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2019年11月月次祭神殿講話

ケルン布教所長 志水美郎

落ち葉掃きの季節を迎えました。この季節、芝はまだ緑ですが、それでも落ち葉が一面を埋め尽くすと、芝の緑はまばらとなり、あたりは茶褐色の「秋色」となります。それは地上の紅葉のように思えて風流だなと思います。この地上の紅葉を掃き清めると、いい汗をかきます。落ち葉を掃くと秋霧に濡れた落ち葉が日の光できらきらと輝いています。それをざっく、ざっくと掃いてやると、緑の芝が下から見えて、緑と茶色の落ち葉が見事な自然美を作っています。その落ち葉をはきながら、たとえばこの落ち葉を、私たちの心のほこりとたたえて、緑の芝をきれいな心と考えると、どうでしょうか。やや強引なたとえかもしれません。けれど緑の芝が一面の落ち葉で隠れ、その落ち葉を掃き清めると再び美しい芝に戻るあたり、私は心の掃除を庭掃除を通して思ったのです。落ち葉は積もるものです。同様に、ほこりも人間は生きているかぎり、ほこりを積むものでもあります。落ち葉掃きそうであるように、ほこりを積むけれど、それを払うことが実に爽快であり、なんとも言うに言えない喜びが沸き起こるように思うのです。教祖ほこりとは積もるものとも申されています。逸話篇に新建の家に目張りをいくらしても二三日もたつと、畳がほこりで白くなる、そういうものや、毎日、心の掃除をしないと、ほこりがつもると、お教え下さっている通りです。ほこりは災いのもと、心の悪しき行いがほこりとなって心を曇らせて、やがて身上、事情のお手入れを頂くところとなると諭されていますので、ほこりがないのに越したことはありません。あるお話によれば、教祖ご自身でも外をお歩きになられるとほこりがつく、と申されたとも。

では、ほこりの心が当たり前だと言うつもりはありませんが、生きるということは知らず知らずにでも、ほこりを積んでいます。落ち葉を掃きをしながら、ほこりを積む心はよくないけれど、教祖は、それよりも、ほこりを払うことの大切さと喜びを強調してお教えくださっているのではないかと感じたのです。落ち葉を掃いた後の爽快感はだれでも経験があることでしょう。ほこりをはらうことは爽快なことでしょう。おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、高慢、そしてうそと追従は神がきらいと表現されています。これらのほこりを払うことが大切なんだよ、と教祖はねんごろに教えてくださっているのです。

もう一つ、ほこりのお話をしたいと思います。朝の掃除が終わって、ほっこりして、そして事務所に自転車で向かいました。その道中、ふと数年前のことを急に思い出しました。私は数年前に私の親である大教会長さんに、すごい剣幕で怒られたことがあります。私はいつもよく怒られる方なのです。怒られた内容をここでは説明いたしませんが、ある時、私が正しいと思い、また大教会長さんに喜んでもらえると信じて意気揚々と行った天理工房での行事がありました。ところがそれを報告するや否や、頭ごなしに怒られて、最後には「お前は本当にお道の人間なのか。お道の人間であれば相手の気持ちを思うことを勉強せよ」と激怒されたのです。自分ではよいことをして喜ばれるとおもっていたことが、真逆であったのです。けれど、どう考えても怒られる理由も意図も全く分かりませんでした。その行事は大勢の人を喜ばせるものだったのです。そのまま心に落ち着かぬものを持ちながらも時が過ぎていきました。それが、その日、自転車を漕いでいる瞬間に、急に、はたと気づいたのです。成程、大教会長さんはこういうことでお怒りになられたのだと理由がわかったのです。腑に落ちたのです。それは事が起こってから2年近く経っていました。

この話と、ほこりと、どう関係するのか、ということです。それは私の生き方、性格がほこりを積みやすいことを会長さんはお叱りになったのだということなのです。性格は誰もが持っている個性です。良いところもあれば、時に悪いほうに働くこともあります。私は丙午のうまれなのか、馬車馬のように目の前のことに一直線で進む性格です。この性格は物事をはじめたり、無理と思われるような状況を乗り越えようとする時に、一所懸命に力を出す一方、一旦、動き出すと周囲をあまり見ません。ですから他の人の心さえを感じにくくなるのです。前に進むことばかりを考えるからです。こうした性格が災いするのは協調性のなさ、あるいは思い込んで相手の立場や気持ちを汲むことに疎いというところです。これを性格ですね、性格というのは人間であればだれでも持っている心ですから、仕方がない、というようにも、言えるかも知れません。けれど先に述べたように、場合によっては自分のこの性格から来る心遣いが、他の人の気持ちを無視してしまい、感謝もされない、神様の目から見るとほこりの心遣いに落ちることもあるのです。そうだとすると、性格だからとあきらめてはならないと思うのです。私は性格そのものが、ほこりで悪いとはおもっていません。性格とは個性であり、これは神様から人間にお与えいただいている唯一の重要な心です。これがないと人間とはいえないともいえるでしょう。皆さんもよくご存じのように人間の性格はよいところもあれば悪いところもあるわけです。自分の性格による言葉や態度ですね、それが自分で気づかないうちに、他人を傷づけたり不快な思いにさせているとなると、これはほこりとなると教えて頂いているのです。たとえば、貴方の近くに置いてある本を、ある人が取ってください、といわれて、その本をぽいと机に放るようにして上げると、どうでしょうか。本を渡したほうは、本をとってやったんじゃないか、感謝されるほうだ、となります。一方、本を取ってくださいとお願いした人は、確かにお願いしたし、本を取って下さったことには感謝する、けれども本を机に放る必要はないだろう、なんと乱暴な、無神経な、と嫌に思うかもしれません。本当に何気なく行った行為でも、決して乱暴に本を投げたつもりでなくとも、それが相手を不快にして喜んでもらえないことがあるのです。性格が時に人を不快にすることもあるのです。私が大教会長さんからお叱りを受けたのは、まさにそういう私の性格によるほこりであったということに、自転車にのりながら気づいたのです。

その夜、家にかえり神実様に深く首をさげました。「私は数年経ってようやく自分の性格がほこりを生むということを気づきました。まことに申し訳ありません」と神様にお詫びを申し上げました。そして続いて「このほこりに気づかせて頂いたことが何よりも有難く思います。神様、本当に有難うございます」と感謝も致したのです。私にとって自分の性格によってほこりが生じることにきづいたのです。そしてほこりに気づいたとき、心の底からお詫びが出来て本当にあの時は申し訳なかったと思えたのです。そう思えた時、心に安らぎというのか、ほこりに気づかせて頂いて本当にありがたい、と心底おもえたのです。有難いと思えた時の喜びは格別です。そしてほこりとなる性格をしっかりと直すことを心掛けるようにしています。まあ、なかなかすぐに性格は直りません。ですから同じようなことを繰り返してしまいがちですが、はたと立ち止まるように、気づけるようになってはいます。本当に有難いことです。

さて、では一体、なぜ私は自転車にのっているだけで、自分のほこりに気が付いたのでしょうか。ほこりに気づくということは私には一つの悟りです。ほこりがわかるということは、自分を客観的に見るということです。それはあたかも鏡を見ずに自分の姿を見るように実に難しいことだと思います。私が突然、自分のことが分かったのには、伏線がありました。庭掃きもその一つでしょう。何か物事がうまくいかないなあ、と思うときは先ず身体を動かしてひのきしんをするに限ります。庭掃きも、ほこりに気づかせて頂く象徴的な出来事だったかもしれません。けれど、それとは別に、私はその日に至るまで、全く異なる問題を2,3つと見せて頂いていたのです。問題は全く関連性がないもので、一つは人間関係で誤解がありコミュニケーションがうまくいかなかったこと、一つは会計のこと、また一つは、身体の不調です。3つの出来事は全く関連のないものでした。私はそれでも事情、身上が3つ重なったとき、それは神様からのシグナルとおもっています。そういう時は一度、問題を図式にしてみるのです。なんだろうか、これはと。一見、全く関連のない数々の問題ですが、図が指し示す、その中心にあるものは、さて一体、何だったのでしょうか。それは私を中心に問題がすべて結ばれていた、ということです。問題は別々でも、その中心には自分がいたのです。皆さんには、そりゃあ当たり前だろう、そんなことにも気づかないとは、と呆れられるかと思います。けれど、改めて図式で問題の中心に自分がいることを明確にしてみますと、なかなか興味深いものです。よく考えてみますと、目の前の問題の根は、じつは数年も前の出来事にさかのぼることもあります。そのほかに、問題になって解決できていないことを、書いていくと次々と、思い出すことがあるのです。あの時は自分がいくらか感情的になっていたので、あのような言葉を吐いてしまったのかもしれないなあ、というようにです。目の前に起こった事態を通じて、昔の自分の姿をふと思い出したりするのです。もしかすると、これは、ほこりではなかったか、というように思えることも少なくありません。そのとき、よくあるのは問題が同じ方向をむいているのではないか、ということです。一見、別々の問題でも図式にしてみますと、目の前の小さな問題が、実は昔にも同じようなことがあったと思えたり、それは自分の態度が相手に不快感を起こしたのからではないか、と気づいたりするのです。現在の問題が案外、過去の問題の質と同じだと結びつくのです。つまり、現れてきた状況は異なるけれど、昔から現在まで似たような問題を繰り返してきている、ということに気づくのです。もちろん、気づいただけで解決策がさっと思いつくわけでもありませんし、事態が急展開するわけでもありません。ただし、目の前の問題は、単立ではなく、過去からつながっている、というように問題を自分の性格と関連付けて感じることが出来るのは、これは解決策の糸口ではあります。こういうことがあっての、庭掃きの思い付きであったり、自転車での「悟り」が現れたと思うのです。一つのほこりの心遣いに気づくとき、別のほこりにも気づかせて頂けることがあります。もし、目の前の問題を心のほこりから生じたとは疑わず、問題を合理的に理解して、効率的に解決したとしても、一旦、問題が解決されても、同じような問題が起こってくるはずです。なぜならば、問題となった元には、自分の性格が作用していることが多く、性格の方向を変えないと同じ問題をくりかえしてしまうのです。ほこりに気づく、ということは、それが将来的に繰り返される問題を回避できるということになります。つまり、ほこりに気づかせて頂いて、ほこりのおかげで助かった、といえるのです。もちろん、ほこりで助かるわけでありません。ほこりを積んでいたということを気づき、それを払うように努力をすることが出来る、という意味ではたすかる大前提としてほこりがある、ということになるのです。では次に、ほこりをどのようにすれば清められるのでしょうか。ほこりを積む性格をどのように直すことが出来るのでしょうか。第一に、神様の前でおつとめをさせて頂き、神様にお詫びと、そして大切なのはお礼を申し上げるいう行為です。それを毎日、毎日、おつとめをしていくうちに自分の心の向きを変わり、いつしか、ほこりは払われていくのです。現在の事情を通じて昔のほこりに気づき、ひいては現在の事情も、たとえ自分が正しいと思っていたのに起こったことでも、実は問題をはらむのは自分の性格にあったと気付けたとしたらどうでしょうか。一つのほこりに気づくことで、他のほこりも払うことができるのです。ほこりを払うことは、たやすいことだと教えて下さっています。だれでもが気づけば実行できるものなのです。けれど小さなほこりを払うだけで、実は自分の運命、そして未来の自分の在り方を大きく変えることが出来るんドエス。。小さな行いで人生、そして未来を変える、なんという壮大なことではありませんか。

このほこりについて、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。ほこりのもとになっている、いんねんということです。みなさんは、いんねんという言葉をご存じでしょうか。もとは仏教用語ですが、教祖は同じ言葉を使いながら天理を教えられるために、この言葉を用いられています。教祖が教えられた、いんねんには大きく分けて、天理に関するいんねんと、一人一人の人間に関するいんねんの2つの種類があります。まず天理の因縁とは、旬刻限の理、ぢばの理、そして教祖魂のいんねんのことです。これをわかりやすく申しますと、人間が創造されてから、あらかじめ決められた時が経ったなら、人間創造の場所に、元の親がお現われになる、ということを立教のいんねんと申します。これが「天理」のいんねんです。もう一つは人間一人一人のいんねんとは、人間が神様に御創り頂いた始まりから今日にいたる命の脈の意味です。これは一人一人の人間の生き方そのもののことです。自分が生まれて、ここに生きているということ、そしてなぜ生きているのか、どういう方向へ自分が進んでいこうとしているのかを指し示すのがいんねんです。私はこのいんねんの教えはDNAのようなものかしらん、と思うことがあります。人間には魂というものが宿っていると教えて頂いています。人間の体は凡そ寿命があって、教えでは115歳まで十分に使える身体だということです。それでも、いつかは老化して出直しとなります。反対に人間に宿っている魂は生き通しと教えて頂いています。人間が初めて創られた時に神様は人間に魂を与え下されて以来、人間は心を自由に使えます。心を個性とか性格というようにも申せましょう。魂の器となる身体を神様から貸し与えて頂いており、魂だけが人間、つまり私たちの自由になるのです。個人の性格は魂に由来しています。魂は何千、何百世代にもわたって、身体を貸し与えて頂き、現在に至っています。皆様なかですでにお別れをなさった身近な方ですね、私ではおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは父や母も、身体はなくなってしまいましたが、その魂は生き続けているので、どこかに生まれ変わっていることでしょう。この魂が身体にやどり生きている間には、様々な出来事を経験して現在の私たちがあります。その間、私たちの経験は克明に魂に記録されています。今日の皆さんは実は何百年何千年と生き抜いてきた魂をお持ちで、これまでの生き方が魂を通じて皆さんの今の性格や個性に反映しているのです。私たちが自分の性格をみる時、一つには自分がこれまで経験を通じて学んできた経験知から影響を受けていることを知っています。意識できる性格ですね。また他方では、何千年と生き続けてきた魂の経験知が性格に由来もしているのです。その両方が皆さんの個性を作っているわけです。C.G.ユングという心理学者は、このことを意識と無意識の世界と呼んでいます。なかなかうまく説明していますね。さて、この魂がこれまでに経験してきた魂の経験知を私たちはいんねんと呼んでいます。いんねんとは魂の経験の積み重ねであり、それも今の皆さんの個性や性格に大きく影響しています。このいんねんを理解することができれば、私たちは過去の自分の生き方がどうであったか、そして未来にどのような自分が生まれ変わって現れるのか分かるのです。ではどうすれば、いんねん、つまり私たちの過去、現在、そして未来の姿がわかるのでしょうか。性格は親譲りだから、親を見たら自分も似ているのでわかる、ということも言えるかも知れません。実際に子供は親に似てくるものです。ですので自分の親の姿を思い返すと、自分の一部がわかるかもしれませんね。これもいんねんの一つの見方でしょう。けれど、いんねんという魂の道筋を知るには、先に話したほこりに気づかねばなりません。これが第一歩です。

ここで再びほこりに戻って考えてみましょう。ほこりには八つの種類と2つの悪しき心遣いと、合わせて10のほこりが挙げられています。非常に具体的に挙げて下さっているのは、だれでもがわかりすく、誰にでもすぐに、ほこりを払うということが出来るという親心からでしょう。私たちは、八つのほこりの教理を知っていますので「なるほど怒ってはいかんなあ、欲はいかんな」と読んでも、日常生活の中ではすぐに怒鳴ったり、あるいは陰口をつい言ってしまったりするのが常ではないでしょうか。その一つ一つに気づいて反省することも大切ですが、大きな問題が起こった時、じっくりと自分の心のほこりと照らして考えてみたいのです。そうすると、ほこりのもとには自分の気が付かなかった性格に起因することもある、と分かるのです。繰り返しますが、起こってきた問題に対して、自分が正しいと思っても、自分のほこりについても少し落ち着いて考えてみることで、物事を冷静に考えることが出来る見るというのが、ほこりの教えです。つまり、ほこりがたまった自分の性格を鏡に映して頂いているといえます。鏡に映し出された自分の姿は、時に、自分自身が想像していたこととは全く違う姿に思えるかもしれません。けれど、ほこりは間違いなく自分の姿の一部なのです。自分の知らない姿が見えることがあります。それは魂の経験から現れてきた状況が見えることがあるのです。

自分の魂は生き通しです。自分の知らない何千世代という自分を記録しています。大きな運命の転換に出会ったとき、うろたえることもあるでしょう。こんなはずではなかったと思われるかもしれません。そういうとき、ではどうすればよいのでしょうか。どうか安心してください。その助かり方を教祖が教えて下さっているのです。起こってきた、なってきた運命は、たしかに自分の魂の道筋から現れてきたことですが、魂の道筋を変えることで、生き方を転換できるのです。魂の道筋を変えるのは、実はごく身近の出来事に対してほこりを払う心遣いだけで、変えることが出来るのです。運命を左右しているのは、心のほこりなのです。このほこりを払いたいと思うとき、神様は、気づいたならば、私たちをぐっと抱きしめて安心して親にもたれていいんだよ、と申されています。神様は「ほうき」として心のほこりを払って下さるのです。まずはほこりに気づくことから、いんねんに気づかせて頂くことができて、ひいてはほこりをはらうことで運命を切り替えて頂けるのです。いんねんの切り替えといわれているところです。今日みなさまと、つとめたおつとめこそ、このいんねんの切り替えをさせて頂ける一番の方法なのです。あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと。これなのです。そして、ほこりの心に気づかせて頂いたことを喜び、ほこりおつとめによって、ひのきしんによって、そしてなによりも人をたすけるという心構えによってほこりを払っていただけるのです。運命を切り替えて頂けるのです。

今年も早くも1か月余りで終わります。来年、当出張所は50周年記念祭を迎えさせて頂きます。記念祭にむけて、今年一年のうちに、ともども心の向きを変え、そして世の治まりを見せて頂けるよう、心定めを実行させて頂いているお互いかと存じます。まだやり残していることが年内に達成できるよう、ともどもに努めてまいりたいと思います。

今日、初めてお参りされた方には何のことなのか、よく分からないかもしれませんが、今日のご参拝は、教祖からのお導きでなったことかと存じます。教祖にお招きされてお越しいただかれた、この日を一つの機にして頂いて、ご自身の運命が良い方向へと向かわれることに違いありません。どうぞ、教祖を信じてこの道をもっと知ってくださいませ。お願い申し上げます。

長時間のご清聴、誠に有難うございました。

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