Tenrikyo Europe Centre

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2014年10月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

さて、1月と10月の大祭を除いた毎月の月次祭では、個々の身上事情の助かり、また世界人類の平和を祈念させていただきますが、一方、10月の大祭では、その事に加えて、もう一つ重要な意義があります。それは、我々信者が立教の元一日に思いを馳せることです。立教ゆかりの日におぢばでつとめられるかんろだいづとめの理を受けた月次祭を勤める中で、私たち一人ひとりが心新たに親神様の思し召しにお応えできる歩みを踏み出す事を誓わせて頂くことが大切だとお教え頂いています。

「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり、このたび、世界いちれつをたすけるために天下った。みきを神の社に貰い受けたい」とは、立教の時、親神天理王命様が教祖の口を通して、初めて人間に伝えた言葉です。このなかで、親神とは、この世を作った神ばかりでなく、今も人間を守護している神であり、天下った理由は、「せかいいちれつをたすけるため」だと、はっきり宣言されました。 私たちは我々を陽気ぐらしへと向かわせたいという親神様の大いなる意思の中で生かされているのです。

実際、この神言から170年以上経った現在に生きる私たちにとってみれば、この言葉は、当時の人達と比べて、信じ易いかと思われます。なぜなら、これまでの天理教の発展の姿がその教えの信憑性を少しでも支える役割を担うからです。

それに反して、この時には、まだ何も目に見せてもらっていない当時の人に取ってみれば、嘘とも本当とも知れないこの言葉を信じるには、大変な決意が必要であった事は明らかです。そんな中、一家の主である 教祖の夫、中山善兵衛様は、大変な勇気を持って、教祖親神様の社として差し出され、神の意志に従う決心をなされました。

一人きりであったとしても、これまでの生活から大きな変化が訪れようとも、信じたことを貫き通そうとした教祖の夫、善兵衛様の強い意思に少しでも近づこうとすることが、元の日に当たって肝心なことではないかと思います。

ところで、教祖130年祭に向けての三年千日活動が始まって以来、出張所では、朝勤めの後、日替わりで数種類の教えを拝読させて頂いております。その中の一つに、みなさんご存知の「八つの埃」があります。「おしい」「ほしい」「にくい」「かわい」「うらみ」「はらだち」「よく」「こうまん」です。ここでの各心遣いの説明は省略させて頂きますが、これらは、大抵の場合、避けなくてはいけない心遣いについて話されていることだと認識されていると思います。しかし、先日、ある本の中で、この八つの埃について、本部の昔の先生がこの八つの埃というのは、避けることに大きな主眼があるのではなく、むしろ、どうしても溜まったしまう埃を払う事に注意を促すものであると書いているのを発見しました。私自身、個人的な意見ではありますけれども、否定形で語られ、心の動きが消極的に感じらえる「八つの埃」については、ただ闇雲に埃を貯めないことよりも、逸話編には、教祖も埃はどのようにしていても、溜まってしまうものだと仰っておられる話があるぐらいですから、もう少し、人助けやおつとめをして絶えずどうしても溜まってしまう埃を払うことにも言及した方が確かに良いかもしれないと思えました。

その逸話編を紹介させて頂きますと、 一三〇 「小さな埃は」です。

明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。

高井は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」

と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。

一方、みなさんは、「八つの埃」に対応するように、積極的に実行すべき心遣いとして、「誠真実」という教えが教会本部発行の「信者の栞」という冊子のなかで、教えられていることはご存じでしょうか。

その冒頭では、「誠真実というは、ただ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。それで、たすけ一条とも、聞かせられます。 互い立て合い、たすけあいが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、たすかるように、心を働かしていかねばなりません。」と教えられているものです。

その後の部分では、日々の生活のなかで、自分ばかりでなく、他の人にも八つの埃をつけさせぬようすること。また互い立て合い、たすけあいが出来るようになる積極的な心遣いとして、人に物を分け与える心。物を大切にする心。人の過ちであっても我が身にかついで通る心。人に罪を犯させぬようにする心。人と人との中を取繕い、人を立てる心などについて話されています。

誠真実の「人に罪を犯させぬようにする心」について忘れられぬ話があります。私の学生時代、ある友人が財布を盗まれたことがありました。彼は教室の机の上になにげなく財布を置きっぱなしにしていた事が原因でした。彼が、その事をある教会の会長である母親に告げると、彼女は当然のごとく彼を怒りました。しかし、怒った理由は、財布を盗まれた事ではありませんでした。その会長は、自分の息子が財布を置きっぱなしにしたばっかりに、見つけた人に欲の心を沸き上らせ、罪を犯させる埃を積ませ、盗人にまでしてしまったと、犯人に申し訳ないことをしたと悔み、被害者であるはずの彼に誠真実が足りないと怒ったのです。

私は、「誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。」と教えられるこの誠真実にそった生活態度こそ、私たち天理教者が欠く事のできないものであると思います。

真柱様が諭達第三号を通して3年という年限を仕切っての成人と一手ひとつの年祭活動をお促し下さってから、2年が経過しようとしています。

冒頭で申し上げました通り、私たちの今の結構な姿は、道の先人の方々が、なんら教養もない一人の農婦が、突如語りはじめた教えを神の言葉と心底信じ、教祖のひながたを思い、素直に実行する中で、次々と幸せを勝ち得た姿があったからであると思います。その助けて頂いた喜び、神様と共に生きる喜びを人から人へ、親から子へと伝えていった結果が今日の天理教の姿であると思います。

私は天理教の信仰者として4代目になりますので、そういった天理教がまだまだ小さいときから、勇気と気概を持って親神の教えに一生を掛けて通った人のなかには、私の曾祖父も含まれています。私自身、現在、こうやって妻と親神様の御用に使って頂けるのも、親神様が曽祖父をてびきしてくだされ、彼が本当の幸せを掴むまでに信仰を手放す事無く、地道な道を歩んだお陰だと感謝しています。

そして、その喜びを私の代で切らすことなく、自分で培った信仰の喜びを家族や周りの人に伝える地道な努力を惜しまない様にしたいと思います。

どうぞ、お互い、このお道の元一日、自分の信仰の元一日の決心を思いおこし、今日から教祖130年祭迄のあと一年、精一杯、誠真実の心で勤めきらせて頂きましょう。そうする中で、必ずや私たちの子供たち、孫たちまでも引き継がれるような大きな御守護をこの旬に頂けると確信しております。

ご清聴ありがとうございました。

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