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2023年9月月次祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

教祖140年祭にむかう現在の三年千日の旬では、信者に対してより深い教理研鑽とその実践に努めるよう促されています。そのために年祭ごとに、真柱様は信者を導くための諭達を発布されます。そのような諭達の中でも、今回のものでは、私たちが向かうべき目標の方向性を以下のようにお示しくださいました。

この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。

このことから、本日は「成人」の概念を中心に掘下げ、私たちは、どのようにしたら、より理解が深められ、そして正しい道筋を進むことができるのかを見ていきたいと思います。

まず、人類規模の行動、態度、また私たち一人ひとりの生活を考えた時、最初に気づかされることがあります。それは、我々は皆、未成熟な存在であるということ。気まぐれで、いつも不平不満が多く、イライラしているということです。これらの原因の一部は、私たちの生活の捉え方や理解が大変限定的であるがゆえに、世界観も不完全であることが挙げられます。その結果、私たちの意識が魂の成熟性から大きく掛け離れてたものになっています。

おふでさきに以下のようにあります。

いまゝでハなにをゆうてもをもふても
みなにんけんの心はかりで六号 99

いまゝでわ一れつハみなにんけんの
心ばかりてしやんしたれど十三号 94

人の心は、その見えている世界を自分の支配下に置こうとします。現実の姿から極端に隔離した全く狭い世界観しか持ち合せていないにも関わらずです。知覚できる世界から外れたものは、理解できません。そこに、絶えざる苦しみの原因があります。

この人生への狭い視点、無知さによって、大変限定的な思考や観念が生み出され、魂の未成熟さを引き起しています。ですから、そのために親神様は表に現れて教えを伝え、人々がこの状態を改め、心の成人、魂の成熟に向けた道を進むことができるようにしました。

このたびハたしかをもていあらハれて
なにかよろつをみなゆてきかす六号 60

と述べられているところです。

この宇宙、地球、そこに住まう生命を支配する大摂理の存在を知り、それをしっかりと学び、納得し、体験を重ねれば、心の成人に到達することができるのです。

先ず始めに、神は、以下の言葉で、世界とその地における私たちの有り様について説きました。

たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ三号 40、135

このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの六号 120

せかいぢうこのしんぢつをしりたなら
ごふきごふよくだすものわない六号 121

私たちは、五感を使って感じるところの物質世界の中に暮らしています。もし仮に五感のみで生きていると考えるのであれば、物質世界だけが唯一の現実となってしまいます。そこでは、全生物は、全てがバラバラで個別に存在し、そこでの繋がりにも限定があるように思えることでしょう。

この間違った思い込みが原因で、私たちを他者といがみ合う戦いの世界に誘い込み、平和な心を持つ妨げとなっているのです。

実際、親神様は、我々に物質的な社会と同様に精神社会へも目を向けることを教えてくださいました。あたな方と私は、一つであり、たった一つの同じものであると。そして、私たちは、等しく神の心を分け合っていると教えられたと思います。

このようにお互いが繋がっていることが理解納得できれば、争い、戦いの概念は消えさり、代わりに本当の意味での協働の概念が湧きあがることでしょう。

こうなると、誰かが成功を治めたとしても、それは皆の成功であってと思えるでしょうし、また誰かの苦しみについても、それは私たち全体の問題であることが現実味を帯びて理解できるようになるかと思います。

この親神様から与えられた法則によれば、私たちはただ単に両親や兄弟姉妹との繋がりがあるだけでなく、精神面においては、同様に世界全人類とも繋がっているのです。

この認識を深く持ち進めれば、進めるほど、我々は他人の成功に対しても、自分とも関わり合いがあることを感じられ、喜べるようになれるでしょう。さらには、自然と他人を助けたい思いになるでしょうし、これこそ、まさに教祖から教えいただいた最重要な教えを実行することに繋がっていくだろうと思います。

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる三号 47

この世界観を我々が確固たるものとできるように、そして、私たちの中に深い安心感が生まれてくるよう、親神様は真実の親であることを知らしてくださったのです。

教典にも次のような内容が記されている通りです。

親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしいと思召され、これに、人間思案の心得違いを改めさせようと、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えた。

成人とは、親神との繋がりと同様に他人との繋がりに対する認識も確固たる自らの信念となっていることであると思います。

このようにして、私は親神様の子供として、親神から貸し、借りているこの身体を通して、人生の如何なる場面、その全てにおいて陽気遊山を具現化する者なのです。

親神が貸しているこの身体は驚くべきもので、世界で一番美しいものです。この身体のお陰で地上での生活を謳歌できています。毎日、私たちの身体には、努力なしに、呼吸ができ、五感があり、心臓の鼓動など、当り前に見えるようなことが多く起こっています。しかし、ある面からすると、毎日、毎日、これらのことが途絶えること無く続いているのは、奇跡だともいえます。借り、貸されている我々の身体のお陰で、知覚能力があり、ものを認識したり、創作したり、走ったり、飛んだり、泳いだり、愛したり、生きることが出来ています。神に生かされ、育てられ、癒やされ、護られているという認識を感謝と共に持つことは、成人の証となります。

一方で、心に感謝の念を感じることは、心に喜びが湧きあがることに繋がります。そして感謝がより高まった段階であれば、そこには必ず存在自体への真価を認める境地があるはずです。

しかし、誰もが、個人や家庭の悲劇であったり、苦難に遭遇します。今、この時でさえも、私たちは、その最中にあるのかもしれません。そのような事があったとき、第一段階として、理解、納得ができない思いが心を占領します。その後、その問題を上手く扱いたいとか、抵抗したい気持ちになる傾向があります。しかし、そうすることは、必ずしも問題解決へとつながる訳でも無く、大きな苦しみを生みだす原因となります。あらゆる状況でも安寧をもたらすのは、成人した心であることは確かです。なぜなら、大いなる生命の働きを自分の良いようにしようと欲しているときの私は、ある意味で神様に反抗し、もはや神の意志とは相容れない自分となっているからです。

教祖は、このような困難を私たちが乗り越えていけるよう人生のひながたをお残しくださいました。私たちが目指すものは、そのひながたをそれぞれの人生の中で実践することです。教祖は、それを3日でも続けて出来たならば、それが千日の実践に繋がると教えてくださいました。

以下のおさしづに見られる通りです。

もう僅か、まあ三日の辛抱さえ仕遂げたら、誰に遠慮は無い。皆貴方々々と言う。ひながたの道が出してある。ひながたそばにある。めん/\もたった三日の辛抱すればひながたの道が。(M22.11.7)

私もこれまでに何度となく教祖のひながたにあたることを実践した経験があります。しかし、連続して3日間ということはおろか、たった一日でさえ、成功したことはありません。しかしながら、その毎ごとに、より輝ける人生に大切なことについて、少しだけでも理解が深められた気がしています。何も掴んでいなかったかが分かるためには、失敗も必要であったというようなものです。

人生を成功させる鍵となるのは、今、この瞬間に目の前に出現したことを受け入れることです。神様に正面を向いて、私に理解させようとしていることに耳を傾けること。そして、この大いなる命の根源が私をどこに連れて行こうとしているのかを掴み、見せられた流れの方向へと進んでいくことだと思います。

困難に際したときに、唯一私たちが出来るように学んでおくことは、毎日々、大いなる命の根源が私たちに差し出す事柄を受容すること。そして、追認することなのです。

おふでさき

一れつハみなめへ/\のむねしたい
月日みハけているとをもゑよ六号 97

みのうちにとのよな事をしたとても
やまいでわない月日ていりや十四号 21

みのうちのなやむ事をばしやんして
神にもたれる心しやんせ五号 10

とあります。

ですので、健全に日々を過ごすためには、無理をする必要はなく、心配をする必要もないのです。ただ、自分が経験していることから遠ざかりたいという欲望から自分を切り離すだけで良いのです。神様は、私たちにお見せくださる手入れを通して、私たちの問題の根底に何があるのか、また、何を取り除く必要があるのかを教えてくださっているのです。

そのような機会には、「身上を引き起こしているもの、事情を引き起こしているものを手放す準備はできているだろうか?」と、自分自身に問いかけてみましょう。

そして、3日の間、教祖のひながたをたどるよう努めてみましょう。

諭達第四号には

教祖はひながたの道を、まず貧に落ちきるところから始められ、どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。

このように書かれています。親神様によってガイドをしていただいている旅路、人生という素晴らしい旅路の中で、私は常に新しい状況を見出し、それによって気づきが深まり、成人を進めています。

ひながたの道をたどると、教祖は貧のどん底に落ちることから始めらたことが分かります。これは、今の私たちにとっては、どのように理解すれば良いのでしょうか。個人的には、「後回しであるべきものは、後ろに追いやり、陽気ぐらしへ向かう道の歩みを妨げるものがあれば、それも関わることも止めてしまう。」このように解釈をしています。

まず最初に、今、自分のなかで最も心を曇らせているほこりを一つずつ取り上げ、そのようなほこりを再度積まないようにつとめるということが大切です。

次に、私には、心の成人を妨げている習慣、恐れ、行動、制限のある考え方、誤った信念というものがたくさんあります。もしより良い自分自身に生まれ変わろうと思えば、今あげたようなものなくさなければなりません。

人生の歩みのなか中でも、私たちが心の内側で語る物語に気を付けましょう。それは、私たちがしばしば現実だと思い違いをする幻想なのです。

絶え間ない変化に身を任せましょう。なぜなら、それが自然の法則だからです。そして、動かないもの、固定されたものが何もないこの世界において、私たち人間の心と連動している道を引いてくださる親神様に身をまかせ切りましょう。

人生の旅路のどこにいようと、どこにいたいと思っていようと、私たちはまさにいるべき場所にいるのです。

人生は、自然界に存在する他のものと同じように、変動し続けるものです。誕生から始まり、青年期、全盛期、成熟期、老年期、死、そして生まれ変わりといった段階を経ていきます。その心の未熟さによって、私たちは、若さなど人生の特定の時期に執着し、それにしがみつこうとしたり、こうあるべきだ、あああるべきだと言って人生を判断、評価するのです。

心の平穏を失うとしたら、それは私があれこれ判断しているからだと思います。これは良い、あれは悪い、あれは良い人、あれは悪い人。あるいは、私は別の場所にいるべきなのかもしれない...といった具合です。

成熟した人間とは、人生に真摯に寄り添い、親神様から授けられた無数の恩恵にありがたみを噛み締め、前進できる人のことです。

一方、未熟な人間は、私はこれが好きだとか、あれは嫌いだとか、いつも決めつけている。しかも、自分の苦しみを責める相手をいつも探している、そういった人です。

教祖は、人間が人生という掛け替えのない旅路を歩むために、自分で物事を考え判断を選択していくという、素晴らしい能力を備えていることをお教えくださいました。

その結果、私たちは、何物にも誰にも頼ることなく、自分の心や世界観を変える力を持っているのです。

しかし、私たちは、まだこの能力を使いこなせていない未熟な存在なのです。思考というのは常に私たちの心の中に一貫性なく現れて、思考同士が互いにせめぎ合っています。しかも、不安や恐れに満ちた負の思考は、愛や喜びに支えられた正の思考よりもはるかに多いのです。

教祖のお言葉であるおさしづ

しんぢつにをもてゞよふとをもうなら
心しづめてしんをたづねよ四号 84

いまゝでと心しいかりいれかへて
よふきつくめの心なるよふ十一号 53

とあります。

私が現在行おうとしている3日間の思考訓練を紹介したいと思います。

まず、自制できない思考によって動揺してしまっている心を落ち着かせるということ。このような負の思考の原因は、心のほこりにあります。振り返ってみると、私の場合、苦しみを引き起こしている思考には2種類あることに気づきました。

一つ目は、今経験していることと経験したいことの間に大きな隔たりがあるときです。その瞬間、何かが足りないという感覚に襲われ、心がとらわれてしまうのです。何か別の足りないことを経験したいから、「ほしい」と「よく」という心のほこりに囚われる。この思考をここでは「中毒」と呼ぶことにします。

そしてもう一つの思考は、何かや誰かを好きになれないときです。その状況を拒絶したいという「にくい」の心のほこりの表れです。これは、「よく」と結びついています。この思考を「嫌悪」と呼ぶことにします。

しかし私は、心の成人を進めるという目的に集中しながら、人生を歩むことを願っています。負の思考にある時、それはまるで「中毒」と「嫌悪」の綱渡りをしているような感覚です。いつもどちらか一方の心のほこりに飲まれてしまうと、綱から落ちてしまい目的を見失います。だからこそ、このほこりが積もってしまうような心遣いをしないよう、気を配り、注意し続けなければなりません。

わずかな不満や焦りを感じる時は、私が綱のどちらか一方に傾いている証拠であり、そのバランスを崩してしまう危険があります。私にとって「中心を探し続ける」ということは、できるだけ綱から外れないよう心がけ、物事に対する識別感覚を弱めることで、自分の道の中心にとどまることなのです。日々、中心にとどまるということは、自分が経験していることや他人を評価しないように鍛錬するということでもあります。私が経験していることは、良いことでも悪いことでもなく、ただ「そのようにある」だけなのです。

おふでさきにも

にんけんの心とゆうハあざのふて
みへたる事をばかりゆうなり三号 115

とあります。

最後に、教祖は私たちの心を喜びで満たすよう望んでいます。分別ある思考を選択し、望む方向に向ける力があるおかげで、私たちは心に喜びを持てるよう、自身を鍛えることができるのです。私たちは、感謝や満足感をもたらしてくれるものに意図的に注意を向けることができますし、良いもの、美しいもの、真実なるものに視線を集中でき、地球をはじめ、あらゆる美しい物に感嘆することができます。

大切なこと。それは、私たちは最高の幸せを感じることを作り出すために生まれてきたということ。そのことを自覚することです。それが、教祖の道具衆として周りのものすべてに喜びをもって役立つことができる最良の方法であり、そのように応対することで、人生でこの上ない喜び事をもたらしてもらえるのです。

驚嘆や価値評価を始めとする、心から湧き上がる感情や感覚をどのように感じることができるかを理解し始めるでしょう。

喜び、愛、平和、満足、感謝といった感情は心から湧き出るものであり、人生の「燃料」なのです。

教祖おふでさき

いまゝでハなによの事もせかいなみ
これからわかるむねのうちより三号 43

とおっしゃっています。

この「三年千日」の期間に、私たちは各々で、誠真実を受け取ってもらえるよう心定めを行っています。周りと一手一つに行う心定めもあれば、各自が自分自身に行う心定めもあります。それらはすべて、私たちをより良い自分へと導いてくれる神様のお導きであると私は信じています。

おふでさき

このはなしどこの事やとをもうなよ
みなめへ/\のうちのはなしや七号 31

とありますので、私たちが実現を目指す世界を示し明らかにしてくれるこの内なる声に耳を傾ける時間を十分にとり、心の成人に向けて少しでも前進できるようつとめていきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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