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2018年11月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

このところ、親神様にお借りしているこの体についてよく考えるようになりました。毎晩ゆうづとめの時には、自分の意識を体中に駆け巡らせて、現実に体で親神様のご守護とお働きを感じようと務めています。

幸いにして健康においていただいておりますが、歳を重ねるにつれ、20代の時と比べると変わったと思うことが多いのは、皆様も同じではないかと思います。

老いはいつの時代でも人々の大きな関心事だったと思います。医学が発達し、平均寿命が大きく伸びた今日でも、それは中世のころと変わらず、人々の大きな不安の一つであろうと思います。

若くあるために、老いと戦うのは人の常でしょうか。もちろん見た目の話ではなく、健康の話です。野菜をたくさん食べるとか、定期的に運動をするとか、飲酒に気をつけるとか、ストレスを溜めすぎないようにするとか、こういったことは世界中で大半の人が実践していることではないでしょうか。

とはいえ、ついもっとできるんじゃないかと考えてしまいます。あれが良いらしいよと聞けば、それを試してみたりします。どうして私たちは常にそういったことに興味があるのでしょうか。いろんな努力が大事だと分かっていながらも、結局どれもが楽観的なものの考え方に過ぎないと感じているからではないでしょうか。健康的に生きたところで、問題なく115歳の寿命を全うできるわけではありません。

私たちがすべきことは、どのように年を取り、不安を抱えながらもどのように生きるかと考えていくことではないでしょうか。いずれ人は死にます。

おふでさきに、

しんぢつの心しだいのこのたすけ
やますしなずによハりなきよふIII-99

そのゝちハやまずしなすによハらすに
心したいにいつまでもいよIV-37

にほんにハはしらをたてた事ならば
やまずしなすによハりなきよにX-11

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへどXII-105

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているのでXII-106

またたすけやますしなずによハらんの
しよこまむりをはやくやりたいXIII-115

なにもかもよろづたすけをせくからに
心したいにどんな事てもXIII-116

このたすけどふゆう事にをもうかな
やますしなすによハりなきよにXVII-53

天理教では、親神様のお心にかなう心遣いができれば、望むだけ生きることができると教えられています。言い換えれば永遠の命がほしいのであれば、それも可能だと言うことです。

皆さんはそれを信じていらっしゃいますでしょうか。私は教理としては信じていますが、実際にはそんなことはありえないと考えています。なぜなら親神様のお心に完全にかなう心遣いというものが分からないからです。何か分からないものを目指せと言われても、私にはできません。お道では人それぞれの違いを認めてくださっています。おふでさきにこうあります。

一やしきをなじくらしているうちに 神もほとけもあるとをもへよV-5

これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるでV-6

このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまいV-7

をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうでV-8

私たちはそれぞれ違います。それぞれをおなじものとして考えられないのですから、理想的な心遣いだって、ふさわしい理想の形がそれぞれにあるはずです。良い心遣いか悪い心遣いかは、親神様がいんねんに応じて見分け、判断するのであり、親神様にしかそれぞれの理想の形は分かりません。私たちは自分なりの最高の心遣いを目指しつつ、与えられた人生の意味合いを理解できるようになることを求められています。

つまり、永遠の命などは忘れたほうが良いということです。教えから判断すればそれも可能ですが、その道のりはとてつもなく長い上に、何一つ分からないまま人生を終えるかもしれません。或いは単純にまだそれについて考える時期が来ていないだけかもしれません。

老いに話を戻します。どのように老いていくか。私は、自分の体を褒めることが上手に年をとる一つのやり方ではないかと思っています。シュードル会長がよく「あそこの調子が悪いとばかり言って、ここもあそこも調子が良い」と言うことは少ないと仰います。これはきっと、悪いことより良いことの方が多いということを忘れているからではないでしょうか。もし調子のいいところをあげていけば、何時間もかかるでしょう。私の鼻は調子がよくてね、その中の粘膜もいいし、目だって角膜も眼球もよくて、口も、舌も絶好調で、、、といった具合です。調子の悪い点を挙げたほうが時間がかかりません。皆さんも20や30箇所の調子が悪いところがあるかもしれませんが、それは数千、数万かもしれない体の全機能のわずか20、30に過ぎません。調子の悪いところと良いところの割合で考えれば、圧倒的に良い方が多いわけです。

人間の体の機能がいくつあるか分かりませんが、数え切れないほどあるはずです。それらは皆独立して動いているわけではなく、影響を与え合っているでしょうから、一つの調子が狂うともちろん他の昨日にも影響が出るはずです。しかし、命ある限り、絶対に調子のいい機能の方が悪い機能より多いはずです。どこどこの調子が悪いとばかりいいますが、もし調子のいいところをあげていけば、きっと体の素晴らしさに気づいて、心の底から体にお礼を言いたくなるはずです。

しかし、人間とは弱いもので、私も頭が痛いと何をする気も起きませんし、無気力になります。悪いことに気を向けず、いいことにお礼を言えというのは言うは易しです。私自身、体の不調がとても怖いです。私も多少は体に不安がありますが、そのうちの一つでも症状が続くと、このままダメになってしまうんじゃないか、死んでしまうのではとさえ考えてしまいます。恐怖心とは恐ろしいものです。そういうとき「病院に行きなさい」というのは、確かに解決策の一つです。幸いお道では医療による回復を推奨しています。

でもここは病院ではありません。ここは心の話をするところです。私たちは信仰によって体に活力を与える努力をしなければなりません。つまり、体はそれを使う人の手助けが必要だということです。使用者が自分の体に満足であれば、その満足心は体に活力を与えます。そうすることで、調子のいい箇所が悪い箇所を助けようとします。つまり、心と体の全体で悪循環ではなく、良い循環を引き起こすような心遣いが大事だということです。不足ばかりしていれば、体も積極性を欠いて、悪いほうへ悪いほうへと向かうでしょう。でも、問題を抱えながらも頑張る体に感謝する気持ちを持てば、体自身も前向きにその問題を解決しようと働くでしょう。親神様のご守護は心次第だと教えられているのですから、健康状態に不満ばかり述べるのではなく、体を褒めてあげるのが当然のあり方でしょう。

もちろん、不平や不満は人との会話の中で出てきますし、それは仕方のないことです。しかし、自宅で、夜、一人で静かに過ごす時間ぐらいは、信仰者として健康状態にかかわらず体に感謝する気持ちが必要でしょう。それが他人の前であってもできるようになれば、そんな素晴らしいことはありません。

私は医療に携わるものではありませんが、年齢を重ねる体に逆らうことばかり考えるのは意味がないと思っています。もしそう考え続ければ、体も使用者の気持ちに応えようと無理をするでしょう。体が時の流れに逆らって若返ろうという力があるときはいいですが、もしそういう力がなくなってきたら、自然な流れに任せるほうが良いでしょう。それは老化を受け入れると言うことではなく、この体は常々私たちをあるべき所へ導こうと全力で機能しているんだという事実を受け入れることだと思います。

親神様が、死ぬこともなく弱りなきように守護してやろうと仰っているのは、私たちの体がアンチエージや死に対抗する機能を備えているという意味だと思います。ですから、体を信じて、体自身がその機能を発揮できるような状態にしてあげることが大事だと思います。私たちの信仰の目的は、最終的に死ぬことではなく、心安らかに喜びを持って貸しものの体をお返しすることです。それができるように親神様は私たちにその機能を備えてくださっています。老化や死に逆らおうとすること自体は悪いことではないですが、親神様がすでに備えてくださっている体に負担をかけずに老いて死んでいける機能に逆らおうとすることは、天理に逆らうことになるでしょう。

そういう意味で、望んでもいない、恐ろしい老化や死というものはありません。そもそも老化や死というものではなく、始めからプログラミングされている人生の歩みなのです。

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