Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所役員 小林弘典
本日は、皆さんと共に6月の月次祭をつとめさせていただき、たいへん嬉しく思っております。お役を仰せつかりましたので、只今よりお話をさせていただきます。
朝10時30分からの長時間の祭典の後であり、少々お疲れのことと存じますが、どうか、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
今日は、「かしもの・かりもの」について、短い時間ではありますが、少し考えさせていただきたいと思います。
私たちの体は親神様からお借りしているものであり、その体をお借りしてりしているは、私たち一人一人の心である、というのが、「かしもの・かりもの」の教えです。
親神様から体をお借りしているといっても、体のどこかに、これは親神様からお借りしたものである、と記されているわけではありません。ですから、体を親神様からお借りしているということは、日常生活の中では、なかなか実感できないのではないでしょうか。
おやさまが、直々にお書きになった「おふでさき」には、
めいめいの身の内よりのかりものを
知らずにいては何もわからん(おふでさき 第3号−137)
と記されています
親神様から、体をお借りしているということを知らなければ、何もわからないとまで書かれています。ですから、このことは、必ず知っておかなければならない、大切なことであるということになります。
では、体をお借りしているということは、どういうことなのでしょうか。
まず、体をお借りしていると言っても、単に肉体のみをお借りしているということではありません。体内で親神様のご守護がお働きくだされていることを以て、体をお借りしているということになります。おやさまは、人間の体内でお働きくださる親神様の十のご守護に、それぞれ神名をつられ、次のようにお説きくださいました。
くにとこたちのみこと
人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理をもたりのみこと
人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理くにさづちのみこと
人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理月よみのみこと
人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理くもよみのみとこ
人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理かしこねのみこと
人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理たいしょく天のみこと
出産のとき、親と子の胎縁を切り、出直しのとき、息を引き取る世話、世界では切ること一切の守護の理をふとのべのみこと
出産のとき、胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理いざなぎのみこと 男雛型、種の理
いざなみのみこと 女雛型、苗代の理
私たちが生きているということは、親神様のご守護が身の内でお働きくだされているということになります。そして、それが体をお借りしているという証拠になります。私たちの体から、こういった親神様のご守護がなくなってしまいますと、一般的には、「死」ということになります。
私たちはお借りしていた体を親神様にお返し、また、新たな体をお借りして、この世に生まれて来るという意味で、「死」とは言わず、「出直し」と言います。この「出直し」も、肉体そのものをお返しするのではなく、親神様のご守護をお返しすると言うことができます。言い換えれば、お借りしていた親神様のご守護が尽きてしまうとも言えます。
また、親神様のご守護には、身の内のご守護に相応した、世界でのご守護もあります。例えば、身の内の「ぬくみ」のご守護は、世界では「火」であり、身の内の「眼うるおい」のご守護は、世界では「水」となっています。
つまり、親神様のご守護は、身の内だけではなく、同時に世界でもお働きくだされているということです。いくら身の内で、親神様のご守護がお働きくださっていても、世界の火、水、風といったご守護がなければ、私たちは生命を維持することはできません。逆に、世界でのご守護がいくら満たされていても、身の内のご守護がなくなれば、私たちは生きていけません。
ということは、私たちが、体をお借りしているというのは、単に身の内のご守護だけでなく、世界のご守護も同時にお借りしていることになります。このように考えますと、私たちは、体だけではなく、自然環境から人間関係まで、自分の心以外は、ありとあらゆるものを親神様からお借りしていると言えます。
「おふでさき」には、
だんだんと何事にてもこの世は
神の体や思案してみよ(おふでさき 第3号−40)人間はみなみな神のかしものや
何と思うて使うているやら(おふでさき 第3号−41)
と書かれています。
ここで、「かしもの・かりもの」ということを考える上で、一つの例え話をさせていただきます。
市場で魚を買います。その魚の代金を支払った人は、魚の所有者となります。では、魚を買った人は、魚に対していくらの代金を払ったでしょうか。実は、魚を買った人は、魚そのもの代金は1円も支払っていないのです。海や川を泳いでいる魚には、値札はついていません。所有権も存在しないのです。市場で魚を買った人が支払った代金は、人間に分配されるだけで、魚そのものには一切支払われません。もちろん、魚を買った人が、この魚は自分のものだと言っても、おそらく問題は起こらないでしょう。それは人間社会では、そのようなきまりになっているからです。魚を買った人がお金を払ったのは、魚屋の人に対してです。そして、魚屋の人は、漁師や仲介業者にお金を払います。ですから、魚そのものには誰もお金も払っていないことになります。つまり、お金は人の労力に対して支払われたのであって、魚そのものは「ただ」ということになります。
魚に限ったことではなく、植物や資源に対しても同じことが言えます。全ては「ただ」なのです。おふでさきのお言葉をお借りすると、「神の体」ということになります。
魚も人も、親神様のご守護がなくては、存在できません。ですから、「かしもの・かりもの」ということから思案させていただくと、この買った魚は、親神からお借りしたものだということになります。
それでも、人は「この魚はあなたのものではない」と言われると、「いや、いや、これは自分のものだ」と言い張ります。なぜなら、もし、自分のものでなくなれば、だれか他の人のものということになってしまう可能性があるからです。自分がお金を払ったのに、他の人のものになったのでは、困ります。しかし、これは、人間社会における所有権の話であり、親神様と私たちの心の間においては、何事につけ常にお借りしているものということに変わりはありません。
従って、おふでさき中の「何と思うて使うているやら」というお言葉は、「自分のものだと思って使っているのではないか」という戒めであると解釈できます。親神様からお借りしているということを無視した、「自分のもの」という考えと、何でも「自分のもの」にしたいという心が、私たち人間の「陽気ぐらし」を妨げる要因になっているのではないでしょうか。
話が少し逸れますが、おやさまは、商売をされている方に、「商売人は、高く買って、安く売れ」とおっしゃったそうです。普通は、同じものなら、安く買って、高く売りたいものです。しかし、「かしもの・かりもの」の教えをもとに、考えさせていただくと、このお言葉の意味が理解できます。
お金は物に対して支払うのではなく、その物が買った人の手に渡るまでの人の労力に対して支払うのです。ですから、安く買うということは、人の労力を低く評価したことになってしまいます。
値切って、安く買ったり、上手いことを言って、高く売ったりすると、ついつい嬉しくなり、時には自慢したくもなるものですが、時には人の労力をかすめ取ったことにもなりかねませんので、気をつけなければならないと思います。
一方、お借りしている側の私たちの「心」についてですが、おやさまは、「心一つが我がの理」と、お教えくださいました。つまり、「自分のものだ」と言えるのは、心一つだけだということです。そして、銘々の心によって、親神様からどのようなものをお借りできるかが決まってくるのだと教えていただいています。
今、何をお借りしているかは、過去の心遣いによって親神様がご判断くださるわけで、今現在の心、そして今後の心遣いにより、将来お借りできるものも変わってくるということになります。
簡単に申しますと、今あるものを大切に使っている人は、新たに親神様からお借りする際には、さらに大切に扱いたくなるようなものをお借りできるということになります。逆に、粗末に扱っていると、新たに親神様からお借りする際には、さらに粗末に扱わざるを得ないようなものをお借りすることになるか、もしくは、お借りできないということにもなってきます。
全てが親神様からお借りしているものだと考えると、体や物だけではなく、妻、夫、両親、子ども、兄弟、友人、上司、部下、同僚といった人間関係にも、また、家、仕事、才能などについても同じことが言えると思います。
ただし、物事の善し悪しというのは、銘々の心によって違いますので、決して外見や数量だけで評価できるものではありません。お金を大切にする人が、必ずしも、将来、億万長者になるということではないと思います。
たとえ見た目はよさそうに見えても、それが故に苦労しなければならないということも多々あります。また、見た目はそれほどよくなくても、使っているうちに、愛着が湧き、人から何と言われようが、自分にとっては、何よりも大切なものとなることもあるのではないでしょうか。
皆様方も、それぞれ身上に、あるいは事情に、大小さまざまな問題を抱えていらっしゃることと思いますが、全ては親神様からお借りしている物事の上にあることです。
おやさまは、親神様はそういった身上、事情を通して、私たちを陽気ぐらしのできる心へとお導きくだされているとお教えくださいました。
この教えをお聞かせいただいた私たちは、身上、事情を抱えた方々を見て、また話を聞いて、そういった方々の心を詮索するのではなく、全ては、自分自身の心に見せられていることとして受け止め、その中に込められた親神様の思し召しをしっかりと理解することのできる心にならせていただかなければならないと思います。
きょうは、「かしもの・かりもの」という教えについて、短い時間ではございましたが、少々思案させていただきました。何度も聞いたことがあるので、もうわかったとか、なんとなくわかったというのではなく、お互いさらに深く思案させていただかなければならないことであると思います。
天理教ヨーロッパ出張所では、この夏、「天理教のつどい」や、「セミナー」、また若い人達には「パレット」といった行事を企画しております。こういった機会に、おやさまがお教えくださった教えを、皆様方と共に、さらに深く思案させていただければと、願っております。
最後に、天理教教典、第7章、「かしもの・かりもの」の終わりの部分を拝読させていただき、本日の講話を終えたいと思います。
人の幸福は、その境遇にあるのではなく、人生の苦楽は、外見によって定まるのではない。すべては、銘々の心の持ち方によって決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで暮らすのが、信心の道である。
すなわち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我がの理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、おやさまのひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに暮らさせて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。
(天理教教典、第7章、「かしもの・かりもの」)この世は一れつはみな月日なり
人間はみな月日かしもの(おふでさき 第6号-20)
ご清聴、ありがとうございました。