Tenrikyo Europe Centre

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2010年7月月次祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

ただいま、陽気ににぎやかに、天理教ヨーロッパ出張所七月の月次祭をみなさま一手一つにつとめさせていただきましたこと、お喜び申しあげます。今月の神殿講話にご指名いただきましたので、しばらくのあいだお付き合いくださいますようお願い申し上げます。

さて本日、お道の教えのいくつかのポイントを思い起こしながら皆さまとともに考えてみたいと思いますのは、常日頃の生活を送る中で私たちがとっている態度についてです。私は次のような問いを立ててみたいと思います。それは、私たちの生活に幸せを招き寄せるためにはどうすればよいのか?という問いです。

この問いは、私たち一人一人の内にしばしば去来する問いです。とくに、私たちが何らかの問題に直面していたり、病気に悩まされていたりするときには切実な問いとなります。

さらにまた、教祖がつけてくださったひながたの道をたどる私たちにとっては、私たち自身の心のあり方に時々目を向けてみることが必要でしょう。

今この時、私の心には平安があるでしょうか?今この時、私の心には歓びがあるでしょうか?この瞬間、今この時に、です。

たとえば、病気を患っているとか、自分自身のことや家族のことで難題を抱えているといった差し迫った状況でもないのに、私は日常の些細な出来事に心を曇らせ、ほとんどいつも、いらだちや不平不満をもってしまいます。

しかし、こうなるのは私たち自身の中にその原因があり、このような心遣いが私たちの日常の雰囲気・環境をかたちづくっているのです。

では、親神はこのことについて私たちにどう教えているでしょうか?まず『おふでさき』から幾つかのおうたを引用しましょう。

月日にわにんけんはじめかけたのわ
ようきゆさんがみたいゆへから

せかいにハこのしんぢつをしらんから
みなどこまでもいつむはかりで (第十四号25-26)

私たちの生活を「陽気遊山」に変えること、これこそ教祖が、私たち人間によって実現されるのを見たいと望んでおられることなのです。

そこで、次のように問わなければなりません。私の生活は「陽気遊山」といえるだろうか?もしそうでないとしたら、どうして私はまだそのように生きることができないのだろうか?と。

人間の親、親神様はこう言っています。「いづみ」の原因、つまり陰気で、もの悲しく、不幸な生の原因は、「だめの教え」を、即ち、人間の「陽気遊山」が見たいから人間を創造したという神の思いを知らないこと、あるいは忘れてしまっていることにある、と。

私たち一人一人の生活をみても、「陽気遊山」と呼べるような生活を送っている人がごく稀にしか存在しないのは明らかだと言えるでしょう。しかしそれでも、私たちは「陽気遊山」について教えを授かっているのです。

人びとはもはや、人間の生の元なるもの、人間存在の元の「いんねん」に思いを致すことがなく、あるいは単に知りません。私たちが元なるものをよく自覚したなら、私たちの生活は良い方向に変わるはずなのですが。

実のところ私たちの問題は、私たちが生きていく中で向かうべき目標や、私たちがこうして生きているそもそもの理由をしっかりと心に修めることができていない、ということに原因があります。

もっと悪いことには、

私たちはしばしば、神様が今ここにいるということを忘れてしまいます。ふだんの一日は、たいていの場合、神様のはたらきに気づくことなく過ごされてしまいます。そんなとき私たちは自分の力で生きていると思いこんでしまっているのです。

私たちを取り巻く人間関係はなかなかうまくいきません。私たちの人間関係は、さまざまな緊張や恐れ、周囲の人々から隔てられているという感覚に覆われています。人びとは互いにばらばらになって孤絶してしまっています。それで私たちは、保身に走ったり、他人よりも自分を強くみせたいと欲したりしがちです。

人間の親の無条件の愛に気づくことなく生きる、つまり教祖が今ここにいておはたらき下さっていることに気づくことなく生きるならば、私たちは不満や心理的な緊張に支配された不足の状態を生きることになってしまうでしょう。

ですから、私たちの内で、また私たちの周りで、神が今おはたらき下さっているということへの気づきをもって生きること。これこそが私たちの精神の目覚めなのです。

親神が今ここでおはたらき下さっているということを私たちがきちんと理解できるように、教祖は、親神がこの世にあらわれる際にとる十の様相、十全の守護を明確に教えてくださいました。

この世界にあらわれる親神のおはたらきの十の様相は本質において一つですが、意味においてそれぞれ異なっています。この十の様相、神の守護を、私たちは自分のからだや身の回りの自然において明瞭に知覚することができますし、そうすることで親の愛をまぎれもなく強く感じることができます。

教典』にありますように、

親神は、人間世界の 根元 ( もと ) にていまし、この世を ( はじ ) められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、 ( ことごと ) く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その 自由 ( じゆうよう ) の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、感じることが出来る」(『天理教教典』36-37頁)

私たちが、無条件にして普遍的な愛という、この素晴らしい 生命 ( いのち ) のエネルギーの存在に気づくことができれば、その時あらゆる恐れは消え去り、不安も無くなるでしょう。その時こそ私たちの本領は生き生きと発揮されるでしょう。そして、そもそもの初めに神様が私たちの根本に据えた歓びが、表にあらわれてくるでしょう。

『おふでさき』から二つのおうたを取り上げてみましょう。

いまゝでと心しいかりいれかへて ようふきづくめの心なるよふ(第十一号53)

いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ(第十七号14)

ここには喜ぶべき知らせがあります。それは、私たちの心は変わり得るということです。さらには、私たちは待つ必要はないということ、あるいは己を改めるために艱難辛苦する必要はないということです。この二つのおうたが私たちに教えているのは、私たちはただちに、今すぐに心をいれかえることができるし、そうすべきだということです。

ところが私たちは、今ここで自分の生を楽しむことができるその時の訪れを、いつも先延ばしにしてしまい、なかなかその時を迎えることができません。私たちはしばしば自分にこう言い聞かせています。「それは私のことではない、私にはまだ準備ができていない、私はまだそれにふさわしくない、私はまだ十分に徳を積んでいない」と。

その結果私たちは、陰気な気持ちを抱えたまま、一種の無自覚の中に生きることをやめられず、いつも別のものを欲しがって、満足できずに不足ばかり覚えている状態を抜け出すことができません。これは親神が望んでいらっしゃることとはまったく反対のことです。しかし、今述べたような不足の状態とは正反対にあるような、ありあまるような豊かさを私たちが生きることをさまたげるものは、何もないのです。

だんだんと心いさんでくるならバ せかいよのなかところはんじよ(第一号9)

しっかり目を開いてまわりを見渡せば、私たちには選択する可能性があることがわかるでしょう。私は美しいもの、善いもの、真であるものに目を向けることもできれば、醜いもの、悪いもの、偽であるものに目を向けることもできます。ただ歓びを内にもつ考え方だけが、神の思召しに沿った考え方なのです。

ですから、毎日、一日のはじまりに神様の思召しを思い返すことが大切だと思われるのです。「月日にわにんけんはじめかけたのわ ようきゆさんがみたいゆへから」という神様の思召しを。

そしてまた、一日を通して時折自分の内に目を向け、その時自分が考えていることを吟味してみることも大事でしょう。私が抱いている考えは、今この状況において抱き得る最高の考えだろうか? 私は今この瞬間に「陽気遊山」しているだろうか? どんな場所でも、どんな仕事でも、どんな出来事に遭遇しても、「よし」と肯定することができるなら、私はひながたの道を歩んでいるといえます。「よし」と肯定することができないとすれば、それは、教祖が今ここにいる、神が今ここにいるということを忘れてしまっているからです。

何事かが私たちの内にネガティヴな仕方でたちあらわれてくるのを感じたならば、心の底に怖れを抱えたまま、それから逃げるのではなく、私たちの目を神に向けるよう努め、教祖とともに私たち人間のそもそもの目的を思い返すようにしましょう。私たちが体験する一つ一つの出来事、私たちが出会う一人一人の人間は、私たちが(幸福に向かって)歩むべき道において歩みを進める為に、親神が私たちに与えてくださったもので、チャンスなのです。そして、忘れてはならないことは、神は私たちを介して、神自身がこの私たちの経験を共に生きているということです。そして、神の望みは、私たちとともに「喜びの人生」を生きる(味わう)ことなのです。

教祖のひながたが私たちに教えているのは、人生に待ち受けるさまざまな困難をいかにして乗り越えてゆくべきかということです。教祖の教えが私たちに教えているのは、いかにして幸せを私たちの人生に招き寄せればよいかということです。教祖の教えを実践すれば、私たちは今現在のこの生活からもう、その実りを得ることができるはずです。遠い先の将来まで、幸せがやってくるのを待ちわびなければならないということはありません。幸せはすぐに、今ここで掴むことができるのです。

さまざまな災禍や人間に特有の悲劇を脱するために、教祖は私たちにたすけづとめを教えるとともに、つとめの完成を急き込まれました。

「さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。」

私は、人生の歩みを進めれば進めるほど、つとめこそ人間特有の悲劇を解消する唯一の方法であるという確信をますます深めています。

『おふでさき』のおうたにはこうあります。

このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを (第二号9)

どのようにむつかしくよふみへたとて ようきつとめてみなたすけるで (第十二号61)

よく生きるために、また次のことも思い起こしましょう。教祖は人びとが苦しむことを望んではおられません。苦しむことはけっして立派なことではなく、苦しみはなんの報いももたらしません。逆に、苦しみとは神を悲しませるものです。

この点について、『教祖伝逸話篇』に次のような一つの逸話があります。

桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日は、どうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。

「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事をする事要らんのやで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや。」

(一六一「子供の楽しむのを」)

もう一つの大事なポイントは、親神は私たちを生まれついての自由な存在にお創りくださった、ということです。人間は己の心を自由に用いることができます。そしてこの心の自由によって人間は陽気ぐらしを体験することができるのです。ですから、神の歓びは私たちの自由の中にあるのであって、私たちが神に服従することにあるのではありません。次の神の言葉に示されている通りです。

「どうせこうせいとは難し事は言わん、言えん」(『おさしづ』明治二十二年二月十四日)

「こんものにむりにこいとハゆうでなし つきくるならばいつまでもよし」(第三号6)

私たちの親は、私たちに義務を課す事もなく、また何かを禁ずることもないのです。親が私たちをお創りくださったのは、私たちとともに「歓び」を味わうためなのです。そのために、親は私たちの魂に身体を貸してくださいました。かくして私たちは親において生き、この世界に存在しているのです。

今日、世界は多くの苦しみと、生きる目的を失った人びとにあふれています。教祖の言葉を耳にする幸運に恵まれた私たちは、「陽気遊山」という言葉が何を意味するのか、忘れないようにしたいものです。そして毎日の生活の中で「陽気遊山」を実践していきましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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