Tenrikyo Europe Centre

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2022年12月月次祭神殿講話

海外部ヨーロッパ・アフリカ課長

本年10月26日秋季大祭の日、真柱様から諭達第四号が発布されました。ヨーロッパ教友の皆様も日々拝読されておられることと思います。この諭達というものは真柱様から特別に教内全般に対して出されるもので、歴史的に見ますと明治36年12月が最初の諭達で、今回で45回目となります。この諭達は3年後に迎える教祖の年祭に向けて三年千日をどのように通らせて頂いたらよいか、どういう心づくりをすればよいのか、それを考える拠り所、指針となるものです。その諭達の精神を、三年千日を通る我々はしっかりと心に納めさせて頂き、来る教祖140年祭には親神様、教祖にお喜び頂ける姿をお見せできるようつとめさせて頂きたいと思います。本日は教祖年祭の意義、また年祭活動について今回真柱様から出された諭達を引用しながらお話させて頂きたいと思います。

諭達第四号を拝して一番心に迫ってきたお言葉は、冒頭の「全教の心を一つにしたい」というワードです。私はこれを真柱様の肉声でお聞きした時は鳥肌が立つと申しますか、身体の中から熱いものが沸き上がってくるものを感じました。恐らくその場でお聞きしていた参拝者の方々の多くが同じような思いをされたのではないかと思います。

申すまでもなく教祖の年祭とは教祖が明治20年正月26日に現身を隠されたことを記念し、10年ごとに勤められる祭典のことであります。年祭というものは我々人間の場合は、故人をしのぶ祭典で霊祭と呼ばれるものですが、教祖の年祭は人間の年祭とは異なります。教祖は姿こそ隠されましたが、今もなおご存命です。教祖のお働きは日々世界中に現れ、先頭に立って私たちをお導き下さっています。教祖の年祭はその親心に応えるため、その節目に私たちが成人できるよう努力させて頂くという大切な意味があります。

この区切りの中で、つまり年祭をつとめる三年前に諭達が発布され、三年千日の御打ち出しがなされるのです。それでは年祭活動とはどのようなものなのでしょうか。

教祖年祭までの三年間を「三年千日」と呼び、教祖50年のひながたの「三年間だけでも」ひながたを通らせて頂き、私たちの成人と世界だすけを強く推し進める活動のことを指します。これについてはある有名なおさしづがあります。

なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道が無いで(M22.11.7)

というものです。

親神様は教祖の生涯を通して私たちが本当にたすかる道、ひながたをお教え下さいました。教祖が通られた道は50年でしたが、同じ期間を通りなさいと言われないばかりか、半分以下の20年、10年通れとも仰いません。教祖が通られた50年に対して僅か千日、3年を通ればよいと仰ったのです。このおさしづから年祭活動は教祖のひながたと切っても切り離せない活動と考えることができます。

ここで教祖年祭の意義について少し述べさせていただきます。

諭達に

この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。

とあります。

教祖の親心にお応えするための方法を2つ挙げておられますが、一つ目の「教祖の道具衆としての自覚を高め」という文言に着目したいと思います。この文言の中の道具という言葉は、一般的には私たちが日常的によく使用するものの総称です。このお道では我々人間は陽気ぐらし世界を作るための道具として例えられています。陽気ぐらし世界を一つの家として考えてみれば分かりやすいと思います。一つの家を建てるとなると、色々な道具が必要となります。例えば電気のこぎり、かんな、金づちなどといった大工道具はそれぞれ性質や用途の違いから、使われる場所が違います。しかし、家を建てるという大きな目的は同じです。つまり陽気ぐらし世界建設という大きな目的があって、私たち人間はその道具としてそれぞれ役割をもって生まれてきたのです。

では教祖の道具衆とは具体的にどのようなものでしょうか。「道具」という言葉はおさしづに数多く登場しますが、その中からいくつか引用して私たちがどういう道具として生きていけばよいのかを考えてみたいと思います。

おさしづ

皆それぞれ道の道具、道の道具(M28.9.13)

道具揃わねば仕事できん(M23.9.26)

生涯に一度使う道具でも、無けねばならん(M21.9.2)

とあります。

ここでは、私たち人間はみんなが必要な人材であり、みんながいなくてはいけない存在と言われています。私たち人間は、どんな者でも教祖は必要とされているんだと感じることができる、心温まるお言葉です。

またそれぞれの徳分に応じて、適材適所の使い分けをされています。おさしづ

大き事する、するのに、小さいもの以ては出けやせん。又小さい事するのに、大きい物以ては出けやせん(M33.6.23)

このおさしづでは、道具の特徴や特性、つまり人の徳分に合った仕事やおたすけがあたわるということを教えて頂いています。同じように考えて、人前で話すのが得意な人には物事を人様に伝える役があたわったり、身体が丈夫な人には力仕事があたわったりします。

、、、、、、三年五年目に使う道具もある。日々に使う道具もある、、、、、三年五年使う道具でも、生涯に一度使く道具でも、無けねばならん(M.21.9.2)

このおさしづでは、道具として活躍するタイミングは人それぞれだと教えられています。活躍するということは、即ち人の役に立ったり、人に喜んでもらうことで、こういったことの積み重ねが将来陽気ぐらしにつながっていくことになるのです。

このように道具について様々なことをお諭下さいました。

私たちはみんな必要とされてこの世に生まれてきました。私たち人間が得意なこと、好きなことを人だすけに活かせるよう、親神様はその人に合ったタイミングで人間関係や場面を用意して下さいます。

人それぞれ活躍の旬が違うので、教祖から出されるサインを見逃さないようにしたいものです。私たちはもう50歳だから、60歳だから無理だと何かにつけ年のせいにしがちですが、人生の最後まで必要とされています。まずはこの親の思いを知り、次にその道具衆として、どう実践していくか考えることが、この年祭活動では求められているのではないでしょうか。

また諭達では、年祭の意義をお示し下された上で教祖ひながたの重要性について言及されています。

教祖年祭への三年千日は①ひながたを目標に教えを実践するとき②たすけ一条の歩みを活発に推し進めるとき、と明言されています。

ここで挙げられるひながたとたすけ一条の歩みについては、あとに述べられております教祖の3つの代表的なエピソードで説明されています。それらは「水を飲めば水の味がする」「ふしから芽が出る」「人救けたら我が身救かる」です。それぞれご守護への感謝、節目と成人、おたすけについて表しておられます。この3つのお言葉も初めて諭達をお聞きしたときに非常に印象的でした。

私にとりまして、これらの3つのお言葉の中で特に印象的なものは「水を飲めば水の味がする」です。この言葉を最初に聞いたのは恐らく高校時代だったと思いますが、貧のどん底の生活をしている中でのお言葉で、当時はそんなに奥深く考えませんでしたが、後々になってよく考えてみますと、この言葉には大きな意味があったんだと分かってきました。水を飲んだらその味が分かるということです。この当たり前と言えば当たり前となってしまっていることの裏には実は親神様の絶大なるご守護があるのだということ、そしてそれに感謝することが大切なことだということが分かったのです。

これと同じように、息をすれば息ができる。目を開ければ目が見える。お貸し頂いているこの身体は既に親神様のご守護で一杯であります。例え今晩食べるお米が底をついても、水があるではないか、私たちはその水の味が分かるというご守護を頂いている。結構にお与え下されているということであります。

この親神様の自由のご守護があって、私たちは結構にお連れ通り頂いている、これをまず感謝しなければなりません。そしてその感謝は外に向けてのにをいがけやおたすけをさせて頂くことにつながっていきます三年千日とはこのような教祖のひながたを元に、人だすけにつとめる期間であると取ることができます。

天理教は世界一れつをたすけるために、すなわち世界中の人間を一人残らずたすけあげ、陽気ぐらしの世を実現するために開かれました。人をたすけるとは、その根本である「心をたすける」ことであると教えて頂きました。この「心がたすかる」とはどういうことでしょうか。まず一つ目は胸のほこりが掃除された状態だと思います。心が澄んだ状態と言ってもいいでしょう。「心さいすきやかすんだことならばどんなことでもたのしみばかり」と仰せられるように、心が澄んでくればどんなことも喜べるようになります。たすかることのもう一つの要件は、「ほこりを払って思召しにかなう心に入れ替える」ことです。

どういう心に入れ替えるのか、色々考えられますが、最も思召しにかなう心は「人をたすける心」です。これは我が身勝手な自己中心的な心づかいの正反対の心遣いと言えます。「人救けたら我が身救かる」と仰せになるところでもあります。澄んだ心と人をたすける心、これが心のたすかりの2大要件です。この諭達で挙げられました「人救ら我が身救かる」とうい救済感は、自分のたすかりは他者のたすかりと切り離せないということです。

教祖はおたすけで身上がたすかり、御恩返しを申し出る人に対しては、いつも「人さんたすけなされや」と仰せになりました。そこからしますと、御恩に報いるという意味では、おさづけ、おたすけは何よりのひのきしんと申してもいいでしょう。

世間一般を見渡してみますと、健康的にも経済的にも恵まれているけれども、何かしら虚しさ、さみしさ、孤独感を抱えている人が少なくないと言われております。心のよりどころ、人生の目標を持てずにさまよう人々に、人類の親の教えを伝える、陽気ぐらしという究極の目標を提示することも今後一層大切になるおたすけだと思います。

無宗教の風潮がはびこる今日の世相ですが、無信仰なるがゆえの悩みや争いに苦しむ人も大勢あります。私たちの周りには病む人は元より人知れず苦しむ人が大勢いると自覚して、周囲に目を向け、心を配り、自分にできるおたすけ、自分だからできるおたすけを共々に心かけたいと思います。

さてこの三年千日を通るにあたりまして、我々にとって非常に重要なことがあります。それは心定めです。お道の教えにおいて、私たちは「心定め」という言葉をしばしば耳にします。心定めとは、事情や身上をご守護いただくために、あるいは今回の年祭のように自身が成人するために、なんらかの目標を定め、教祖に約束することです。

心定めにおいて大切なことは、心定めの内容そのものも大事かと思いますが、むしろ、その心定めを達成できるように継続的な努力を怠らないことの方がより大切だと思うのです。このように何らかの目標を定め、その達成のために努力していくという行為は必ず親神様に受け取っていただけると信じます。

それでは私たちはこの三年千日を通るためにどのように心定めをさせて頂いたらよろしいのでしょうか。この年祭までの三年千日にはこういうことをやらせて頂きます。このような通り方をします、という心を決めることです。よく教会の心定めとして、修養科生何名、おさづけの理拝戴者何名、初席者何名というものを目にします。もちろんこれは教会としての心定めです。それぞれ個人の心定めは色々な形があってもよいのではないかと思います。今まで自分がやろうとしてできなかったこと、、、、、少しハードルを上げてこれをやらせて頂きますと心に決めるのです。毎日朝夕のおつとめに参拝する。これも心定めです。もちろん朝夕のおつとめを参拝されている人にとっては、また別の心定めが、それこそにをいがけ、おたすけに奔走します。これも心定めです。

また私は物事にはタイミングがあると思うのです。普段10の力で日々をつとめている人が、この三年千日に倍の20の力を出せばどうなるか。そして一人一人が倍の力を出せば、その力は合わさって、さらに相乗効果を生み、何十倍にもなると思うのです。例えが正しいかどうか分かりませんが、少々の力では開かない扉があるとします。普段の10の力で開けようとしても開きません。しかし20の力、30の力を出せばどうでしょう。開かなかった扉が開くのです。一人一人の力を結集すれば、大きな力を生み出すことができるのです。この教祖140年祭に向かう三年千日、倍とは言わずとも自分に出来る精一杯の努力をさせて頂きましょう。おたすけの回数、ひのきしんの時間を増やす、さらにはこれまでできなかったことに挑戦してもよいのではないかと思います。

この度の三年千日を通るに当たり、お互いがそれぞれに心定めをして、日々を通らさせて頂きましょう。お貸し頂いているこの身体を存分に神様の御用にお使い頂き、明るく陽気に勇んで通らせて頂きたいと思います。

立教185年の年も間もなく終わりを迎えます。年が明ければ教祖140年祭三年千日がいよいよ始まる時旬となります。それまでの期間はそこに向かうまでの助走期間だとお聞かせ頂きました。皆さんの助走はいかがだったでしょうか。走り幅跳びに例えるならば、どれだけ遠く、高く飛べるかはこの助走がどれだけ力強く走れるかによると思うのです。来年1月までまだ時間がありますので、まだ助走のスピードがあまり出ていない方はさらにスピードアップしていけばよいと思います。それまでに諭達を心に納め、よいスタートが切れるように準備を進めていきましょう。

立教189年に迎える教祖140年祭に向けて、全教の心を一つにしたいと仰った真柱様のお心に我々は全力でたすけ一条の心で沿わせて頂きたいと思います。来年もまた勇んでお道の御用の上につとめて頂きますことをお願いして本日のお話を終わらせて頂きます。

ご清聴ありがとうございました。

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