Tenrikyo Europe Centre
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海外部ヨーロッパ・アフリカ課長 清瀬理弘
さて、教祖140年祭の年祭活動も2年目に入り、年祭活動も来月で早その半分が終わろうとしております。改めて時の経つのは早いなあと感じる次第です。ここヨーロッパ出張所におかれましても、年祭に向けた心定め達成の為に、日夜それぞれで努力をしておられることと思います。各国の代表からなるヨーロッパ布教推進会議で決定された「心定め」に向けて、管内のようぼく、信者の方々がそれぞれの地域でおやに喜んで頂こうという思いで取り組まれていることは必ずや親神様、教祖に受け取って頂けるものと信じます。
ここで今一度年祭活動として教会本部の動きを振り返ってみますと、一昨年の秋季大祭に真柱様から出された諭達第四号を受けて本部巡教が行われました。そして本部巡教が終了したその年の11月28日から昨年の5月末にかけての約半年間にわたり、全教会一斉巡教が行われました。
その後、昨年10月末には第1回目のようぼく一斉活動日が行われ、海外におきましても、それぞれの拠点で決めた日に順次開催されました。このようぼく一斉活動日というものは半年ごとに全部で5回開催されるものですが、その開催趣旨は、「教祖140年祭に向かう三年千日、同じ地域に住むようぼくが互いに励まし合い勇ませ合って、それぞれの教会や個人の年祭活動の更なる実践につなげる。」とあります。ようぼくが集まりやすいそれぞれの支部において、半年に1回というペースで定期的に集まり、一人でも多くのようぼくに年祭活動の意欲を高めてもらい、年祭活動の実践へと促すことを目的としております。ここヨーロッパ出張所でも第1回目が今年1月14日に開催されました。参加されました方々はそれぞれに思いを持って参加されたことと思いますが、いかがだったでしょうか。今後第2回、第3回と開催されることと思いますが、同じこのヨーロッパに在住するようぼくが年祭に向けて更に実働する契機として頂きたいと思います。
また第1回目のようぼく一斉活動日からは時期を少しおいてからになりますが、全教会長夫妻を対象として「教会長夫妻おたすけ推進のつどい」が開催されました。ようぼく一斉活動日は、一般の用木、信者の方々対象ですが、おたすけ推進のつどいは、その中でも主だった方々におたすけを徹底して頂くものです。皆様に直接関係があるのは、ようぼく一斉活動日かと思いますので、冒頭でも申し上げましたが、年祭活動の折り返しの時期になり、もう一度気持ちを引き締めて頂く絶好の場と思いますでの、是非ともご参加頂き、今後の年祭活動の励みにして頂きますようお願いします。
さて前置きが長くなりましたが、今回は天理教でよく耳にする「たんのう」という言葉について少し考えてみたいと思います。私は昨年還暦を迎えました。60歳を超えて、これまでの人生、人間的にどう成長したかと問われれば、まだまだ成人が足りない部分に気付きます。人間こうして年を取ってみますと、本当にあっという間であります。もちろん年限と共に身体の方は老いに向かっているのですが、殊、精神面、気持ちという面では昔とそんなに変わらない自分がいることに気付きます。そういうことから考えますと、私のこころはまだ本来あるべき成人の姿に追いついていないなあと反省することばかりです。
自分自身のこれまでの過去を振り返ってみた時、このたんのうという教理をコンゴの教義研修会、あるいは海外部の授業等で事あるごとに説明してきました。しかしながら頭で分かっているつもりでおりましたが、それ以上にこのたんのうという言葉を掘り下げて、深く考えたことはなかったように思います。しかしよくよく考えてみますと、私達の日常はたんのうという言葉と切り離しては考えられないことに気付きます。例えば、私は自分にとって都合の悪いことやかんばしくないことが起こってきますと、「何故なんだ」と一瞬心を曇らせて、不足に思ってしまうことがしばしばです。己が成人の鈍さに自分自身が嫌になりますが、小さなことを含めますと、こういったことは一日に何度も起こってくることではないでしょうか。そう考えると、教祖が教えて下さったたんのうほど難しいことはないなあとつくづく思うのです。
このたんのうという言葉の意味を考えてみた時、次のように言えるのではないでしょうか。心を一つのうつわと考えればイメージしやすくなるのかと思います。いつも絶えずどんなことがあっても心のうつわが何かで満ち足りている状態を「足納」 、そして足りていないと強く感じることが「不足」であると思います。それでは足りている、足りていない何かとは何なのでしょうか? それは「喜び」だと思います。喜びの心。お道の信仰が究極にたどりつく心の状態とは、何を見ても何を聞いても、どんなことがあっても常に「喜び」となる心。これがたんのうの心と教えられていると思います。心のうつわが喜びで満ち溢れた状態が、すなわち「陽気づくめの心」ということになり、これこそが神様の思し召しに沿う心の状態と教えられています。
それでは、この「喜べる」という根拠はどこにあるのでしょうか?こんな状態だというのに、こんなひどい、辛いことが起こったというのに、それでも「実は喜べるんですよ、喜ぶことは可能なんですよ」と言い切れる根拠はどこにあるのでしょうか? 実はここには大前提になっている大切な事柄があるのです。たんのうの心ができるためには、ある事柄がしっかりと心に納まっていないとできないのです。それは「私達人生の中の出来事は全て神様のご守護の中で起こっている」、という認識です。どんな出来事も、それを通じて神様が私達にもう一段階、成人させてやりたい、だからあえて越えなくてはならないハードルを与えられる、ということです。それを超えるごとに、私達の心は成人して、何を見ても結構やなあと思えるような心の状態に近づいていける。だから、起こってくることは本来は全て私達は感謝しなければならないことなのです。そうでなければ陽気ぐらしはできないと思います。マイナスをプラスに変える心の努力をしないと陽気ぐらしは永遠にやってこないのではないでしょうか。「もちろん、それは頭では分かる、けれども、実際にそう思えて、喜べるわけではない」と言う人もたくさんいらっしゃるかと思います。それほどたんのうの心を納めるのは簡単なことではないと思います。
我々人間という者は勝手なもので、誰しも自分の思う通りに物事が都合よくいけば喜び、思い通りにいかねば不足に思うものです。例えば日照り続きに雨が降ればよい雨だと言って喜び、子供の入学式や結婚式の日などどうしても晴天が欲しいと思っている時に雨が降ると、あーいやな雨だなあと不足を言います。しかし天から降る雨に悪い雨とか、よい雨とか区別はないのであって、それはその時の心の在り方によって、私達人間が勝手なことを言うのだと思います。お道の話を聞かせて頂いているお互いは、例え自分にとって、都合の悪い雨であっても、この雨があればこそ、作物が生育するんだ、これは天の恵みであると、思いを喜びに変える努力をしていくことが、私達信仰者が追及する態度であり、これが教えて頂くたんのうなのだと思います。
教祖はこのたんのうの心こそが「誠」と仰って下さり、いんねんさえも切ってくれると仰っています。つまり、こんなにも難しいからこそ、それが少しでもできれば、神様は大きく受け取る、と仰っていると私は理解します。だからこそ、本当に喜べなくても、少しでも喜べる努力をする、ということが大切なのではないかと思います。その努力とは、どのような努力でしょうか?
私は、心からそう思えなくても、そう思うようにする、ということが一つの努力だと思います。嫌なことがあったら、普通、人の顔はしかめっ面した嫌な顔になります。それをがんばって優しい顔にしてみる。努力の方法は他にも色々とあるかと思うのですが、私が一番大切だと思うのは、言葉の使い方です。言葉は生きています。言葉をどう使うかで心まで変わることがあるかと思うのです。
親神様はこの世の元はじまりにおいて、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て共に楽しもうと思いつかれて、私達人間をお造り下さいました。この世で陽気ぐらしをするのが、人間生活のめどであります。どんな時にもどんな中にあっても、明るく陽気に過ごすのは簡単なことではないかも知れませんが、喜びの言葉、感謝する言葉を使うことによって、毎日を明るく陽気に過ごすことが出来るのではないでしょうか。人間と動物との違いは、言葉を使うかどうかであると言われます。言葉は人が生きていく上で絶対に必要なものだと思います。しかし言葉の使い方一つで、人の心を明るく元気にさせることにもなれば、逆に人の心を曇らせ、また傷つけることにもなります。人間創造の目的である陽気ぐらしをさせて頂くには、この言葉の使い方が大変重要な鍵になるのではないでしょうか。
家庭でも学校や職場でも、どこにいても変わることなく、喜びと感謝の言葉を使えるようになりたいものです。何の気なしに使っている言葉でも、人の心を冷ます言葉と温める言葉があります。
私たちよく言いますね、「そんな言い方しなくてもいいのに」「言い方があるよなあ」そうなんです。言葉一つで人の心は動きもし、止まりもします。
ですのでたんのうの心について自分に何ができるか考える時、私はいつもそう思えなくても「言葉から変えてみよう」と思います。そう思えなくても言葉だけ喜ぼう。そう思えなくてもせめて言葉だけは感謝しよう。いつの間にかその言葉が逆に心を変えていく。そんな気がします。
私も最近意識して、できるだけ言葉に出そうと努力しております。自分の気持ちを言葉にして出してみるとどうでしょう、段々と自分の気分がさわやかにすがすがしくなっていくということを実感しております。皆さん方も自分の心の中にある感謝の言葉、いたわりの言葉を大切にして、少しでも声に出して言ってみてはどうでしょうか。
どんな時にもどんな中にあっても、生きがいをもって喜びの言葉、感謝の言葉を使わせて頂きましょう。そして人様に対しては、優しい言葉、温かい言葉、人の心を育てる肥えとなるような言葉を使わせて頂きましょう。それは親神様の御心にかない、必ずや陽気ぐらしへとつながっていく言葉となるでしょう。
以上たんのうの心、そしてたんのうの心に近づくためにはどうすればよいか、私なりの思いを述べさせて頂きました。皆さん方の中にも、今思わぬ身上や事情をお与え頂いてもんもんとしておられる方もあるかも知れませんが、
今の道いかな道でも嘆くなよ、先のほんみちたのしんでいよ
とお聞かせを頂きます。先の道を楽しみに、たんのうの心を納めて通らせて頂きましょう。
最後になりますが、私昨年4月から詰員として神殿奉仕当番をさせて頂いておりますが、夜昼関係なく、ひっきりになしに神殿に参拝に来られる方々を目の当たりにします。その方々が深々と額ずいている姿を見ておりますと、それぞれに悩み事や相談事、また年祭活動の報告なりをされておられるのかなと、人間と神様との対話が聞こえてきそうです。皆さんの心の思いをもし可視化できたとしたら、すごいビームがかんろだいを中心にあちらこちらで飛び回っているのだと想像します。祈る人の心とそれに対する神様から思召しのビームがどんどん大きくなって神殿内に満ち溢れるようになれば神様もさぞお喜び下さるだろうと思います。
長谷川所長が所報で仰った言葉を借りるなら、年祭活動の真っただ中にいる私達は、マラソンコースの折り返し地点に近づいています。このマラソンの結果ががどうなるかということを考えると、まさにこれからが正念場、本番です。2026年には、ヨーロッパ教友みな揃って感動のゴールを迎えたいという所長の思いをそれぞれが胸に納め、勇み心をもってそれぞれの心定め完遂のため、最後まで努力させて頂きましょう。
ご清聴頂き、誠にありがとうございました。