Tenrikyo Europe Centre
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海外部ヨーロッパ・アフリカ課長 清瀬理弘
さて、教祖140年祭三年千日の年祭活動も最後の年に入って間もなく半年が過ぎ去ろうとしております。ここヨーロッパ出張所におきましても年祭に向けた心定め達成の為に、それぞれで努力をしておられることと思います。残り約8カ月、最後の力を振り絞って心定め達成のために更に努力をさせて頂きたいと思います。そしてこの心定めを通して皆様が歩んでこられた姿をご覧になられた親神様、教祖は、必ずや皆様方の上に鮮やかなご守護を下さるものと信じます。
ここで今一度年祭活動として教会本部の動きを振り返ってみますと、諭達第四号が発布されてから、全教に向けて発信されたようぼく一斉活動日は第4回目を迎える時期となりました。回を重ねるごとにより充実した活動となってきているようですので、ここヨーロッパ出張所におきましても積極的にご参加頂きたいと思います。そして今年は各直属教会に対しおぢば帰り団参を推奨されております。日本国内はもとより、世界各地からこぞっておぢば帰りをしておぢばを賑やかにしてもらいたいという親の思いに応えるものです。なかなか海外の方はそう何回も帰ることはできないと思いますが、おぢばとしては現在このような動き方をしているということを承知して頂ければと思います。
前置きが長くなりましたが、本日は「徳」について思案させて頂きたいと思います。日常生活の中で「あの人は徳があるなあ」とか、「それは親の徳やなあ」とか時々耳にされることがあるかと思いますが、皆さんは徳という言葉を聞いた時に、どんなことを思い浮かべられるでしょうか。かの松下電機、現在のパナソニック、その創設者の松下幸之助さんは次のように仰いました。「技術は教えることが出来るし、習うことも出来る、けれども徳は教えることも、習うことも出来ない。自分で悟るしかない」と。私自身も子供の頃、この徳という言葉のイメージは、神様という銀行への貯金、いわゆる神様貯金ですね、いいことをしたら神様貯金が増える、悪いことをしたらそれが段々減ってしまう、そういう風なイメージを持っていました。しかし、今はむしろ徳というものはそれぞれの人の心であったり、それぞれの魂の持つ力、そういうイメージに変わってきました。同じように辛い状況にあっても、それを前向きに乗り越えられる人もおられます。また、そのままつぶれてしまうような方も中にはおられます。この違いはどこにあるかと改めて考えてみますと、私はそれぞれの魂の持つ力、徳にあるのではないかなと思うのです。
神様のお言葉に、「皆一名一人の心の理もって与えてあるで」とあります。これは簡単に言うと、人それぞれの心の理に応じて天からあらゆる物が与えられるという意味です。ここで言う心の理とは親神様の思いに沿うよい心遣いのことです。そしてこれまで積んできたよい心遣いを分かりやすく一言で言うと、先程申しました「徳」ということになります。親神様はめいめいの徳を受け取り、それに応じた与えを下さるということなのです。言い換えると人はそれぞれの積んできた徳を支払うことで、与えを買っているということが出来ます。人間社会ではお金を支払って、物を手に入れるというしくみが常識ですが、神様の世界では、それぞれの持つ徳を支払って、それ相応の与えを得ている、というのが天の理と言えるのではないでしょうか。
またこのお道を信仰しておりますと、徳をそれぞれの人が持っている心の器に例えて話されのをよく耳にします。人間はそれぞれ形や大きさの違う器を持っていて、例えば雨を受ける状況を想像してみて下さい。持っている器が大きい人は、その降ってきた雨をたくさん受けることができます。けれどもその器が小さければ、その器に合った分の量しか雨は入りません。人間は自分の持っている器の大きさというものがなかなか分からないものですから、小さい器なのにたくさん入れようとする、隣の大きな器の人と同じぐらい欲しいとついつい思ってしまいます。でも器の大きさが違いますから、いくら頑張っても、自分の思うようにはなってこない、自分の持っている器を大きくしないと、それだけの分は入ってこないと教えられるのです。
それではこの心の器の大きさは、それぞれが生まれ持ったもので、その後は変えられないものなのでしょうか。実はこれは変えられるのです。どうしたら、心の大きな器を持つことが出来るのか、言い換えれば徳を積むことが出来るかということになります。
心の器とは徳の容れ物のことですが、教祖は徳の容れ物について次のように教えて下さっておられます。
おさしづに
誠の容れ物こしらえ、十分の容れ物こしらえ、容れ物なしにはいかん、誠積み重ね、十分一つの容れ物
というお言葉があります。このお言葉では、毎日毎日誠を積み重ねることで、徳を受け取る十分な容れ物を作ることが出来る、と教えてくれています。
日々の誠の実践は徳を頂くための方法であり、誠を積み重ねると、徳の容れ物を大きくでき、これまで受け取れずにこぼしていた徳を受け取れるようになります。
では「誠の実践」とは具体的にどのような行動を言うのでしょうか?
教祖伝の御逸話篇に「朝起き、正直、働き」というお話しがあります。
教祖が飯降よしえにお聞かせ下されたお話しで、その内容を申し上げますと「朝起こされるのと人を起すのとでは大きく、徳、不徳に分かれるで。陰でよく働き、人をほめるは正直、聞いて行わないのはその身が嘘になるで、もう少し、もう少しと働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」というものです。
ここで教祖がお話しになっている朝起き、正直、働き、この3つの教えというのは、誠の実践の基本中の基本であり、徳を積むための一つのキーワードではないかなと思います。
そしてこの3つの教えを実践されたのが飯降伊蔵先生ではないかと私は思うのです。
教祖は常々飯降伊蔵先生に次のように仰ったというお話しが残っております。どういうお話しかと言いますと、
伊蔵さん、この道は陰徳を積みなされや、人の見ている目先でどのように働いても勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようなことでは、それでその徳が勘定済になるのやで
と。陰徳というのは、誰も見ていないところで徳を積むということです。
人間というものは、えてして、いいことをしたら人に言いたくなってしまいます、人に褒めてもらいたい。自分の大変さを分かってもらいたい。またそういう気持ちがあると、人の前では気を付けていても、人が見ていないとついつい「これぐらいにしとこか」とか、また「これぐらいでええやろ」とかついいつい自分を甘やかせてしまいがちです。思い返せば、私自身もこういった経験はあります。
このお話しを考えるようになってからは、人の見ているところ、見ていないところ関係なく、朝起き、正直、働きをいつも心に置いて、裏表なく行動させて頂かなくてはならないなあと思わせて頂きます。
そして徳を積ませて頂く2つ目のポイントは、世の中にある物全ては神様からのお与えであるとういことを心に置きつつ、物も人も大事にして、活かすように心がけることが大切なことだと思います。
昔次のような話を聞いたことがあります。「陰で物を大切にしている人は、物のお与えが十分にある、陰でお金を大事にしている人には、お金が集まってくる、陰で人を助けた人は、大事な時に思わぬ人の援助を受ける。」また「人間は陰と共に歩き、陰はどこまでもその人について働く、人間はどういう道を通ってきたか、日々人の見ていないところで、どういう通り方をしているか、それがその人の財産だ、だから、お道は陰で天理を全うすることを教えるのだ。徳と呼ぶものはその人の陰の力のことである。」と。
私達の親々、先人はこの道で助けられております。これはもう紛れもない事実であります。代を重ねて今日に至っている訳ですが、先人が積んで残して下さった徳を私達は今頂戴して、今もお互いがこうして結構において頂いていると言っても過言ではないと思います。今のこの世情を振り返った時に、世界各地では、色々な戦争、紛争が起こっております。日本国内でも昨年の元旦に、能登で大きな地震が起きました。またその後に水害、そして人が人を殺める様々な形の殺人事件も至る所で起こっております。親神様、教祖が望まれる陽気ぐらし世界とは真逆の現実が起こっております。こんな殺伐とした現在ですが、私達の周囲に起こっている出来事を、一人ひとりが我さえよくば、今さえよくばのこの風潮に流されるのではなく、日々の暮らしの中で、自分に問いかけながら、教祖だったらこんな時どういう風になさるやろなということをお互い思い浮かべながら、日々をお通り頂けたらと思わせて頂きます。
さて冒頭にも申し上げました通り、第四回目の「ようぼく一斉活動日」が全教で開催されます。年祭活動最後の年の後半の大事な時期に向けて、おぢばの思いを改めてお聴き取り頂き、それぞれ年祭活動への意気を高めて頂きたいと思います。
最後になりますが、真柱様は年頭のご挨拶の中で次のように仰せになりました。
諭達というものは全教が心をそろえ、年祭へ向かって歩むために出したものであります。みんな一手一つとなって、たすけ一条に邁進する姿をもって、教祖にご安心頂き、お喜び頂きたいという気持ちであったのであります。一手一つというのは、一つの目的に向かって、それぞれが自分の与えられた立場のつとめをしっかり果たすことによってご守護頂ける姿ということが出来るかと思います。本当に一手一つになれば、自分一人ではよう出さない力を与えて頂くことが出来るでしょう、また自分一人では味わうことのできない喜びを味わわせて頂くことが出来ると思うのであります。
また
三年千日の三年目、締めくくりの年であります。1年しかないと思えるし、またまだ3分の1あるという取り方もできます。思召しに少しでもお応えできるように、心定めの達成にしても、それぞれの目標にしても、それに一生懸命に取り組むことによって、頑張って勤めてこの1年を実りのある年にして頂きたい。そのようにお勤め頂きたいと願ってやみません。
このように仰せになられました。
真柱様の仰せになる一手一つの喜びを全教の人と味わうためにも、まずここヨーロッパの教友が一手一つの心でつとめさせて頂きたいと思います。
それぞれの心の持ち方ひとつで変わってくる世界でございますので、その心を今一度しっかりと見つめ直して、年祭活動残りの期間、少しでもご存命の教祖にご安心頂いて、そしてお喜び頂けるように、そしてお互い自分自身も喜び勇んで、日々をお通り下さいますうようにお願いを申し上げまして、本日のお話しとさせて頂きたいと思います。
ご清聴頂きありがとうございました。