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2011年5月月次祭神殿講話

長谷川真理子

みなさん、こんにちは。おげんですか。私は元気ですが、大変緊張しております。初めての神殿講話に加えて、このように大勢の人の前でフランス語で話を致しますのは初めての経験ですので、大変緊張しております。つたないフランス語でありますし、まだまだ若い未熟者の話ですが、精一杯つとめさせて頂きますので、最後までお付き合いいただきますよう宜しくお願いいたします。

まずは、私の自己紹介からさせていただきます。私の名前は長谷川真理子と申します。35歳です。私の主人は長谷川善久と申します。おそらくみなさんご存知かと思います。私たちは5年前に結婚致しました。

まぁ、このように自己紹介をし、私の経歴や家族のこと・また代々つづく信仰についてなどお話しするつもりでおりました。

しかし、3月に入り仕上げにかかろうかと思っていたところへ、大きな大きな出来事が起こりました。東日本大震災です。

私は日本の東北部に位置します、岩手県というところの沿岸部にあります吉里吉里という小さな小さな集落に生まれ・育ちました。海以外には何もないようなところです。今回の震災の津波による大打撃を受けた、まさに被災地というべきところです。
今回の震災を通して、私自身が感じた事、また被災者により近い者として何か皆さんにお伝えできることがあるのではないかと感じ、このことを話させて頂こうと思いました。

地震のニュースは、インターネットで知りました。実家には父と兄夫婦・そして兄の子供4人がいたので、すぐに実家の父へ電話をかけましたが、固定電話、携帯ともにつながることはありませんでした。そこで、天理にいる母、兄、妹に連絡を取りました。しかし、実家の状況は全くわからずその状態はその後5日間続きました。

インターネットからは、津波で町が流されていく様子、車が家が次々と飲み込まれていく映像が映し出され、それらを見ていると、この中に家族がいるのではないか、家も地震で崩れ、家族がその下敷きになっているのではないか、考えたくなくとも頭の中はどんどん悪い想像で膨らんでいきました。

震災から5日経った日に、家から1時間ほど離れたところに教会の信者さんがおり、その知り合いの方が私の実家に立ち寄り、家族全員無事だという事を知らせてくださったと連絡が入りました。

7日後、車で現地へ向った兄から、家族全員無事で、家も倒れることも津波に流されることもなく、瓦が何枚か落ちたのと、風呂場が壊れて使えなくなっただけですんだとのことでした。我が家のもろさをよく知っている私としては、まさに奇跡的な事で、守って頂いた、本当にありがたくもったいない御守護にただただお礼申し上げるばかりでした。

しかし、その喜びも束の間、次から次へと被災地の悲惨な状況も耳に入ってきました。震災が起きてから、被災地とは連絡が取れないので、地元を離れて暮らす友人たちとも連絡を取り合い情報を得ていました。震災から3日後に安否が確認された友人の名前が書かれた一覧のメールが届きました。そのメールを見てとりあえずは無事だったことに安堵いたしました。

その2日後に、ツイッターで私の友人の情報を求める書き込みが掲載されていました。その名前は4日前に友人が無事だったと知らせてくれた一覧にあった名前でした。『おかしいな、もしかしてこの人は新しい情報を知らないのかな』と思い、メールをくれた友人に連絡を取り、このような書き込みがあったけれど、無事だったことを知らないようだから連絡してあげてほしいと言いました。

しかし、返ってきた返事は私が思っていたこととは大きく違っていたのです。
確かにあの時点では彼の父親から無事だということを聞いたけれど、実は彼の父親は安否がわかっていなかったのにも関わらず、息子は無事だとうそをついていたということでした。
地震当日、彼は私たちの地域から車で1時間ほど離れた町・宮古というところへ買い物に出かけていました。地震直後『今からすぐ家へ戻る』と家族へ電話があったそうです。それが彼と話した最後の会話でした。帰るルートはただ一つ、海岸沿いの道路を通ってしか帰れません。もしその時津波がきていたら…。

話は前後しますが、去年の夏、私は実家のある町へ里帰りをしました。珍しく他の友人の夏休みと日程が合い、そんなわたしのために同窓会を開いてくれるとのことで、久しぶりに友達に会えることをとても楽しみにしておりました。
同窓会当日は、漁業をしている友人宅の道具倉庫を借りて、みんなでバーベキューをしました。私は中学校を卒業して地元を離れましたので、20年ほど会っていない人もおり、本当に懐かしく楽しい時間を過ごす事ができました。その同窓会をやろうといって指揮をとってくれたのが、行方不明になった彼だったのです。

さて、話は戻り友人の父が行方不明になっていた我が子を、無事と告げた理由ですが、それはただ周りの人に心配をかけたくなかったというだけのものでした。その後も家族・友人が避難所を探し歩き、地元にいない者は、インターネットなどで避難者名簿を調べ、いろいろな方面へ情報の提供を呼びかけていました。最後は出かけた先に程近い遺体安置所で、家族によって彼は見つけ出されました。この話を聞くと、彼の父親はどうしてもっと早く息子が行方不明だということを言わなかったのかと思います。また、息子がかわいくないのか?と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、この大変な震災の中で、本当に周りの方々に心配をかけたくなかった、息子のことで手を煩わせたくなかった、ただそれだけの事だったのだと思うのです。本来ならば、声を大にして『息子を捜してくれ、息子を助けてくれ』と叫びたかったに違いない。けれど、息子を大事に思うのと同じだけ、周りの人ことも大事に思っていたのだと私は思うのです。

今回の震災で私が最も不快に感じたことは、自分たちは被災していないのに、物を買い占めたり、計画停電に不満を言ったり、少しのことに過剰に反応し、風評被害を加える人たちです。少し何かが違えば自分たちが被災者になっていたかもしれないのに、今ある状況に喜ぶことなく、不満ばかりを並べあげるのです。震災のせいで迷惑を被っていると言わんばかりの行動は、目に余るものがありました。今回の震災で被災した友人たちは、ことあるごとに『ごめんね、ごめんね』というのです。そして『大丈夫、大丈夫だから』と繰り返すのです。彼らが悪い訳でもないのにあやまり、家を流され、家族を流され大丈夫なはずがないのに、大丈夫と何度も繰り返し言うのです。被災して辛い思いをしている者が『ごめんね』とあやまり、被災をしていない者が不満を言う。いつからこんな世の中になってしまったのかと情けなく思えました。

しかしこれは恐らく立場の違いなのだと私は思うのです。1995年の阪神淡路大震災の時、私はすぐ近くの奈良県に住み、学生という自由な立場でありながら、テレビで悲惨な状況が映し出されているのを、ただ『かわいそう』と言って見ているだけだったのです。よく人は、『人の気持ちなってものを考える』とか『人の喜びや悲しみを自分のこととして』などと簡単に口にします。誰でも自分がかわいいものなのです。しかし、どんな時でも自分の事より相手の事を優先する姿、彼の父親の行動は自分の立場・相手の立場関係なく、それらを遥かに超えた真の思いやり・心遣いだったと思うのであります。

先に話しました同窓会の席で、亡くなった彼は『この町で一から親父と漁業をやろうと思って、娘を引き取ってここへ帰ってきた』と話していました。都会へ出て働いていたけれど、やっぱりこの町が好きで、漁業をする父親を見て自分の帰ってくる場所はここだと決心したと言っておりました。

そんな彼が尊敬する父親は、どんな時も相手を思う心を持った人であり、そんな父親だからこそ彼はこの町に帰って来ようと思ったに違いないと思いました。そしてこれだけ遺体があがらない、身元不明の遺体が多い中、家族によって見つけ出され、両親の元へ帰ることができた彼は幸せだったと思いたいです。

『あれだけの津波に流され続けたのに、きれいな顔だった、五体満足だった』と友人が話してくれました。辛くて悲しくて悔しいけれど、彼の家族がきっと一番辛くて悲しいに違いないし、何より親より先に亡くなり、5歳の娘をおいていった彼が一番悔しいに違いないと思うのです。

今回の震災は全てをまとめて一つの出来事のように取られていますが、そこには無数の悲しみが存在しています。2万人の死者であればそこには2万通りの悲しみが存在し、その悲しみは今もなお消えることなく胸の中に居続けているのです。

震災が起きたあと、一度だけ母と電話で話しをしました。母は『もし教会が流されたとしても、また建てればいい。おじいちゃん、おばあちゃんがそうしてきたように、私たちもまたやり直せばいい。そしてもし家族に何かがあっても、それは受け止めるしかないからね。どんなことも神様がなさることだから、わたしたちはそれをしっかりと受け止めるしかない。』そう言っていました。母は強いなぁと思いました。そしてそこには確固たる信仰があるのだと思いました。

私はというと、いまだ母のようには思えていません。正直、まだこの現実を受け入れる事ができません。今でも、どうして私の町が、どうしてあの家が、どうしてあの人が、神様、どうして助けてくれなかったのですかと思ってしまいます。自然を相手に、田舎で細々と生きてきた人たち。誰よりも自然を愛し、自然を大事にしてきた人たちがどうしてこのような目に遭わなければならないのか。いったい彼らが何をしたというのか。どうして守ってもらえなかったのかと、そんな事ばかりを思ってしまいます。

今回の震災で母親を津波に流された4歳の男の子が「ぼくも流されて、ママに会いたいなあ。波になりたい。」と言ったそうです。この記事を読んで、涙が出ました。

被災地の方々にもそして私たちにもこれからまだまだ先があります。そして子供たちにはずっとずっと長い先の未来があります。その子供たちが、この世に産まれてきてよかったと、お母さんは亡くなったけれど震災でたすかってよかったと心から思える日が来るように、一日でも早く子供たちが安心して暮らせる世界に変えていかなければなりません。

おふでさきに、

めへ/\にいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな    (三33)

今が便利であっても、あとあと子供たちを苦しませるような世の中ではいけないのです。近道をせず時間がかかっても今が少し不便でも、きたる未来へ少しでもより良い環境を残していかなければなりません。欲を捨て、高慢心を取り皆が助け合っていかなければならないと思うのであります。

自然災害・戦争・原子力の問題、日本だけに限らず、いつどこで起きてもおかしくないことばかりです。今、私たちができること・そしてすべきこと。震災もこれで終わりではありません。これから町を立て直し、心をたてなおして一から生きていかなければなりません。『経済大国日本』と言われながらも、これだけの被害を受けた今、世界の力を借りなければ何もできないのです。これは日本だけに限らず、どこで起きても同じ事だと思うのです。持てる者は持たぬ者に手を差し伸べ、心を使い、今こそ世界が助けあって生きていかなければいけないのだと実感しています。人は一人では生きて生けないし、一国だけでも決して生きてはいけないのです。

おふでさき

ちかみちもよくもこふまんないよふに
たゞ一すぢのほんみちにでよ   (五30)

『ほんみち』とは、本当の道つまり私たち天理教信仰者が教えていただいているようきぐらしへの道ということも言えると思いますが、私は本来の道とも考えられると思うのです。誰しも苦しい時、たすけて頂きたいと思った時、『これからどんなことがあっても喜んで通らせてもらいます。』と誓った日があったと思います。小さい事でも喜んでいた頃のことを忘れ、知らず知らずのうちに心が変わっていき、同じ事でも喜べなくなっていく。自分の元一日を忘れずに、今回の震災だけに限らず、人に対する心遣い、自己満足ではなく本当のたすけを求められているのかもしれません。

吉里吉里の町を見てきた兄が『吉里吉里はこれから強い町になる』と言っていました。
私も強くそう信じております。

最後になりましたが、今回の震災でたくさんの方々にご心配をいただき、またいろいろとお心遣いを頂きましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。誠にありがとうございました。 つたない話でしたがこれで終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。

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