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2013年2月月次祭神殿講話

内子パリ布教所長 松川高明

本日は、皆様と共に、賑やかに2月の月次祭を勤めさせていただき、誠にご同慶に存じます。皆様方にはお忙しい中、また大変お寒い中を御参拝いただきまして誠に有り難うございます。只今から神殿講話をつとめさせていただきますので、しばらくお付き合いいただけますようお願い申し上げます。

皆様ご承知のように、教祖百三十年祭に向かう三年千日の活動が先月より始まりました。教祖年祭の元一日は、教祖が九十歳で現身を隠された、明治二十年陰暦正月二十六日にあるとお教えいただきます。

おさしづに、

「さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで/\。」(明治23・3・17)

「存命々々と言うであろう。存命でありゃこそ日々働きという。」(明治29・2・4)

「影は見えねけど、働きの理が見えてある。」(明治40・5・17)

と仰せ下さいますように、教祖はお姿こそ隠されましたが、お魂は元の屋敷におとどまり下さり、今なおご存命で、世界たすけの上にお働き下されているのであります。このご存命の教祖の親心に応えて、たすけ一条の道を真剣に通らせていただき、少しでも成人した姿を教祖にご覧いただき、お喜びいただこうと、年限を仕切ってつとめるのが、教祖年祭の意義であるとお聞かせいただきます。

世間一般的には、教祖生誕何年祭、立教何年祭という節目の方が重視されるのでしょうが、天理教においては、教祖が百十五才と仰せられたその定命を二十五年お縮めになってまでも、子供の成人を急き込まれる上から、その現身をお隠しになられた、この正月二十六日という日が最も大きな節目となるのであります。今でこそ115才という寿命は理解できるのですが、教祖ご在世当時の平均寿命は男女とも40才未満であったそうであります。その時代に教祖は、人間は百十五才の定命を全うし、病まず死なず弱りなきようにおいてやろう、またその先は、心次第で、おりたければいつまでもおいてやる、と仰せになられているのであります。

余談になりますが、現在生存なさっている方で、世界最長齢の方は、日本人の男性で昨年115才になられた木村さんという方で、病院にも入らずまだまだお元気でいらっしゃいます。過去一番長生きされた方は、1997年に122才で亡くなられたフランス人のカルマンさんという方だそうであります。

教祖のお言葉に、千に一つも違うことはないと信じ切ってついて来られていた当時の人々にとっては、教祖が九十歳にして現身をお隠しになったのですから、それこそ驚天動地のことであったろうと思われます。しかし、後日のおさしづに、

「さあ/\分からん/\、何にも分からん。百十五才、九十才、これも分からん。二十五年不足、どうであろう。これも分からん。どうしても、こうしても、すうきり分からん。故に二十五年を縮め、たすけを急ぎ、扉を開いて世界をろくぢに踏み均しに出た。神でのうてこの自由自在は出けようまい。止めるに止められまい。神は一寸も違うた事は言わん。よう聞き分けてくれ。これから先というは、何を聞いても、どのよの事を見ても、皆楽しみばかり。」(明治20・2・24)

と仰せくだされて、なぜ二十五年の寿命をお縮めになられたのかを、はっきりとご解明くだされたのであります。

当時は官憲の弾圧が厳しく、教祖の望まれるおつとめを勤めると、高齢の教祖が官憲に連れて行かれ投獄されるので、人々はなかなか教祖の仰せ通りにすることはできなかったのであります。このままでは、道が遅れるとの事で、たすけをお急き込みくださる教祖は、現身を隠して働くならば、官憲も止め立てすることはできないであろう、との親心から定命をお縮めになられたのであります。
かくて、教祖が現身をお隠しになられて後、道の先輩方は教祖の年祭を成人の一里塚として、たとえ、いかなる節をお見せいただいても、教祖はご存命のままにお働き下されていることを固く信じ、旬々におかけくださる親のお声に添うて通って来られました。教祖の最初の年祭は、一年祭として、明治21年に執行され、続いて、5年祭、その後は10年ごとに、教祖の年祭が執行されております。そして、来る3年後の一月二十六日には、教祖百三十年祭が執行される運びとなっているのであります。

この年祭に向けての活動指針を示すべく、真柱様より昨年10月の本部秋季大祭の折、諭達第三号をご発布いただきました。この中で真柱様は次のように仰せくだされております。

教祖は、世界一れつをたすけるために、だめの教えを啓かれ、子供可愛い一杯の親心を以て、たすけ一条にお通りになり、五十年にわたるひながたの道をお遺し下された。この間、たすけづとめを教え、万事の元を明かして道の次第を整えられ、明治二十年陰暦正月二十六日、かねて仰せのつとめの実行を尚も急き込み、人々の成人を促して、現身をかくされた。以来、「今からたすけするのやで」とのお言葉通り、存命の理を以て、今も変わることなく、世界たすけの先頭に立って、私達をお導き下されている。この限りない親心に仕切ってお応えすることこそ、教祖の年祭を勤める意義である。心新たに、よふぼく一人ひとりが立教の本旨を胸に刻み、陽気ぐらし世界建設のよふぼくとしての自覚を高め、ひながたを目標に実働すべき旬である。」

と、年祭を迎えさせていただく、私達の心構えを明確にお諭し下さっております。

ここで改めて、教祖の五十年にわたるひながたの道を簡単に振り返らせていただきたいと思います。

天保九年十月二十六日、数え41才で月日のやしろとなられた教祖は、そのお姿は人間のままながら、親神天理王命のお心を持った地上の月日となられ、親神様直々のお話として、人間創造の由来と守護の理を人間にお伝えくださいました。すなわち、人間創造の元なる親、親神天理王命を教え、人間の命が宿し込まれた場所、ぢばを教え、またどのように守護されてきたのかを、十全の守護の理で以て、事細かにお解き明かし下さったのであります。そして、人間創造の親神様の御高恩に対し、人間がどのようにして御礼を申し上げたら良いのか、その方法を、おつとめの理としてお教え下さいました。教祖はこれらのことを、口に、筆に、またご自身の行為を通して、種々と手を尽くし、心を配って教え導かれました。この教祖が実際にお通りになられた五十年間を、陽気ぐらしへと向かうひながたの道として、私たちは信仰の目標として歩ませていただいているのであります。

この教祖のひながたの始めの二十五年間は「貧に落ち切る道」でありました。その中で教祖は「施し」という形をとられ、「欲の心」、「執着の心」の捨て方をお教え下さいました。それは、人間が真に救けていただくには、一切の人間心、人間思案を捨てて、神様にもたれ切って通ることが肝要であり、そのためには「欲の心」と「執着の心」を捨てなければならないと教えられたのであります。このことは「稿本天理教教祖伝」に、次のように誌されております。

「物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開けると、教えられた。」

教祖は、陽気ぐらしへの道を歩む根本は、まず「よく」を忘れるところにあることを、身をもってお教えくださったのであります。しかし、教祖が貧に落ち切られたのは、あくまでも「欲の心」を捨てて、神にもたれるという「ひながた」を残すために通られた道であり、決して財産を捨てたり、貧乏になることをすすめたり、「施し」や「慈善の行い」そのことをすすめるために通られた道ではありません。神にもたれ切る道を、ひながたとして残すために通られたご苦労の道であります。

こうした、二十数年にわたる長い苦難の後、教祖、六十五才の頃より、ようやく「おびや許し」が道明けとなり、親神様の思召が世界に弘まり始めていきます。不思議な救け、奇跡は次々に現れ、世界救けの道は大きく前進していくのでありますが、この後、教祖の受難の形が変わり、今度は二十五年もの間、官憲による迫害弾圧の時代を迎えることになります。
教祖は、人間創造の親神天理王命様の御恩に御礼を申し上げるための唯一の道、方法として、「おつとめ」をお教え下さいました。この「つとめ」を真剣につとめさせていただくなら、どんな病気も、災難も必ずご守護いただけ、さらには世界を治めていただけるたすけ一条の本真実であるとお聞かせ下さったのであります。教祖は、その五十年間の「ひながた」の中で、半分を「貧に落ち切る道」でご苦労下され、後の半分は「つとめ」完成のために、迫害弾圧をご苦労下さいました。なぜなら、この頃「つとめ」を禁止して、天理教をつぶそうとの官憲の企みがあったからであります。

教祖つとめをお急き込み下さるとともに、弾圧もますます厳しくなっていきました。そのため、教祖は御年77、8才の頃より、十二年間にわたり、約十八回にも及ぶ留置投獄の迫害に遭われました。こうした官憲の弾圧も、成人をお促し下さる親神様のお心の現れではありますが、当時の人々にとっては、眼前のご高齢の教祖のご苦労を思えば、容易にその思召を悟れなかったのであります。たすけをお急き込みくださる教祖は、道の遅れを心配なされ、その現身を隠して働くならば、官憲も止め立てすることもできないであろう、との親心から二十五年先の定命をお縮めになられたのであります。

このことは、おさしづに次のように述べられております。

「さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。・・・さあ、これまで子供にやりたいものもあった。、なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。」(明治20・2・18)

すなわち、「ろっくの地にする」というのは、これから世界一れつの子供たちを分け隔てなくたすけ上げるとの意味であります。「これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いた」とは、おさづけの理のことで、それは実の箱、すなわち教祖ご自身が持っておられたのであり、「子供可愛い」、世界一れつを早くたすけたい思いから、ここに二十五年先の命を縮め、現身を隠し、これからは存命のまま世界たすけに働くのであるから、これから先々の道をよく見ているがよい、そして今まで渡したくても渡すことのできなかったさづけを、これからだんだんと道の子供に渡すのである、とこのように仰せ下されたのであります。

つまり、教祖は世界一れつを早くたすけ上げたい思召から現身を隠され、存命のままにおさづけによって、お働きくださることになったのであります。身上病むところをたすけようと思し召されてお渡し下さるのが「おさづけの理」であります。親神様は、よろづたすけの道として、おつとめを教えてくださいましたが、その上になお、身上たすけの道を教えてくださったのであります。おさづけの理は、親神様教祖から渡されるもの、おさづけは取り次がれるべきものであります。ここで最も大切な点は、この親心の恵みであるおさづけは、たすけを願って自分に取り次ぐものではなく、他の人のたすかりのために取り次ぐべきものであると教えられていることであります。正に「人たすけたらわがみたすかる」と、仰せいただくところであります。

教祖のひながたを目標に歩ませていただく私たちは、教祖から教えていただいたたすけづとめを日々真剣につとめさせていただくことで、世界の治まりを願い、また真実込めておさづけを取り次ぐことで、ご存命の教祖にお働きいただけるようにしっかりと努めさせていただきたいと思うのであります。

冒頭に述べました三年千日の理合いについては、おさしづに、次のように仰せ下されております。

「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。(中略)なれど十年経ち、二十年経ち、口に言われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年通れと言えばいこまい。二十年も三十年も通れというのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道がないで。」(明治22・11・7)

月日のやしろとお定まりになってからの、教祖のご生涯は「口に言われん、筆に書き尽くせん」という苦難に満ちた道すがらでありました。だれもが容易に通れる道すがらではないように思われます。しかし、それはあえて選ばれた道なのかもしれません。問題は、そのような中を教祖がどのようにお通りになられたかを、よく思案させていただくことであると思います。「ひながたどおりに」と仰せられますが、それは、このご苦労の足取りをそのままの形で実行せよと仰せになっているのではないと思います。そこをどのように教祖が対処されたのかを見習い、それを素直に実行させていただくことが大切なのではないでしょうか。「ひながたの親」として、子供可愛い親心から私たち子供の手を引いてお連れ通り下さる親心にお応えさせていただくべく、しっかりとひながたの道に学んで、素直に実行させていただかなければならないと思います。

私たちは、「十年の中の三つや」と仰せ下さる親心を有り難く受け止めさせていただき、三年千日と仕切って目標を定め、少しでも成人させていただき、ご存命の教祖にお喜びいただけるよう努めさせていただきたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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