Tenrikyo Europe Centre

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2015年3月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

今日は「元」、すなわち「ぢば」ということについて話したいと思います。この教えでは、常に「元」ということが強調されています。「おふでさき」にも「みかぐらうた」にも、この「元」という言葉が随所に見て取れます。「元」という言葉は、「根」という言葉に置き換えられることもあります。天理教の教えは「元」または「根」を徹底的に追及する教えと言ってもいいと思います。

たった今、第1節から第3節までの座りづとめと、第4節、第5節の手踊りをつとめさせていただきました。ご承知の通り、おつとめではそれぞれの下りの末尾に「天理王命」と唱えますが、第3節だけは「天理王命」ではなく、「一列すまして甘露台」と唱えます。この「甘露台」は「ぢば」に据えられた台であることは、みなさんもよくご存じのことと思います。「ぢば」は地面の1点です。点は存在しますが 、厳密に言えば、点の中心は目には見えません。その目には見えない点の中心の上に、神による人間創造の証拠として「甘露台」が据えられています。そして、つとめの際に唱える「天理王命」は「ぢば」に授けられた神名です。

天理教教典の第4章には、『「ぢば」は天理王命の神名の授けられたところ、その理を以て、教祖(おやさま)は、存命のまま、永久(とこしえ)にここに留まり、一れつを守護されている』と書かれています。

天理教の拠点は、日本だけではなく、世界中に点在しています。このヨーロッパにも、ヨーロッパ出張所や、教会、布教所があり、ご自宅にお社をお祭りしている方も多くいらっしゃいます。その拠点でつとめをつとめる時、また、さづけを取り次ぐ際は、必ず「ぢば」の方に向かいます。「ぢば」は天理教教会本部の神殿の中央に位置しますが、正確に表現すれば、「ぢば」を囲んで本部の神殿が建てられているのです。

「この世は神の体」と教えられています。私たちが普段「神」「月日」「親」、または「親神」とお呼びしているのは神の体の総称です。「ぢば」はその神の体の一点です。先ほど、点の中心は目に見えないと申しましたが、私たちは、神の体の総称も見ることはできません。私たちが見ているこの世界は、空間的にも、時間的にも常に一部であり、人間がどんなに努力しても全体を見ることはできません。

日本には、昔から様々な信仰があり、今も現存しています。その中には山や海などの自然を神として崇める信仰があります。この世は神の体でありますから、山や海を拝んでも、空や大地を拝んでも、木や石を拝んでも、どこを拝んでも、何を拝んでも、それらは全て神の体の一部であることには、違いありません。しかし、おやさまは、神の体の中の一点である「ぢば」を「確かなる参り所」として定めました。そして、その「ぢば」に「天理王命」の神名を授けました。

では、「ぢば」とはいかなる地点でしょうか。これも、みなさんよくご存じのことと思います。「ぢば」は、1838年10月26日の立教から遡ること九億九万九千九百九十九年前に、神が人間を創造したところであります。

ただし、時々誤解されることがあるので、念のため説明を加えておきます。この人間創造の話をすると、最初の人類はアフリカ大陸で誕生したとか、アジア大陸だったとか、学説を持ち出される方がいらっしゃいます。「ぢば」では、いきなり現在の私たちのような人間が創造されたわけではありせん。現在の人間の姿になったのは、神の人間創造から数億年後のことです。

ぢば」は、神の思し召しとご守護により、将来人間になるであろう、その「元」が創造された地点です。最初は「五分」という大変小さな生き物でした。その小さな生物が、神の守護により、数々の生まれ変わりと進化を経て、現在の人間になったと教えられています。ですから、いくら小さいとはいえ、これが私たち人間の「元」であると言わなければなりません。

神が人間を創ったという教えは、おやさまがこの教えを説かれる遥か以前より、世界各地に存在します。日本には「古事記」とか「日本書紀」というものがあります。このような書物は神話と呼ばれています。ヨーロッパにも様々な神話があると思いますが、今日でもそういった神話によって権威づけられている方々がいます。そういった方々にとっては、自らの信じる神話と異なる神話があると、たいへん都合が悪くなってしまいます。

おやさまご在世当時、ある方がおやさまに「もし、あなたの説く人間創造の話が本当なら学問は嘘か」と問われたことがありました。おやさまは、「学問にない九億九万年前のことを世界へ教えたい」と答えられました。

おやさまの説かれた、この世人間の元はじまりの話は、日本の神話とは異なるものでした。しかし、おやさまは、この元はじまりの話が真実だと繰り返し強調しながらも、決して他の教えや神話を否定されていないことも留意しておかなければならないと思います。

天理教の立教以前にも、神はそれぞれの地で、それぞれの時代に、それぞれの言語で、人間に思し召しを説いてこられています。神が、おやさまを社として、この世に現れ出たのは、これまでに既に教えてきたことを、言語や表現を変えて、繰り返し述べるためではありません。まだ今までに教えていないこと、まだ人間の知らないことを教えるためにこの世に現れました。それが、「ぢば」であり、この世と人間の元はじまりの話です。

この「ぢば」は、おやさまが明かされるまでは、誰一人として知る人はいませんでした。また、おやさまによって明かされた以上、今後2度とこの世の他の地に現れることはありません。そして、人間の知恵と能力では、この「ぢば」を教えることは不可能だと言っていいでしょう。

個人的な話で恐縮ですが、私は西日本にある岡山という県の山奥にある小さな農村の自宅の離れの一室で生まれました。時は、1967年8月7日でした。既に出産は病院でするのが普通の時代でしたが、私の実家は山奥にあったので、そういった時代の波には乗れず、自宅で出産したとのことです。

私がまだ幼いころ、母は私が生まれたときの様子をいろいろと教えてくれました。私は3歳ぐらいまで、その山奥にある実家で暮らしていたそうですが、その当時の私の様子もいろいろと聞かせてくれました。私自身は、自分の出生についてはもちろんですが、3歳まで育った実家での記憶は全くありません。

私が生まれたその家には、現在、私の両親が住んでいます。そして私が生まれた離れも内装は改修されてはいるものの、外装は今も当時のままです。たまに国へ帰ったときには、実家に帰り、自分が生まれたその場に立ってみることがあります。そして、その時の状況を思い浮かべてみることがあります。子どもにも「お父さんはここで生まれたんだよ」と言って聞かせたこともあります。

今は産婦人科の分娩室で生まれる人がほとんどでうすから、自分が生まれた場に再び立つということは難しいと思います。私の場合は、今のところ、帰郷した際はそれが叶うわけですが、自分が生まれたその場所に立つと、なんとなく懐かしいような、なかなか言葉では言い表せない不思議な気持ちになります。

私の生い立ちについては、私の方から母に尋ねたのではなく、まだ幼いころに母の方から教えてくれました。もし母が私に語ってくれていなかったら、私の方から母に、私がいつどこで生まれたのか、またそのときの様子はどうだったのか、と尋ねた日があったのではないかと思います。

そして思います。私の出生について母親に尋ねたとき、お前がいつどこで生まれようがそんなことはどうでもいいではないか、と答えられたらどうかと。もし、そんなことを言われたら、この人は本当に自分の母親なのかと疑ってしまいませんか。また、生まれたときのことは、お前の未来や幸福とは何ら関係のないことなので、どうでもいいではないかと言われたら、どう感じるでしょうか。

人間は常に未来に向かって生きています。過去のことはどうでもいいといえばそれまでですが、自分がいつどこでどの親の元に生まれたのか、ということぐらいは知っておきたいと思いませんか。

私の個人的な話などは、皆さんにとってはどうでもいいことです。恐らく100年後には私がいつどこで生まれたかということなどは、誰1人として知る人はいないでしょう。人は皆それぞれの生い立ちがあります。人には言いたくない、人には知られたくないという方もいらっしゃると思います。

しかし、おやさまが、私たちに教えてくださったのは、個々の人間の生い立ちについてではありません。また、特定の人間についてのことでもありません。おやさまは、私たちに全ての人間の共通の親、その親によって、いつ、どこで、どのように、そして、どのような思いでこの世人間を創造されたのか、お教えくださいました。

命の誕生以来、私たちは様々な時代を生き残り、途切れることなくこの命をつないで今現在ここに生きています。この命にはどのような意味があるのか、後の世代に何を伝えるために命を受け継いでいくのか、そのために今何をすべきなのか。それを知るためには「元」を知らなければなりませんが、天理教はそれを教えているのです。

おやさまは、「ぢば」を明かしただけではありません。そこで、どのようにして人間を創造したのかお教えくださいました。さらに、ただお教えくださっただけではなく、その模様を10人のつとめ人衆と9つの鳴り物を寄せて再現させました。これが「ぢば」に立てられた「甘露台」を囲んで行われるつとめです。

このつとめは、神の社であるおやさま自らがお教えになったもので、弟子たちが試行錯誤を重ねて作ったものではありません。世界にはいろいろな祭儀がありますが、そのほとんどは、人間が神に祈りを捧げるもの、神を讃えるものです。しかし、天理教のつとめは違います。「みかぐらうた」の地歌も、「手踊り」手ぶりも、9つの鳴り物も、全ておやさまがお教えくださいました。ですので、天理教のつとめは神が人間を使って行うものだということができます。

教会本部で毎月26日に行われる月次祭は、神が人間を創造した「ぢば」で、その「ぢば」に授けられた神名「天理王命」と唱え、その創造の模様を再現するものです。今日、私たちがつとめた天理教ヨーロッパ出張所の月次祭とは、少し形態が違います。しかし、祈りの向かう先は常に「ぢば」であり「天理王命」であります。教会本部の甘露台を囲んでのつとめとは同じというわけにはいきませんが、つとめる私たちの心次第では、限りなく近づくことは可能だと思います。

人は皆、幸福を求めて生きています。ですから、天理教の教えに耳を傾けるのも、最初は幸福を求めてのことだと思います。具体的に言えば、身上や事情の悩みを解決したいとか、夢や希望を叶えたいという願いで、この教えを聞かれた方がほとんどだったのではないでしょうか。最初からこの世人間の元はじまりが知りたくて、この教えを聞く人は少ないと思います。また、この世人間の元と言われても、すぐに納得できるものではありません。元はじまりについては、「天理教教典」の「第3章」にまとめて書かれてあります。この章を読めば、一応知ることはできますが、1度や2度読んだからといって、すぐに心に修まるわけではありません。

私自身、このように話をしていますが、まだまだ勉強不足であり、わかったと言うことはできません。しかし、わからないままで放置していては、「ぢば」も「天理王命」も「つとめ」も「さづけ」も「陽気ぐらし」も何もわからないままになってしまいます。

天理教の教えがわからないというのなら、それでもいいかもしれませんが、この世人間の元ですから、私たち自身について、そして夫婦、親子、家族、社会、世界についても、その真実を知らないままになってしまいます。

今日は「元」ということについてお話をさせていただきました。私たちの信仰は、「元」を知ることにあり、「元」へ帰ることであり、同時に「元」へ到達することでもあります。

おやさま130年祭まで、残り約10か月となりました。私自身、一歩でも「元」に近づけるよう、皆様と共に歩ませていただきたいと願っております。

最後に、「よろづよ八首」を拝読させていただき、本日の講話を終えさせていただきたいと思います。

よろづよのせかいいちれつみはらせど むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない しらぬがむりではないわいな

このたびは神がおもてへあらわれて なにかいさいをとききかす

このところやまとのづばかみがたと いうていれどももとしらぬ

このもとをくはしくきいたことならバ いかなものでもこいしなる

ききたくバたづねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを

かみがでてなにかいさいをとくならバ せかいいちれついさむなり

いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいのこころもいさめかけ

なむてんりわうのみこと

お疲れのところ、最後までご清聴いただきありがとうございました。

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