Tenrikyo Europe Centre

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2020年2月月次祭神殿講話

大ローマ布教所長 山口英雄

当ヨーロッパ出張所は、本年創立50周年を迎えるわけですが、その記念式典が、本年9月20日に執行されるのですが、その基礎を築かれた、鎌田親彦先生、田中健三先生に私たちは多大なる感謝の念を常に維持していく必要があると思います。時は1962年、二代真柱様は、教祖80年祭を1966年に迎えるにあたり、諭達第二號を発表なされました。その中で、日本国内の布教伝道は年寄りに任せて、若者は日本国外、つまり、日本から見て、海外に出かけるように促されました。そのお言葉を真摯に受け取られ、アメリカ伝道に情熱を傾け、教会設置の御守護をいただかれた方もおります。同じ頃、当時の海外布教伝道部はヨーロッパに道をつける御守護をいただくために、鎌田先生、田中先生をパリに派遣したのです。両先生は、パリ大学のソルボンヌに入学され、神学、哲学を勉強いたしております。その上、フランス語に磨きをかけるとともに、フランスの宗教事情、社会事情を研究しておりました。その合間には、パリを訪れる天理教の本部の先生、多くの大教会長様たちを案内しておりました。1969年海外伝道部の時のヨーロッパ課長であられた飾東大教会長紺谷久則先生がパリにお見えになり、ヨーロッパ出張所の前身であるパリ出張所を開設するように努力されました。その心定めが実を結び、1970年9月にパリ出張所開設の運びとなりました。それと同時に、布教伝道も大事であるが、日仏の文化交流もないがしろにできないということで、天理日仏文化協会が、翌年1971年にオープンしました。初期は日本語教育が中心であったと思います。それを構築するために、パリに日本語学校を作ろうということで、その当時パリにいらっしゃった慶應大学の斎藤先生、早稲田大学の北条先生、両先生とも、当時の外国人への日本語教育に関しての権威者でありました。その先生方の助言、忠告を実現しながら、パリにおける日本語教育の確立と学校の信頼性を獲得することができたと思います。

ところで、私ごとになりますが、少し時間をいただきます。お聞きになりたくない方は、耳に栓をしてくださって結構です。私はただいまイタリア・ローマで生活しておりますが、はじめの頃は居住する方法がなかなか見つかりませんでした。そのために留学生として滞在しておりました。最初はイタリア語習得のために1年近くローマの北にあるぺルージャに住んでいました。そのあと、ローマに移り、ローマ大学に入学しました。大学の初期の試験では、教授たちの質疑応答の質問もよくわからず、しっかり応答できず、よく不合格になってしまいました。そんな中一度日本に帰国することになりました。用事を済まして、結婚して、家内を伴ってローマに戻ってきました。そこへ甘い考えが持ち上がってきました。ローマ大学の試験も難しく、生活の方もだんだん苦しくなってきましたので、留学を諦め、ローマ大学を途中でやめて日本に帰ろうかと思いました。しかし、日本からは、大学は絶対に卒業しろということでした。そうした状況に陥った時に新しい道をつけてくださったのが親神様でした。教祖90年祭におぢばに帰らせていただいた時に、お見せいただいたのが家内の身上でした。色々考えたり、多くの先生方のお話を伺い、家内の御守護をいただくには、ローマに布教所を開設するということになりました。これが、私のローマ滞在が長期化した理由です。その後、またローマに戻り、大学の授業にも全身全霊を打ち込み、1978年3月にはなんとか卒業することができました。しかし、大学の勉強に身を投じれば投じるほど、日々の生活が苦しくなってきました。そのために、友達に紹介してもらって、旅行業会に入り、いつでも自由に自分で時間をやりくりできる旅行ガイドをするようになりました。それまでに、多くの天理教の先生方がローマに見えていて、案内していましたので、誰かについてローマの歴史、遺跡について特別に学ぶこともなく、ごく自然にガイドの世界に入ることができ、関係する人々にも大変喜んでいただきました。また、私たちの生活を支えることも可能になりました。

大学を卒業する前後から、時間的余裕も生まれてきました。そこで天理教の原典、教典、教理書にイタリア語の翻訳版がないので気になっていましたので、それらのイタリア語訳を始めることにしました。私は天理教青年会創立50周年の記念事業の一つである「天理教の拠点のないところに、永住を目指す留学生を送ろう」という趣旨の下に送られてきたのです。その留学生は私を含めて9人いました。日本を出発する時、「先ずはピストルとして、海外の地へ行ってくれ、ピストルに詰める弾はだんだんと送るから」と言われたのですが、実際には、布教のための弾は一度も送られてきたことはありませんでした。ですから、イタリア語の実弾は私がやらなければならないという思いになりました。

その頃、私のイタリア人の友達が「筋無力症」という難病にかかりました。どうしても御守護いただきたいと、入院している時には病院へ、退院してからは彼の家へおさづけの取次に毎日行きました。なかなか御守護がいただけなかったのですが、ある時、私の布教所の月次祭に参拝に来るように話しました。とはいうものの大変なことでした。病気のため、足はうまく動かない、上まぶたは自然に下に下がってきてしまい、指で持ち上げていないと目は閉じてしまって何も見えなくなるのです。口も自然に開いてしまって、閉まりません。食物も流動食以外は喉を越しません。彼の家から、私たちの古い布教所があるところまで、距離にして4キロほどありました。最初の頃は布教所まで来るのに2時間ぐらいかかりました。市営の直通バスもなく途中で乗り換えなければなりませんでした。しかし、それが3、4ヶ月すぎるうちに、だんだんと御守護いただき布教所に来るのにも3、40分ぐらいに縮まり、身体の各部所にも力が入るようになり、食べるものもだんだんと多くなって、喉を通るようになりました。こうして過ごしているうちに、彼に天理教の教典をはじめとして、「みかぐらうた」、パンフレットなどを英語版からイタリア語に翻訳してくれるように頼みました。彼はイタリア語は母国語なので、よく解るのは当然ですが、その他、英語、ロシア語、日本語、アラビア語に精通していました。1990年代に入り、身上の方はどんどんよくなって行きました。翻訳の仕事もピッチが上がってきました。彼によってイタリア語の翻訳ができると、私とその当時ローマに留学しておりました現天理大学准教授の森下三郎氏と3人集まり、彼がした翻訳を論議してその訳の是非を検討した次第です。その頃は翻訳作業も順調に進み、ピストルの弾もかなり溜まってきたような気がしました。しかし、彼は2003年に出直してしまいました。しかし、出直しの原因は筋無力症ではなく、肺炎でした。彼が最後にイタリア語に翻訳したのは「稿本天理教教祖伝逸話編」でした。彼の後に、彼ほど言葉に精通している人に出会っていませんので、イタリア語の翻訳は、今、ほとんど進んでいない状態です。イタリアに留学しておぢばに帰った人も3人いますが他の仕事が忙しいのか、イタリア語の翻訳は今の所全然進んでいない状態です。毎年おこなわれている「陽気ぐらし講座」に出席してくれる一イタリア人から、そろそろ新しい翻訳本は出来たかと問われている状態です。

2009年には私は居眠り運転で、交通事故を起こしてしまい、背骨の下から3番目の脊髄を骨折してしまいました。それがしっかりと繋がり回復するまでに50日ほどかかりました。その御守護をいただき、2010年には真柱様がお入り込みくだされ、私の布教所皆そろって喜んで迎えさせていただき、お言葉も頂戴いたしました。そのあと、私はガイドの仕事を終えて、形の上から見れば、お道一筋の生活が始まったのです。友達を通して紹介されたイタリア人が次から次へとガンの病にかかって行きました。年祭活動として、毎日おさづけの取次に通うようになりました。そのうちの一人はローマの南の方に住んでいました。私はローマの北東に住んでいますので、車で行くのにも片道1時間はかかりました。彼女は教祖130年祭の頃には非常に元気になったのです。しかし、それが年祭の日が遠ざかっていくうちに、だんだんと悪化して、骨も脆くなり、自然に腕の骨が折れるということもありました。手術をして丸5年が過ぎようとしている2017年の12月26日には彼女はとうとう出直してしまいました。他の一人は、私の布教所に近いところに住んでいます。こちらにも毎日夕方訪ねて行き、おさづけを取次がしていただきました。時々には、布教所に参拝に来るようにもなりました。日中ですと、神様にお供えしてある献撰物を見ることもあります。ある時、これを神様にお供えしてほしいということで、果物を持ってきました。それが毎日野菜、果物となって毎日続くようになりました。そうすると彼女のガンも消えたようになり、手術後今年で7年になりますが、再発の兆候はありません。

現在、私が抱えている一番大きな問題は、イタリア政府より、「天理教の公認問題」ないしは「集会の自由」という権利をいただくことです。昨年3月、イタリア内務省に行き、天理教の状況を話したのですが、相手にもされませんでした。イタリアはコネ社会と言われますように、内務省の係官も、なぜ社会的立場の高い人を連れてこないのかと暗黙的に訴えているようでした。一応規約を作り、年に一度の総会を開き、実行委員会を作れということを指示してくれました。それから約1年になりますが、なかなか社会的基盤の高い人に巡り会えない状況です。公認のための推薦状はヴァチカンの諸宗教対話事務局の長官から、また聖エジディオ共同体の代表者からも頂くことができるようになっています。最後に当出張所の創立50周年を機に、今後の私たちは、いかに道を進んで行ったらいいのか考えてみたいと思います。そのためには教祖の年祭を振り返ってみましょう。

教祖40年祭の時には、教会倍加運動が展開され、実に多くの教会が生まれています。一般社会にあっても、天理教の進展ぶりは目を見張るものがあり、その勢いは、教祖が現身を隠された、1887年から、内務省の秘密訓令が出る1896年までの勢いと比べることができるでしょう。さらには、日本国外の海外布教を目指す教育機関として天理外国語学校が設立され、さらに、現在日本屈指と言われる天理図書館も出来上がっています。教祖50年祭には、現在見られる神殿の南礼拝場、教祖殿が竣工しています。かんろだいを中心にして、北と南の礼拝場の人たちによる拝み会いの姿が実現しました。教義面での充実も図られました。教祖のお書きになった文字を基にした活字体を作り、それを基にして、教祖直筆のおふでさきであるという親近感を持つことができるようにして、各教会に配布されました。時は、世界的大紛争の高まりを実感する動きが強まってきました。つまり、帝国主義、軍国主義の強化で、一般市民への締め付けも厳しくなりました。特に日本では軍部による統制が強められ、先に配布されたおふでさきも徴収されてしまいました。天理教も軍部による解散命令が出てもおかしくないと思われました。実際に、他の二つの宗教団体が解散させられています。天理教は二代真柱様のご英断のおかげで、解散にはなりませんでした。当時の革新時代にどれだけ多くの天理教徒が泣いたことでしょうか。しかし、天理教全体の解散にならず終戦を迎えたことは大変ありがたいことだったと思われます。第二次世界大戦以降は、信教の自由が認められ、教祖の教えられた通りの教えを世界に伝えることのできる時代を迎えました。今、私たちは誰にも憚ることなく信仰告白もできますし、布教活動もできます。天理教の教えは、誰が勉強しても、研究しても世界的な教えの内容であることが確認されています。世界は親神様のご守護の下に回転しているのです。その世界を救けるにはズバリ、「つとめ」と「さづけ」と、そして「人たすけ」しかないと思います。「つとめ」とは、本義的には「かぐらつとめ」をさしております。おふでさきには次のように記されてます。

つとめでもどふゆうつとめするならば
かんろだいつとめいちちよ(10-21)

しかし、地方の教会は「ぢば」の理を受けて存在しています。ましてや「出張所」、「布教所」は世界救けの最先端に立つと言ってもいいでしょう。日々の朝晩の勤めもありましょうが、私たちが重要視するのは月次祭です。月次祭には、この1ヶ月結構にお連れ通りいただいたことを感謝し、またこれから先の1ヶ月も結構にお連れ通りいただけるようにお願いします。さらには、世界救けを念じ、世界が平和に治っていくようにお願いすることだと思います。おふでさきには次のようにあります。

これからハこのよはじめてないつとめ
だんだんをしへてをつけるなり(4-90)

このつとめせかいちううのたすけみち
をしでもものをゆハす事なり(4-91)

にちにちにつとめのにんちうしかとせよ
心しつめてはやくてをつけ(4-92)

このつとめなにのことやとをもている
せかいをさめてたすけはばかりを(4-93)

月次祭お手振りを見ていると、この出張所でも本当にみなさんきれいに手を振っています。しかし、よく見ると、てぶりが少し小さい感じがするのです。お手振りの基本の手は「なげ」、「ふり」、「いさみ」の三つです。この三つの手がきれいに振ることができれば、お手振り全体がきれいにみえるのです。長い間何も考えないで手振りをしていると、あるところが間違っていると指摘されても、なかなか正しく訂正することができなくなってしまいます。高齢になっても、柔軟に手を振ることができるように、毎朝、毎晩のつとめの時、手振りが正しいか、あるいは美しいかを考えながら手をふったほうがいいでしょう。たとえば、一行り目の八ツ「やまとハほうねんや」では「ほうねんや」の手振りが小さい感じがするのです。今では、米俵というのを知らない人が多くなっていることでしょうが、多くの人の手振りを見ていると、その手が小さくて「ほうねん」のご守護をいただいていない気がします。もう一つ例を申し上げますと、7行り目の一ツ「にほいばかりをかけておく」ですが、これは他の人に「にをい」をかけるのです。しかし、多くの人の手振りを見ていると、「にをい」を自分にかけているような感じの手振りになっているのです。今一度自分の手振りを考えながらやってみてはいかがでしょうか。

この信仰に入るきっかけは、身上を救けていただきたい、事上を解決していただきたいという願い事から始まるのが多いかと存じます。世界の人々は皆が救かりたいのです。その救かりたい人々を、教祖のお供をして教祖に救けていただくのです。そのためには、私たちは誠真実を、日々確実に積み上げて、その誠真実によって、救けのご守護をいただくことができるように心がけねばならないと思います。この出張所も創立以降満50年を迎えたのです。ここにつながるようぼく、信者一人一人が「救りたい」信仰から「救ける」という信仰に替わっていくのが、成人への道だと思います。親神様は私たちが「救かりたい信仰」から「救かっていただきたいという信仰」に進んでいくことを切に願っているのです。おふでさきには次のように記されています。

しんちつにたすけ一ちよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる(3-38)

なさけないどのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので(12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しっかりいれかえてくれ(12-91)

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを(12-92)

このさきハせかいちううハ一れつに
よろずたがいにたすけするなり(12-93)

月日にもその心をはうけとりて
どんなたすけもするとおもゑよ(12-94)

私たち一人一人が、教祖ようぼくとして、使いやすいようぼくとして、世界に向かって歩みを進めていきたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。

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