Tenrikyo Europe Centre

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2012年2月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 藤原理人

皆様と共に二月の月次祭を勤めることができ、また田中所長ご夫妻の最後の月次祭で神殿講話を勤めさせていただくこと、光栄に思います。しばらくお付き合い下さいますようお願い申し上げます。

おつとめのもつ一つの重要な点についてお話しする前に、おやさまの現身お隠しの話から始めたいと思います。

皆様ご承知のように、おつとめは天理教の信仰生活の中で非常に重要なものです。おやさまは、人間におつとめを促すためにお姿をお隠しになられました。当時はおつとめを勤めることによって教祖が警察に拘留され、それを恐れた信者たちが躊躇していました。

事実、教祖は十八度に渡り留置投獄され、最後は御年89歳の時、熱心な信者がおつとめをつとめた故のことでした。以来、信者たちはおつとめを控えていました。老女と言える教祖が牢屋に入られるのを見ていられなかったからです。しかし、おやさまは人々がおつとめをつとめないことを嘆いておられました。

すると親神様が信者たちにある質問を投げかけます。「扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか」と。質問の意図が分からないながらも、扉は開いていた方が明るくて良いだろうと、「扉を開いてろくぢにならし下されたい」と信者たちは答えました。

「地を均す」とは、神にとって人々の魂は等しく平等で、その心を一様に平らに同じレベルに均したいということです。そのために、扉を開いて地を均そうか、扉を閉めて地を均そうかと、問われました。

信者たちが「扉開いて」と答えた時は、何が起こるか分かっていませんでした。それに対する神の返答は「ころりと変わるで」でした。そしておやさまはお姿を隠され、それを望むはずもない信者たちはただただ驚くばかりでした。

私は、親神様おやさまは、基本的にこの一件の時のように、人間の考えを尊重されると思います。あくまで私個人の考えですが、もし彼らが「扉を閉めて」と答えていれば、おやさまはお姿を隠されてはいなかったでしょう。いずれにせよ、そういう表現によって人間の心の内を知ろうとして出された問いであり、人間の答えはいずれにせよ正解だったと思います。

「扉を閉める」とは囲いの中にこもることでもあり、扉によって守られる、ということでもあります。つまり、信者たちは教祖という扉に守られることを意味するのだと私は思います。一方で、扉を開くと、歩むべき道が示され、しかもそれは自らの足で歩みを進めるものとなるのです。扉から出て、その扉が開く道を歩むのは信者たちなのです。

教祖が彼らに期待したのは、おつとめをつとめることだけではなく、おつとめに対して、おやさまの拘留と言った外的要件を気にかけることなく、自立してほしいということだったと思うのです。信者は教祖の健康を案じます。しかし、おやさまは全てから独立した形でおつとめをつとめることを望んでおられたのです。

ところで、現代において、宗教が嫌だという方は、時々お祈りなど無駄だと言います。病気が治るわけでもなく、科学的でもない、些細な問題であっても解決できないじゃないか、と。しかし、お祈りとは何よりもまず精神の力です。この気持ちの力を否定する人は少ないのではないでしょうか。お祈りとは、その救済や問題解決の基本となる精神を強くする行為なのです。私は宗教とはこのお祈りの方法を、正しいやり方で教えてくれるものだと思っています。

私にとって、このおつとめは一種のお祈りです。なぜなら精神を鍛え、心を強くするからです。天理教では時々、子供たちが参拝場を駆けまわったり泣いたりし、咳払いなどで音を出す人もいます。静かに参拝したい人の中には「うるさいなぁ、この子供、この人。集中できない」と言う人もいます。当然の反応です。お祈りする人は尊重すべきです。子供にはそう教えないといけませんし、大人は最低限守るべき常識として認識する必要があります。

しかし同時に並行して、おつとめに参拝するとき、外的要因に気を紛らわされないようにすることも大切です。何か集中をそがれることがあっても、精神的に落ち着き払っていれば、何の問題もありません。騒音が聞こえても、心が乱されることはありません。そういう態度こそがおつとめを通して身に着けるものなのです。人によっては、おつとめそのものも、歌うがうるさいとか、音楽も瞑想のような静けさがないとか、動きのある踊りは祈りにしてはダイナミックすぎる、などと言う人もいます。静かな祈りのイメージからかけ離れている、と。しかし、精神的におつとめに溶け込めば、それらも心を安らげるものになります。

教祖がわれわれに望むのは、自ら自立した状態で、それによって心が強くなり、何ごとにも揺るがない精神力でおつとめをつとめることなのです。ただそれは個人的なものではありません。個人の努力から始まるものかもしれませんが、おつとめはここで勤めるように、みなと共につとめるものでもあります。個々の平穏がおつとめによって集い、共に調和を生み出す。地方(じかた)であれ、おてふりであれ、鳴り物であれ、参拝者であれ、ただの見学であれ、常に促されるのは積極的な精神面での参加なのです。

精神的なものとはいえ、言葉や動作の意味が分かればなお良いことは間違いありません。しかし、それらを理解できなくても、おつとめに参加できるのです。外的要因とは独立した形で、おつとめは心の中でもつとめられているのです。心に働きかけているのです。もし言葉や形式などの外見の問題でおつとめをつとめようとしないのであれば、おやさまは嘆かれるでしょう。上手く聞いて頂きたいのですが、言葉や形式に意味がないと言っているのではありません。今日の本題ではないだけです。

おやさまは「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。(逸話編54)」とも仰っています。

上段にあがっていても、参拝場にいても、心を溶け込ませてください。そして、このおつとめを通して、心の生まれ変わりを感じ、そして精神を一新してください。そうした重要な心の内面に関わるつとめであると再確認しましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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