょう。しかしながら、少なくともそれぐらいの目標を目指して毎日努力することは意味のある事のように思えます。

くだらない計算だと思われるかもしれませんが、このように考えるのもおもしろいのではないかと思います。

最後に、

ひながたの道より道が無いで。何程急いたとて急いだとていかせんで。ひながたの道より道無いで。ひながたの道がどんな日もある。ひながたの道にはいろ/\ある。

信仰はひながたに基づいて実践されるもので、ひながたをたどることが重要であると繰り返し説かれています。しかし、ひながたの道筋は一つではありません。みんながひながたをたどったとしても、人生はいろいろです。そのみんな違うということが大切なのです。ひながたをたどるとは、教祖と同じことをするのでもなければ、ほかの人のまねをすることでもありません。それぞれの人生は違うのです。ひながたの道より道がない、とは、このお道の代名詞ともいえるおつとめこそが信仰の本質であるとおっしゃっているように思います。

私たちはこの道の信者として、教祖を敬愛しています。女性の教祖をもつことができ、誇りに思ってもいます。教祖は私たちの親であり母でもあり、またモデルでもあります。しかし、教祖は神聖で、私たち人間とは違います。教祖に親しみを感じていますが、教祖と同じことはできません。私たちができるのは、教祖がお教えくださったことを実践することです。その教えはおつとめに集約されています。おつとめをしっかりつとめましょう。教祖はそれを一番お喜びになるはずです。

ご清聴ありがとうございました。

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