Tenrikyo Europe Centre

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2017年8月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一

さて、私たちは昨年、教祖130年祭をつとめさせていただきました。ヨーロッパ出張所では、年祭に向かう三年千日の心定めをしたことを覚えておられる方も多いと思います。それは、おさづけ取次ぎ13000回、修養目的での帰参者350名を達成することでしたが、どちらの心定めも達成することができました。

教祖が残された、おふでさき5号の24に、次のようなお歌があります。

しやんして 心さためて ついてこい
すゑハたのもし みちがあるぞや

教祖の教えについていけば、私たちはかならず幸せになる道にたどり着くことができます。しかし、このお歌に示されているように、ついてくる前に、まず心を定めてほしいと親神様はおっしゃるのです。「しやん」というお言葉は、おふでさきに70回も出てきますから、深い意味のある言葉だろうと思いますが、親神様の思し召しをよく思案してから心を定めるよう求められているのだと思います。

また、手おどりの九下り目の6には、

むりにでやうというでない
こころさだめのつくまでハ

とあります。心定めができていない人には、無理にどうせよと言ってはいけないと教えられています。逆の言い方をすれば、親神様の思し召しをよく思案して心が定まっていないと、教祖の教えにはついていけないということが言えるのではないかと思います。

なぜ心を定めることが大切なのでしょうか。皆さんご承知の通り、天理教では、「人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心ひとつ我が理」と教えられています。天理教教典第7章に、「銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に従うてつかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らし、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。」と書かれているように、自由が許されている心の使い方次第では、人間は不幸になる道を歩みかねないのです。親神様の思し召しに沿う心を定めて生きることが大切になります。

天理教の心定めとは何でしょうか。天理教辞典には、心定めについて次のように書かれています。

「人間をたすけたいという親神の思いを理解し、その救済意志に対して、これに応えようとする信仰的誓いと決意の意味。親神はこうした人間の誓いと決意に対して、常に新たな救済の局面をひらいてくださると教えられる。」

おふでさき7号の43には、次のように歌われています。

しんぢつに 心さだめてねがうなら
ちうよぢざいに いまのまあにも

親神様のご守護をいただくためには、心を定めてお願いすることが、大切だと教えられるのです。

心を定めることに関して、注目すべき次のような教祖のおひながたが残されています。1887(明治20)年に教祖がお姿をおかくしになる直前、おつとめをつとめよと急き込む教祖と初代真柱様との間の緊迫した問答が交わされました。おつとめをつとめることは国の法律にさからうことになり、人間は国の法律にさからうことはできませんと言う初代真柱様に対して、教祖は、「さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」と応えられました。

現代社会では、おつとめをつとめても国の法律にさからうことはありません。だったら、おつとめをつとめるのに、心を定めなくてもいいのかというと、そうではありません。むしろ今日のような世界に生きる私たちだからこそ、世間の風潮に流されないようにしっかり心を定めてから、おつとめをつとめる態度が求められていると思います。

教祖伝逸話篇36に「定めた心」というお話があります。

明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。

こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる。」という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。

これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の 身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きま す。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」と、家族一同、堅い心定めをした。

りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。

やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。

りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。

「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやな。さあ/\いんねんいんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう。」

と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。

「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねんいんねん。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ /\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで。」

と、仰せ下された。

その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、

「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ。」

と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。

天理教で最初に心定めをした方は、教祖の夫様である中山善兵衛様だと言われます。教祖伝第一章には、教祖が、1838年10月26日に神のやしろにお定まりになった時のことがこう書かれています。

「食事も摂らず床にも寝まず、昼夜の別なく元の神の思召を伝えられるみきの緊張と疲労は、傍の見る眼にもその度を加え、このままでは一命の程も気遣われる様子になったので、遂に善兵衛は、事ここに到ってはお受けするより他に途は無い、と思い定め、二十六日、朝五つ刻、堅い決心の下に、『みきを差し上げます。』とお受けした。」

「みきを神のやしろに貰い受けたい。」という天啓から3日間、思案に思案を重ねて、遂には、人間の常識を捨てて、夫善兵衛様が親神様の思し召しに従うことを堅く心に定めたからこそ、今日の私たちの信仰があるのだということを深く認識しておきたいものと存じます。

ご静聴ありがとうございました。

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