Tenrikyo Europe Centre

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2010年6月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

本日は天理教ヨーロッパ出張所の月次祭に足をお運び頂き、誠にありがとうございました。また、6月の月次祭を共に滞りなくつとめさせて頂き、大変ありがたく感じております。只今より「共に楽しむ」ということについて、私が思うところを少し述べさせて頂きたいと思います。どうかしばらくの間、お聞きくださいますようお願い申し上げます。

親神は、月日の社である、おやさまを通して、いつ、どこで、どのようにして、この世界と人間が創られたか、そして、なぜ親神はこの世界と人間を創造したのか、お教え下さいました。

「人間が陽気に暮らすのを見て神も共に楽しみたい」、これが、おやさまによって明かされた親神の思し召しであり、この世界と人間が存在する理由です。

親神の思し召しは、「共に楽しみたい」というのですから、「陽気暮らし」は人間だけの楽しみではありません。

人間同士の関係においても「共に楽しむ」ということは、大切なことで、夫婦、親子、社会、国、そして世界の様々な問題の原因は、「共に楽しむ」ことができていないということにある、と言えるのではないでしょうか。

では、「共に楽しむ」というのは、どういうことなのでしょうか。

例えば、人に贈り物をした際、もらった側はあげた側に感謝し、それを見て、あげた側も、もらった側が喜んでくれたことに感謝する。こういう状況ではないでしょうか。

贈り物でなくても、日常生活での言葉や行為においても同じことが言えると思います。「共に楽しむ」とは、互いに感謝の気持ちで繋がっているということです。私たちの生活も、様々な人間関係によって成り立っていますが、全ての人が感謝の気持ちで結ばれ、「共に楽しむ」ことができれば、揉め事の多くは、なくなってしまうのではないでしょうか。

しかし、全ての人が感謝の気持ちで「共に楽しむ」ことができているかというと、そうとは言えないというのが、現状のようです。なぜでしょうか。

原因の一つとして考えるのが、「あたりまえ」という考えではないかと思います。

最初は、感謝の気持ちで受け取れていたことでも、だんだん「あたりまえ」になってしまうことは、結構多いのではないでしょうか。

私たちは、だれでも「あたりまえ」という考えを持っています。何をどう感じるかは、それぞれの「あたりまえ」によって大きく異なりますし、何が「あたりまえ」か、というのは、時と状況の変化により変わってしまいます。人はそれぞれの「あたりまえ」を満たすために生きている、といっても過言ではないでしょう。

しかし、一度、「あたりまえ」が満たされると、今度は、より快適に、より多く、より簡単に、そしてより上へと求める気持ちになる傾向があるようです。ですから、知らず知らずのうちに、「あたりまえ」の基準が高くなっていることが多いように思います。特に、物事が順調に進んでいる場合にありがちな傾向だと思います。

「あたりまえ」というのは、厄介なもので、「あたりまえ」と思っているのですから、その時のその人にとっては「あたりまえ」なのです。しかし、時がたち状況が変われば、「あたりまえ」と思っていることも変わり、過去に思っていた「あたりまえ」は、現在の「あたりまえ」ではなくなってしまいます。

逆に「あたりまえ」が変わることによって、以前は感謝できなかったことが、感謝できるようになることもあります。環境、社会情勢の急激な変化や、突発的な出来事などで、それまで「あたりまえ」と思っていたことが、実は、本当は大変ありがたいことなのだと気づかされたという経験は、だれにでもあるのではないでしょうか。

「あたりまえ」のことが、満たされるのは、「あたりまえ」なことで、それぞれの「あたりまえ」を満たすためには何をしてもいいというのでは、世の中は混乱してしまいます。そこで、法律や決まりというものがあるわけです。しかし、これらは人の言動という表に現れることに対処するもので、事実、証拠の有無、医学的または科学的根拠がなければ効力はありません。つまり法律では、何を心に抱いていても表に現われなければ、無害、無益ということになります。また、法に触れなければ何をやってもいいということにもなります。

しかし、人間社会は、何を心に抱いても無害、無益で、法に触れなければ何をやってもいい、ということだけでは、成り立っていません。また法律や決まりは、人間が作るものですから、それぞれの「あたりまえ」と同様に、時と状況によって変わるという性質を持っています。

人の心は、水のように流動的であり、時に、氷のようにも硬くもなります。水のように流動的であれば、大切なものを失ってしまう可能性があります。逆に氷のように硬ければ、進歩や改善を停滞させることもあります。しかし、流動的だということは、環境の変化に柔軟に対応したり、人に対して寛大になれるという利点があります。また硬いということは、目標を達成したり、逆境に耐えるには、必要不可欠な要素です。この両面を持ち合わせていることは、人間の心の大きな美徳の一つでしょう。そして、心は外部から入ってくる情報に対して、常に心の両面を巧に操作することを要求されています。言い換えれば、それは、個々の自由裁量であるということです。

おやさまは、親神は、どのようにしてこの世界と人間をお始めくだされたのか、以来、親神がどのように世界と人間の体をお守りくだされているか、お教えくださいました。これは、世界や人類の成り立ちや歴史を明かすためではなく、「人間が陽気に暮らすのを見て神も共に楽しみたい」という思いからです。

つまり、「共に楽しむ」ために、全世界、全人類において、未来永劫、変わることのない絶対的な「元」を教えてくださったのです。「元」という言葉には様々な解釈がありますが、一つは、「感謝の元」とも解することができると思います。心の出発点、また心の道しるべとも言えるでしょう。そこに「喜び」と「感謝」がなければ、「共に楽しむ」ことはできないからです。それが、おやさまがお教えくださった人の通る道です。

この世界も人間の体も、温もりと水分で成り立っています。これが絶対的な二つの要素である、とお教え頂きました。この温もりと水分、これが親神のご守護の根本であるということです。この世界も、人間の体も、その温みと水分がなくなると、一瞬たりとも存続できません。この温もりと水分というご守護の調和によって、この世界も人間も存続が許されているわけです。

おやさまは、月は男、太陽は女に、火は女、水は男に喩えられました。また、空は男、大地は女にも喩えられました。この相対する二つが一つに調和することで、この世界の存在と生き物の体が守護されています。全て親神のご守護であり、「共に楽しむ」ための雛型であると、お教え頂きました。

そして、私という人間が、今ここに存在するためには、必ず親の存在があるのだということです。親にも親がいて、その親にも親がいるわけですから、その「元」はいったいどこにあるのか、という疑問はだれもが抱いた経験があると思いますが、その「元」は親神であるということです。火や水、空や大地のような物質や現象や空間が親神なのではなく、その働き、調和、そして、そのお心が、親神なのです。ですから親神の心はこの世の万物の中にあり、同時に、この世界は、親神の体であるとも教えられています。

神は目には見えません。なぜなら私たちは神の体の中にいるからです。神は目には見えません。なぜなら神は私たちの中で働いているからです。そして、「見えない」と言いってはいますが、「見える」とか「言う」という現象は、既に神のご守護だということに気づいていないだけなのです。

私が今ここに生きているということは、親神が、この世界と人間を始められて以来、一度も途切れることなく親から子へと生命が受け継がれたことの証です。ですから今、生きているということは、この世界と体中に親神のご守護が満ち溢れているという証でもあります。

また、私たちの体の目、耳、鼻、口、手足は、「共に楽しむ」ことができるよう、それぞれの人間にお与えくださっている道具だと教えられています。確かに、人間の知恵や技術で、目、耳、鼻、口、手足を創ったのではないことは明らかです。ですから、これらは親神からの貸し与えているもの、「かしもの」とお教え頂いております。また人間の側からは、借りているもの、「かりもの」と教えられています。

では、借りているのは誰でしょうか。それは、私たち一人一人の心です。親神は、私たちの心に対して顔、体を貸してくださっているのです。人それぞれ顔や体が同じではないのは、それぞれの心が違うからで、同じ心は二つとないからです。顔や体は、親神からの「かりもの」ですから、自由に変えることはできません。自由なのは、銘々の心だけだと言われています。

心が自由であるということは、感謝の気持ちを無限大に膨らませることもできるという可能性を秘めています。そして、この人間の感謝の気持ちに、親神も無限大のご守護で応え、「共に楽しみたい」というのが、親神の望む、「陽気暮らし」の世の中です。

しかし、心が自由であるということは、その反対もあり得るということは、心しておかなければならないということです。

おやさまは、この「かしもの」と「かりもの」ということがわからないと何もわからないと仰いました。何もわからないとは、親神のご守護と親心が何もわからないということです。

では、それがわかるにはどうすればいいのでしょうか。

それは、おやさまが、親神の思し召しを綴られた、「おふでさき」です。そして、おやさまが、自らお教えくだされた「おつとめ」です。これらの中に込められた、親神の思し召しと親心をしっかり理解することではないでしょうか。

この「おふでさき」と「おつとめ」の地歌である「みかぐらうた」の中には、神の思し召しがわかっている者はだれもいない、また元を知っている者はだれもいない、だから、聞いてくれ、思案してくれ、わかってくれという言葉が何度も出てきます。

では、今、みなさんの前で話している私自身は分かっているのでしょうか。あるいは、どのくらい分かっているのでしょうか。

その答えは、一つは、親神のご守護に対する感謝の大きさではないかと思います。そして、もう一つは自分の家族、友人、そして周囲の方々とどれだけ多くの感謝の心で繋がっているかということではないかと思います。しかし、人と感謝の心で繋がるというのは、どちらか一方では成り立ちません。たとえ親子でも、兄弟でも、夫婦でも、人の心を変えることはできません。親神でさえ、人の心は容易に変えられないと仰っています。

ですから、本日、お話致しました「共に楽しむ」ということに照らし合わせて考えますと、私の答えは、私の家族やここにいらっしゃるみなさんの答えに影響を与え、みなさんの答えは、みなさんのご家族、そして私たちそれぞれの答えに大きく関わってくるということを付け加えたいと思います。

最後になりましたが、来たる9月5日には、天理教ヨーロッパ出張所40周年記念祭が執り行われますが、皆様方と共により大きな喜びと感謝の気持ちで記念祭を迎えられるよう願い、本日の神殿講話を終わらせて頂きたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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