Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2016年3月月次祭神殿講話

飾東巴里出張所長 角本もと子

本日は「親神様の御守護」に付いて、お話しさせて頂きたいと思います。

私が昨年の8月につとめさせて頂いた講話では、心臓移植をされた女性Aさんのお話をさせて頂きました。本日は改めて、その心臓移植後、つまり、今Aさんがどのように日々過ごされているのかに付いて、お話をさせて頂きたいと思います。

前回取り次がせて頂いたお話を簡単にまとめさせて頂きますと、私はAさんの事を、Aさんが16歳の時から知っておりまして、彼女は母親と、そして結婚してからは、旦那さんと、よく月次祭に参拝に来ては、座りづとめ、または男鳴り物女鳴り物をつとめてくれていました。そんな彼女は生まれた時から重い心臓病を患い、幼い頃から入退院を繰り返しておりました。しかし、彼女は元々明るい性格で、お道の教えも前向きに学ぼうとしておりました。

Aさんの心臓移植は昨年の5月に行われました。この際には、大教会の方でもしっかりお願いをして下さり、Aさんのご家族含め我々も、彼女の無事を祈る一心でした。3月から入院されたAさんのおたすけに行かせて頂く際には、Aさんの母親、義理の父親、ご主人とまず神殿で参拝をさせて頂いてから、我々も一緒に行かせて頂きました。また、寝たっきりのAさんは、おさづけ取り次ぎの際には、弱った手を頑張って合わせて、素直に真剣に受けておられました。手術直後には、強い腰痛・頭痛、また脳血栓を患ったりと、「山あり、谷あり」のような日々を送られました。そんな中でも、少しづつ回復をされ、ご自分でご飯を食べられるようになり、誰かに助けられながらもなんとか歩けるようになられた頃には、リハビリセンターに移られました。そして、数週間後には、ご主人と帰宅されました。昨年の3月に入院されて、退院されたのは11月頃だったので、約8ヶ月の入院生活を過ごされました。

Aさんが帰宅されてからは、Aさんのご両親は田舎の家に帰られましたが、Aさんのご主人は仕事の合間をぬって、昼食に帰宅されたり、ご兄弟や友人はAさんに会いに来て下さったりして、Aさんの心配をされておられました。

手術は成功し、一段落しましたが、Aさんは落ち込んでおられました。

ある日、電話で連絡をし、彼女の体調に関して訪ねて見ますと、
「心臓の調子は絶好調です。それはとても良い事なんですが、他の問題がなかったら、もっと良いのですが・・・」と、答えられました。彼女は退院後、精神不安定になりやすく、腰痛がひどい時には、緊急入院までしました。そして、その腰痛の原因が、前回の入院中に4センチも身長がちじんでいた事からだと分かったのです。

その原因を調べる為に、また違う病院で入院する事になりました。

「やっと心臓移植が成功したというのに、何故また違う問題が起こってくるのか分からない。」と、落ち込んでおられたのです。

私はAさんやそのご主人、またご両親と連絡を取り続けておりました。また、Aさんの母親も私に連絡をするようにとAさんに言っていたそうです。遠い病院だったので、直接足を運ぶ事が出来なくても、いつも彼女の様子は伺っておりました。連絡をさせて頂く度に、まず、「親神様に感謝をさせて頂く事の大切さ」を彼女に分かって欲しいと思いました。

ここで、天理教教祖伝逸話編、一四七「本当のたすかり」を読ませて頂きたいと思います。

大和国倉橋村の山本与平妻いさは、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。

が、その後手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しの事ではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます。」と、願った。すると、教祖は、

「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは足をたすけて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきりたすけてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきりたすかる事ばかり願うが、真実たすかる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」

と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この時以来、手のふるえは、ちょっとも苦にならないようになった。そして、生家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいがけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。」

Aさんは本当に大きな御守護を目の当たりにさせて頂きました。心臓移植という、大手術が成功し、その後も移植された心臓が拒否反応を起こす事なく、元気に動いているのです。

しかし、心臓移植手術の成功だけが親神様の御守護ではありません。

Aさんの体に合った心臓が見つかった事、心臓が移植時までもった事、外科医やそのチームの方々が無事手術を迎えられた事、Aさんの体が手術の日までもった事、などなど。全ての条件が無事整った結果が「手術の成功」に繋がったという事です。我々の目では見えない、計り知れない所まで、親神様は御守護を下さっておられるのです。

おふでさきには、

だんだんと何事にてもこの世は
神の体や思案してみよ(三、40)

人間はみなみな神のかしもの
何と思うて使うているやら(三、41)

私たちの体は、親神様が私たち一人一人の魂に貸し与えられた「かしもの」であり、私たちからすれば、それは親神様からの「かりもの」です。さらに、親神様が日夜絶え間なく御守護くだされているからこそ、体も壮健に、また自由に使わせていただけるのです。

かりものの理を十分心に治めて通る事が、人間としての心の使い方、生き方の一番基本で、自分の力や能力や甲斐性によって、「自分は独力で生きている」と思う心は、人間としては最も思い上がった心づかいであり、生きざまであると言わざるを得ません。

めへ々の みのうちよりの かりもの
しらずにいてハ なにもわからん(三、137)

ところで、「昔、フランスにパーレという立派な外科医がいて、いろいろな手術の方法を発明し、やがて政府から「国民の命の恩人」という事で、その偉業(いぎょう)に対して勲章まで授けられたそうです。

ところが、この老博士が亡くなる時、
「私は命の恩人だと言われ、勲章まで頂いたけれど、私のした事は、ただメスで切って縫っただけです。神がたすけ給うたのであります」と言って、この世を去ったという事です。

そういうてみると、切れた肉がくっつくのも、くっついた肉に血が通うのも、通う血が造られるのも、これみな、彼の言う厳粛な神のたすけに外ならない事に気がつくのです。

をふでさきには、

にんげんハ みなみな神のかしもの
神のぢゅうよふ これをしらんか(三、126)

とお示し下されております。

Aさんの話に戻りますと、ある日、Aさんに連絡しましたところ、Aさんはご機嫌で、こう言いました。

「私は親神様の御守護のお陰でこの心臓をお与え頂きました。」

Aさんはこの時に初めてご自分が頂いている御守護に心から喜んでおられました。

これは、Aさんの心のたすかりの大一歩だと思いました。

これからも、Aさんをはじめ、身上・事情の方々に心をつなぎ、教祖のお供でおたすけに励まさせて頂きたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。

アーカイブ