Tenrikyo Europe Centre

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2010年10月大祭神殿講話

天理教海外部次長兼ヨーロッパ・アフリカ課長 永尾教昭

先月、ヨーロッパ出張所は、真柱様ご夫妻のご臨席をいただいて、開設40周年記念祭をつとめました。当日は、すばらしいお天気で、大勢の参拝者とともに、大変勇んだ雰囲気で、おつとめが勤められました。

特に40年というのが、天理教で信仰的な意味があるわけではありません。従って、その記念祭をしなかったとしても、別に何ら問題はなかったと思います。ではなぜ、わざわざ、おぢばから真柱様に赴いていただき、記念祭を勤めるのか。それは、こういう節目を一つの契機として、出張所が開設された本来の意義を思い起こし、同時に自らの信仰を問い直そうということであろうと思います。

およそどの宗教でも、信仰の目的は、二つあると思います。一つは、自らの心を磨くこと。どのようにして磨くかと言えば、教祖の歩んだ道を自らも実践する努力をすること。今ひとつは、自らの信じる信仰を外に広めることだと思います。つまり、求道と布教です。

お道の場合も、同じだと思います。教祖のひながたを歩む努力をし、同時にまだこの道の教えを知らない人に広めていく、これがお道の信仰の目的でしょう。

そんなことは信仰者なら、大抵分かっております。そして日々の暮らしの中で、それを実践すれば何ら問題はないのです。しかし、人間というものは、重要だと分かっていても、何かの契機がないとなかなか、出来にくいものです。勉強することは大事だと分かっていても、試験がないとなかなか勉強はしません。スポーツ選手でも、普段から練習することが大事だと分かっていますが、試合がないとなかなか練習しません。

信仰も同じことで、求道と布教も、大事だと分かっていても、何か一つの契機がないと、なかなか実行には移しにくいものです。私は、出張所がその開設の記念祭を勤めるのは、それを契機に普段なかなか意識しづらい信仰の目的を今一度、認識して、それを実行しようとするところに、その意義があると思います。従って、記念祭それ自体もさることながら、そこに向かう道程、プロセスはもっと重要なのではないかと思います。

さて、今回、開設40周年を勤めるに当たって、3年前から、在欧の全ようぼく宅に神様を祀らせていただこうということを、心定めとして掲げました。そのことについて、少し考えてみたいと思います。

そもそも、天理教では、この世が神様の体だと考えます。従って、森羅万象すべて、神の意志の表れと捉えます。

おふでさきには、

たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ おふでさき第3号40

とあります。また、人間は神の懐住まいとも言います。つまり、この世全体が神の体なのであって、神は特定の場所にいるのではありません。そうであるならば、自宅に神を祀り、それを拝むという行為は、どのように理解すればよいのでしょうか。

まず宗教というものを考えてみましょう。宗教には、必ず儀式があります。そして、多くの宗教が、儀式をするに際して、特別な衣服を身に付け、さらに特別な空間でそれを行います。

なぜそういうことをするのかというと、人間は非日常的空間、非日常的時間に身を置かないと聖なる気持ちになりにくいからだと思います。例えば、今日も、神殿に服を着替えて座っております。これが、もし普通のサロンのようなところで、普通のジーンズや短パンならば、私たちはいくらおつとめを勤めても、聖なる気分にはなりにくいと思います。

また日常の雑事の中では、聖なる気持ちにはなりません。テレビを見ているとき、あるいはお酒を飲んでいるときに、聖なる気持ちになり、神を感じるという人はほとんどいないと思います。

この世が神の体なのでから、どこに向かって拝んでも、それは神を拝んでいることになると、私たちは知識としては知っていますが、現実に目標を据えて、非日常的空間、時間を作らないと、心静かに神を感じる、神の守護を祈念するという気持ちにはなりません。

自宅に神様を祀り、朝夕、おつとめを勤める。それができないならば、せめて一日一度、おつとめを勤める。それでもできないならば、柏手を叩いて参拝だけでもさせてもらう。そして、神に感謝の祈りを捧げるということは、本当に大事なことだと思います。

自宅に神様を祀ることの重要性は、そのほかにもまだあります。現在、フランスでも日本でも、世界中で、家族が崩壊していると言われます。離婚が当たり前になり、その影響もあるのでしょうか、若者達の暴力が後を絶ちません。また夫の妻に対する暴力も大きな問題になっています。

天理教では、20年ほど前から、「家族揃って教会に参拝しましょう」と呼びかけています。また真柱様は、講話の中で、家族団欒の大切さを説いておられます。天理教だけではありません。カトリックも、家庭を大切にすることを説いております。

私は、世界の治まりは、家庭の治まりから始まるのだと思います。世界中の家庭が治まれば、世界平和に大きく近づくと思うのです。逆に言えば、家庭が治まらないと言うことは、世界が治まらないと言うことです。では、どうすれば、家庭団欒を実現することが出来るのでしょうか。

まず、家庭が崩壊する理由を考えてみたいと思います。様々な原因があると思われますが、大きな原因の一つは夫婦間、家族間の会話が減っていることがあると思います。かつては、一つの部屋に集まり、一緒に食事をし、一緒にテレビを見ていたものが、それぞれの個の都合が優先されるようになりました。加えて、インターネットなど家庭内レジャーが多様化しています。その結果、家族が一緒に過ごす時間が極端に減っているのではないでしょうか。一緒にいなければ会話は出来るはずがありません。会話がなくなれば、当然、家族間の人間関係は希薄になります。

自宅に神様を祀り、最低でも一日一度、家族がその前に端座して参拝をする。そのことで、結果的に家族が一緒に過ごす時間が出来ます。親が子供の顔を見、子が親の顔を見る。これを習慣づけることは、本当に大事なことなのです。さらに言えば、子供に幼いときから、神に祈ることの大切さを教えることが出来ます。

私は、天理教の教会で生まれ育ちましたので、生活の中に常に神という存在、またそのルールが入り込んでいました。人から例えばお菓子をいただくと、親は私たち子供に与える前に、「神様にお供えしてから」と言い、まず神様にお供えをしました。その後、私たち子供にくれました。私は、幼い頃は、どこの家庭でもそうするものだと思っておりました。ですから、信仰をしていない友人の家に行ったとき、その家の大人が、いただいたものをすぐに目の前で開け、子供に与えているのを見たとき、少し驚きました。この習慣があったので、自然に、私の口に入るものは、すべて神様のお下がりなのだと思うようになりました。本当に、いい習慣を身に付けてくれたと親に感謝しております。

現代社会は、一人一人が、確かに忙しくなっています。しかし、おつとめに要する時間は、せいぜい15分です。いくら何でも、一日15分が取れないという人はいないでしょう。要は、おつとめを勤めるということを、習慣づけるということだと思います。習慣になれば、逆に勤めていない日は、何となく落ち着きません。朝づとめを勤めた後は、心に安らぎがあります。私は、今でも、例えばホテルに泊まるときでも、部屋のベッドの上で、朝起きたときと寝る前に、おつとめを勤めています。

私は、最近、本当にこの世は不思議に満ちているというのを実感します。人生をよく観察したら、不思議なことだらけです。教祖は、おふでさき

「このよふハりいでせめたるせかいなり」(おふでさき第1号21)

と仰っていますが、その通りだと思います。この世界は、神の原理通り動いており、それは人間の目から見れば不思議に見えるのだと思います。さらに、

たん/\と神の心とゆうものわ
ふしぎあらハしたすけせきこむ おふでさき第三号104

と言われております。人間の目には不思議なことが現れ、それによって神の存在を実感し、人間は助かっていくのです。例えば、こんなことがありました。私がまだパリにいた時のことです。ある教会長夫妻が、友人(その方は天理教の信仰をされていませんでしたが)を伴って日本から観光に見えました。私と家内は、一夜、彼らを夕食にご招待しました。夕食も終わって、そろそろ帰ろうかと立ち上がったとき、その夫婦に連れられてきていた友人が、私に向かって封筒を示しながら「永尾先生、この人は、私が以前、ある国へ旅行に行った先で知り合ったフランス人です。ご存じないですか」と言われました。私も妻も、その教会長さんご夫妻も、一体何を言っているのかと思いました。フランスには、六千万人の人が住んでいます。その人がたまたま旅行先で知り合った人を、私が知っているわけはありません。ところが、その名前と住所を見て、私はびっくりしました。それは、私が知っている人で、しかも天理教の信者さんだったからです。もちろん、妻も教会長さんご夫婦も、何よりも一応聞いてみようといった程度で聞かれた本人も、びっくりしました。その後、その方はこの不思議な体験もあり、おぢばに帰り、別席を運ばれました。まさに、「ふしぎあらハしたすけせきこむ」のお言葉通りです。

ところが、その不思議を大半は見逃してしまっているのです。なぜか。それは神の存在を身近に感じていないからではないでしょうか。香水を作る職人さんは、普通の人が全く気づかない臭いに敏感になります。音楽家は、普通の人が何とも思わない少しの音の違いでも、敏感に感じます。それぞれ、においや音に常日頃から、身近に接しているからです。

常日頃から、神の存在を身近に感じていれば、不思議を感得することが出来ます。神を身近に感じるには、日々のおつとめ、これが最高の方法なのです。最低一日一度、できれば二度、おつとめを勤めさせていただきましょう。

また先の40周年記念祭の折、ヨーロッパ婦人会が結成されました。ヨーロッパという土地柄は、出かけたり、行事に参加したり、通常、夫婦でいたします。おそらく、ここにおられる方々も、多くは出張所に参拝にくる際は、夫婦揃って来られると思います。

婦人会が出来たら、今まで夫婦で来ていたのが、夫は来られないのかというと、決してそうではありません。これからも、夫婦一緒に来てもらったらいいのです。さらに、婦人会の行事のあるときでも、夫も一緒に来ていただいても何ら問題ありません。

婦人会の結成は、男女を引き離そうとするものではありません。ここは、誤解をしないで下さい。では、なぜ、婦人会活動が必要なのでしょうか。

今年4月、本部で行われた婦人会総会における真柱様のお言葉を引用します。

「男尊女卑の気風が強く、女性が表に出る機会が少なかった時代に、『男女の隔てない。』と仰せになって、ひながたや教理を学び研究し、積極的に表へ出て働くことを求められた」と仰せになっています。つまり、女性ももっと前面に出て、男性と一緒になって活躍するために組織されたのが婦人会なのです。

実際の信仰生活の中で、男性より女性が前面に出た方がいいときは多くあります。まず女性へのおさづけの取り次ぎです。婦人の病気の場合、男が直接触って取り次げない場合が多いです。そんなときは、女性の方から取り次いでもらった方がいいのです。さらに、事情の相談です。例えば、夫婦間の事情、子育ての事情、家庭内の事情などがある場合、多くは女性の方が相談に来られます。そして、相談に乗る相手も、色々な意味で女性の方がよい場合が多いと思います。女性には、女性にしかわからないものもありますし、男性には打ち明けにくい事情もあります。

女性同士が集まって、他愛もないことを色々話す。場合によっては、それでも悩みや事情は解決できない場合もあります。しかし、話をすることによって、心が軽くなるということは、しばしばあることです。まさにそれが、婦人会活動の意義ではないでしょうか。

繰り返しますが、決して男性を排除するとか、男女を引き離すために婦人会を結成したのではありません。おつとめを見ても分かるように、お道は夫婦揃って、信仰するものなのです。それが、天理教のすばらしさです。

出張所は40周年記念祭を終えました。これから、50周年に向けて、また新たな一歩を踏み出しましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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