Tenrikyo Europe Centre

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2014年4月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 篠田克典

皆様もご承知の通り、2016年1月26日に執り行われる教祖130年祭に向けて、今は全教挙げての年祭活動のまっただ中にあります。
ヨーロッパ出張所でも年祭に向けての活動方針として4つの成人目標を打ち出しています。

  • おつとめをつとめよう
  • 身近なひとだすけを実行しよう
  • おさづけを取り次ごう
  • 子供に信仰の喜びを伝えよう

の4つです。

この中にある、おつとめをつとめることとおさづけを取り次ぐことは、私達に親神様の尊い御教えを伝えてくださった教祖が、たすけの手だてとして教えてくださったものです。
これらを実践し、身近なひとだすけを行い、子供に信仰の喜びを伝えるということについて、私の経験したことを2つほどお話しさせていただきます。

まず一つ目のお話です。
教祖130年祭に向けての三年千日の年祭活動の始まりに当たり真柱様はご発布くだされた諭達の中で「おたすけは周囲に心を配るところから始まる」とおっしゃっています。
私の所属する岐美大教会ではこのお言葉を受け「心くばりカード」というのを作り、教会長から信者にいたるまで皆がそれを使ってどんどんとおたすけを実践しています。
身内でも友人知人でも、だれか身上や事情の悩みを持っている人がいれば、それに書き込んで三宝(さんぼう)に供え、お願いづとめをつとめるというものです。
ヨーロッパ出張所でも、以前から「身上者カード」というのを作り、お願いづとめをつとめていますが、ほとんど同じようなものです。
うちでは教会からこの「心くばりカード」をいただいたとき、早速自分の身の周りで気がかりな人達のことを一枚一枚書き込み、毎朝毎晩三宝に供えておつとめを始めました。子ども達にも「学校や幼稚園の友達でだれか病気やけがした子がいたら教えてね。これに書いて神様にお願いするから。」と言っておきましたところ、先日小学1年生の息子が、同級生が熱を出して学校を休んでいたから、あの紙に書いて神様にお願いしてと私に言ってきました。
私は喜んで、心くばりカードにその子の名前とお願いを書き込み、子ども達とも一緒におつとめをつとめさせていただきました。
いくら口でああしろこうしろと子どもに言ってみても、なかなか言った通りにしてくれるものではありませんが、子どもが友達のことをお祈りしてほしいと自分から言ってくれたのは本当に嬉しいことでした。
実は子どもが心配していたその友達はその翌日か翌々日に誕生日会を予定していて、そのパーティーに自分も呼ばれて楽しみにしていたので、元気になってほしかったのだという裏話があるのですが、どういう事情にしろ、神様にお祈りしたらたすけてもらえるかもしれないと純粋に思ってくれたのは確かです。それで、実際に熱が下がり、パーティーは予定通り開かれたので、本人も喜んでいました。
「心くばりカード」はおたすけのための一助としてどんな形で使ってくれてもいいと言われていますが、このように周囲に心を配ることから、小さいながらも子どもの中に信仰心が芽生えてくる一助にもなっているのです。
出張所の成人目標にあります「子供に信仰の喜びを伝えよう」はまず親が喜びを感じていないとなかなか難しいですが、日常生活の中で、小さなことでもこつこつと伝え続けていくことが大切かと思われます。

二つ目は、出張所の成人目標の3つ目にあります「おさづけを取り次ごう」に関してですが、おさづけを取り次げば、神様は必ず何かお見せくださると聞いております。それについては自分の中では思い出深い経験がありますので、その中から一つお話ししたいと思います。
今から20年近くも前のことになりますが、フランスへ来させていただく前、青年会本部での研修を受けていた頃のことです。
奈良へにをいがけに出たとき、戸別訪問でたまたま入ったある家でお舅さんが末期の肺がんで入院されているというお話を聞きました。がん患者さんのおたすけについては私はほとんど経験がなかったと思いますが、教祖のお導きでこの方に巡り会ったと思い、おたすけに通わせていただこうと決心しました。11月ごろのことだったと思いますが、もし翌年の1月26日までにたすかったら、一緒におぢばにお参りしていただけますかとお願いし、了承していただきました。
当時私は寮生活をしておりましたが、その日から毎晩こっそりと寮を抜け出し、深夜0時におぢばでお願いづとめをしに通い始めました。
また、お舅さんのお名前と病院名も教えていただいたので、後日時間の取れる時に、天理から電車を乗り継いで病院まで行ってみました。ご本人に面会がかないましたので、簡単なお話をさせていただき、おさづけも取り次がせていただきました。その後、日を置いて何度か通いましたが、いつもそれほど快く受けてくださったわけでもありませんが、ありがたいことに、むげに断られたり追い返されたりということもありませんでした。
最初にお話を聞いてくださったそこの家の奥さんとも病院でばったり会ったりしたこともあります。
そうこうしているうちに年が空け、1月も半ばが過ぎたある日、しばらくぶりに病院へ行ってみますと、病室の名札が外されていました。慌てて看護婦さんに尋ねてみますと、つい数日前に亡くなられたとのことでした。
がっかりして、その足でご自宅の方へ向かい、そこの奥さんにお力になれなかったことをお詫び申し上げました。すると、その奥さんが次のようにお話ししてくださいました。
「実は、年末には少し調子がよくなり、一時退院して自宅に帰って来ていました。ちょうど12月24日が77歳の誕生日だったので、子供孫一同みんなうちでそろって喜寿のお祝いもできました。普通末期の肺がんの患者ならどんどん容態が悪くなり、もっと苦しそうにしていても不思議はないのに、気丈な性格だったせいもあるのかもしれませんが、最後の方はほとんど苦しむ様子もなく、本当に安らかに息を引き取りました。今から思えば、あれがおさづけをしていただいたおかげだったのかなって思います。」
私はそれを聞いて、本当にこちらが救われた思いをいたしました。
悪くなるのが普通のところを、良くもならないがそれ以上悪くもならないというのも神様の御守護なんだと、その奥さんの言葉で改めて気づかされました。
おさづけを取り次げば、必ず何かを見せていただける」ということを身をもって知りました。あとは、その御守護に気がつくかつかないかというだけの差だと思います。
かと申す私も、普段神様の御用から遠ざかっていると、せっかくいただいている御守護に気づかず過ごしてしまうことがやはり多く、申し訳なく思っております。
身近なところから、常に心を配り、人だすけを実践していく中でこそ、親神様の御守護のありがたみがわかり、子ども達にも信仰が映していけるのだと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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