Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2019年7月月次祭神殿講話

ラ・セーヌ布教所長 篠田克典

私達が毎日拝んでおります親神天理王命様は、紋型ないところから人間世界をお創り下された元の神様、実の神様です。親神様が人間を創られたのは、人間が陽気暮らしをするのを見て共に楽しみたいと思いつかれたからです。では、陽気暮らしとはどういう暮らし方なのでしょうか。

親神様が教祖中山みき様を通してお書きになったおふでさきに、

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから十四 25

というお言葉があります。

遊山とは、野山に遊びに出かけることで、つまり親神様は、人間が野山に遊びに出かけるようなうきうきとした心で暮らすのを見て、共に楽しみたいと思われ、人間をお創りになったのです。

私達が一番簡単に「陽気」になれるのは、物事が自分の思うようになったときでしょう。例えば、自分の贔屓にしているサッカーチームが試合に勝ったとき、自分のやったことが人に誉められたとき、想いを寄せている人が自分に好意をいだいてくれたときなど、いろいろ思いつきます。

反面、応援するサッカーチームが試合に敗れたときはおもしろくなく、乱暴な人は物を破壊し、あるいは人を傷つける場合もあります。自分のやったことが人に認めてもらえなかったときはがっかりもし、或いは周りの人は誰もわかってくれないと腹を立てるかもしれません。また、想いを寄せている人が自分に好意をいだいてくれないとわかった時には、泣き暮らす人もいれば、傷心のあまり自虐的になり、生活がみだれてしまう人もいるでしょう。果てはその相手や関係者を傷つけたり殺してしまったりということさえあります。こうなっては、陽気暮らしとはほど遠いものになります。

人間誰しも、うまく行っているときは何でも喜べるものです。しかし、普通喜べないような状況でも常に喜べる心でいられるのが親神様のお望みになっていることなのです。

常に喜べる心でいるといっても、自分さえいつも楽しく喜んでいればそれでいいわけではありません。神様のお言葉に、

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(明治30・12・11)

とあります。親神様のお望みになっている陽気暮らしとは、めいめいが勝手な心づかいでいては実現されにくいものなのです。

しかし、このように、世界中の人がいつも陽気な心で暮らすことは果たしてできるのでしょうか。

親神様は、「できる!そのように人間を創ったのだから」とおっしゃっています。親神様は教祖を通じて、人間創造の真実を明かし、陽気暮らしへの道を私達に教えてくださったのです。

親神様はこの世界、そして私達人間をお創り下さった神様です。教祖は、

「神さんの信心はな、生んでくれた親と同じように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心ができますで。」

とおっしゃったと伝えられています。

神様のお言葉にも、

せかいぢう神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ四 79

とありますように、親神様にとって、人間はかわいい我が子であり、人間にとっては親神様は正に、真実の親なのです。

親神様は、

にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる十四 35

ともおっしゃっています。

親神様には、世界中の人間はどこにいる人も、どんな人も、等しくかわいい我が子であり、親神様はみんなをたすけてやりたい、陽気暮らしをさせてやりたいということばかり考えていらっしゃるというお歌です。

このお道の大切な教えの一つに「かしもの・かりもの」のお話があります。私達が普段何気なく使っているこの体は、自分自身の物ではなく、親神天理王命様が私達に貸してくださっているもの、人間側からすれば、親神様からの借り物ということです。ただ、心一つだけが自分の物と教えていただいています。

また、親神様は、病気になる体は貸していない、心の理がそうさせるのやとおっしゃっています。この貸し物の体に病を持って生まれさせてあるか、これを人間にとって考えてみればよくわかります。体内に子供が宿って十ヶ月身に持っている間に、今度生まれるにはどういう病、又どういう持病持って生まれたらいい、と思う親が一人としてあるかと考えれば、これはありえません。そうすれば神様の思われるのも、人間が我が子にとって思うのも同じ事であります。

なんぎするのも心から、我が身うらみであるほどにみかぐらうた 十下り目 七ツ)

とおっしゃっています。

また、

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん三 137

とおっしゃるように、このかしもの・かりものの真実を知らずしては、身の回りで起きるさまざまなことに込められた神様の思し召しを悟ることは不可能であり、また、世の中の道理も理解しがたいものとなります。また、このかしもの・かりもののお話は頭で理解できても、本当に心からその意味がわかるようになるには、なかなか難しいように私は思います。

私達の身の回りでは、いろいろなことが起こります。自分の思い通りになることもありますが、むしろ、思い通りにならないことの方が多いのではないでしょうか。しかし、そこで心を倒さず、その中に込められた親神様の思し召しがわかれば、心に明るさが生まれます。そのためには自分自身の勝手な想像や思いからではなく、あくまでも教祖が残してくださった教えに照らし合わせて考えなければなりません。

親神様は、陽気暮らしにならない心遣い、つまり、親神様の思し召しに添わない心遣いを埃にたとえてわかりやすく教えてくださっています。埃は元来吹けば飛ぶような小さなものです。早めに掃除すれば、簡単にきれいに払えますが、油断してほっておくといつのまにかうずたかく積もり、しまいにはこびりついて容易には取ることのできないものとなってしまいます。

親神様のお望みになっている陽気暮らしのできない埃の心遣いとは、「をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・腹立ち・よく・こうまん」の八つです。この八つに加えて、「嘘と追従、これ嫌い」ともおっしゃっています。

このような埃の心遣いは、しないでおこうと思っても、ついついしまうのが人間の常であり、また、自分自身では全く気がつかないうちにそんな心遣いをしていることさえ多いように思われます。

しかし、親神様は何も、埃の心遣いをしたら罰を与えるなどとおっしゃっているわけではありません。取れにくくなってしまわないように、毎日毎日、自分が積んだ心の埃を払えばいいのです。

そこで、教えていただいているのが「おつとめ」で、毎朝毎晩おつとめをすることによって、日々積もった心の埃を払っていただけるのです。

また、この「おつとめ」は病気やけがを治していただくため、また、世界平和を祈るためにもつとめられます。

おつとめ」と並んで、親神様が教え、授けてくださっているものに、「おさづけ」があります。こちらは、もっぱら身上たすけ、つまり、病気やけがの人に取り次ぎ、その平癒を祈るものであります。

この「おさづけ」を取り次ぐ人は、自分の体に取り次ぐことはできません。

この道は、何らかの事情があって、自分がたすけてもらいたいがために信仰し始める人がほとんどですが、たすかりたいと思ってやってきて神様のお話を深く聞かせてもらい、そこでいただくのが、この「自分に取り次げないおさづけ」です。ちょっと考えると理不尽なようですが、そこに、親神様の深い思し召しがあるのです。

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる三 47

とおっしゃるように、自分さえ幸せになればそれで良いのではなく、人をたすけることによって、自分もたすかるというのが、この教えです。

自分の欲求が満たされたとき、人は喜びます。しかし、自分の行いによって人が喜んでくれたとき、喜びはそれ以上のものではありませんか。私は世界中どこの人でもそうだと信じています。それは、親神様が人間をこしらえるとき、そのように作られたからであります。人間は元々陽気暮らしができるようにつくられています。それができないのは心に埃が積もっているからであり、それを取り除いてしまえば、誰もに可能となるはずです。

自分のことばかりにとらわれていると、かえって、自分のためにはならず、心が曇ってしまいます。優しい心、人をたすける心でいれば、常に陽気な心で日々を送ることができるのです。

ご静聴ありがとうございました。

アーカイブ