Tenrikyo Europe Centre

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2012年9月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一

ただ今は、9月の月次祭を勇んでつとめ終えることができ、たいへんありがたく結構な事と存じます。ご指名を頂きましたので、今からしばらくの間、お話をさせて頂きたいと存じます。

さて皆さん、今から10年近く前に話題になったアメリカ映画で『21グラム』という映画をご存知でしょうか。映画の内容はさておき、この映画のタイトルになった『21グラム』というのには、面白い話があるんです。

今から100年程前、1907年のことです。あるアメリカの医者が、人は死んだ時に体重が21グラム軽くなると、ある科学雑誌に発表したのだそうです。しかも動物の場合、死んでも体重は変わらなかったのに、人間の場合は21グラム軽くなったという話なんです。つまり、人間の身体から抜け出た魂の重さではないかと考えられた訳です。後になって、まったく科学的な信憑性はないとわかったのですが、現在でもときおり話題になっているようです。

魂に関する議論は古代エジプト時代にはすでに始まっていて、古今東西さまざまな議論がなされてきたようです。皆さんも今までに何度かは魂ってあるのかなと考えた事があるのではないでしょうか。それで、今日はこの人間の魂ということについてお話したいと思います。天理教の教義書には、魂に関する記述がほとんどありませんので、多分にわたしの個人的な悟りになります。その点あらかじめお断りをしておきたいと思います。今日の話をきっかけにして、皆さんが魂に関して、少しでも興味を持って下さるようになればうれしく思います。

天理教教祖直筆の和歌集があります。おふでさきと呼ばれる1711首からなる和歌集で、天理教の最も重要な教義書といわれるものです。その中につぎのようなお歌があります。

このよふのはぢまりだしハとろのうみ
そのなかよりもどちよばかりや四-122

このどぢよなにの事やとをもている
これにんけんのたねであるそや四−123

このものを神がひきあけくてしもて
だん/\しゆごふにんけんとなし四−124

天理教は人間創造について教える宗教だと言っても過言ではありません。当時、教祖がお話になった人間創造のお話に耳を傾けた人々は、代々農業を営み、教養や学歴の低い人々が主でした。教祖は、そんな人々が興味や関心をもち、しかも誰もが得心できるようなわかりやすい方法で、人間創造に関するお話を進め¬られました。その方法のひとつが、魚や水中に住む動物を話の中に取り入れることでした。

ドジョウという魚もその例えの一つと言うことができます。人間創造のとき、この世は混沌とした状態で、それを「泥の海」と表現されています。その泥の海に無数の「ドジョウ」がいた。その無数のドジョウを神様が皆食べてしまって、その性質を味わった上で、ドジョウを「人間の種」にして、人間を創造したと教えられたのです。何とも奇想天外なお話だと思いませんか。

天理教では、ドジョウを元に造られたこの「人間の種」が人間の魂にあたると考えられています。「種」は「元になるもの」であり、「核になるもの」ですから、魂は、人間の元になるものであり、人間の核になるものだと言うことができると思います。

それでは、どうしてドジョウが人間の魂の元になるのでしょうか。ドジョウという魚は通常、川や池や田んぼの中に生息しているそうですから、教祖のお話に耳を傾けた人々は当然よく知っていたと思われます。それだけに当時の人々は、なぜ?と不思議に思ったでしょうし、お話に興味を示したに違いありません。

皆さんはドジョウという魚をご存知ですか?身体はぬるぬるしています。身体がぬるぬるしていますので、泥水の中にいても身体に泥がこびりつくことがありません。それからドジョウは、泥水の中にいて泥といっしょに餌を飲み込みますが、泥は外に吐き出し、必要な養分となる餌だけを取り入れます。ですからドジョウの身は真っ白で、泥に汚されることはありません。

ここから魂に関する天理教の教えの大切なポイントを類推することができます。教祖は、しばしば泥水を人間の欲の世界に喩えておられます。端的な例として

よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくやみかぐらうた十下り目4)

という、つとめの歌を残されています。人間の世界は泥水のように欲にまみれた世界ではあるけれども、人間の魂は、そのような欲に汚されることのない、清らかで純粋なものであると、ドジョウの特性から象徴的に教えられているように思います。

さらには、そのような魂をもつ人間は、本来、罪や穢れのない善なる存在であることを教えられているのではないかと思います。教祖は、女性の生理について、「女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。」と教えられました。(教祖伝逸話編158番)天理教は、人間の体は全く罪や穢れのないものであると教えています。

また人間の魂の元が、ドジョウという魚、一種類だけであったということから、人間の魂は本質的にすべて同じであると言うことができます。現在世界には70億を超える人間がいますが、一国の大統領も一般市民も、大富豪も貧民も、男も女も、大人も子供も、人間は皆、同質の魂をもち、魂のレベルでは平等であると言うことができます。

おふでさきの中にも、

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい十三−45

とはっきりと教えられています。

「高山」というのは、社会の指導的な立場にいる人々のことを指しています。「谷底」というのは一般市民のことです。このお歌が書かれた明治時代、日本では富国強兵が国策となり、その実現のため王政復古を基本方針とした天皇の神格化が強く推し進められていました。そんな時代でしたから、人間は皆平等であるという考え方は国策に反するものとして、不敬罪という罪になりました。天理教の教祖はそのために、85歳を過ぎてから90歳までの間に、17,8度も警察や監獄署に留置されたのです。

さらに教祖は、おふでさきの中で

せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや十三−43

と歌われました。

神様は人間を産みおろした親ですから、人間は皆、親である神様の前では兄弟姉妹であると言うことができますが、人間の魂の起源が同一であると考えると、なお一層納得がいくように思います。

さて、もういちどドジョウの話に戻りたいと思います。泥海の中にいた無数のドジョウは人間創造の時、すでに存在していた生命だと考えることができます。つまり人間の魂は、神様がすでに創造し、そこに存在していた生命から造られたと言うことになります。このことは一体何を意味するのでしょうか。大変興味のあるところです。

最初に考えられることは、魂には始めから命があるということです。しかも、ドジョウだけが元になっていて、他のものが混じっていないことから、混じり気のない命という印象を受けます。言い換えれば命の固まりとでも言えるものです。体をもって生きている私たちは、命は体にあるように感じますが、実は、命の元は魂にあるのかもしれません。

次に、魂がすでにあった生命を受け継いだものであると考えると、魂は、当然その生命を維持し、それを明日につないでいく働きを持っていると考えることができると思います。人間の生命が、生まれて死ぬまで、過去、現在、未来へと切れることなく維持され、つながっていくのに、魂が大きな役割を果たしているのではないかと思います。

教祖は、「出直し」ということを教えられました。人間がこの世に誕生するとき、神様はそれぞれの魂に体を貸し与えられ、人間としての生命が始まります。そして人間が死ぬとき、魂はお借りした体を神様にお返しします。その後その魂は神様の懐に抱えられ、次に誕生するとき再び体をお借りしてこの世に生まれ替わってきます。教祖は、人間が死ぬことは、それで終わりではなく、ふたたび生まれ替わるための「出直し」であると教えられたのです。

また教祖は、「魂は生きどおし」と教えられています。天理教教典には、先ほどからお話をしている人間創造の内容がまとめて書かれています。そこには、最初に産みおろされた人間は全員が3度の生まれ替わりをした後、さらに8008回の生まれ替わりをしたと説明されています。そして次第に人間へと成人していったことが示されています。このように人間が生まれ替わりを続けながら、今日の人間にまで成人していくための中心的な役割を、生きどおしの魂が担ってきたという事ができます。

さて、天理教教典に書かれている人間創造のお話の中で、不思議に思う事があります。神様は、人間の体を造ったり、人間を産みおろす夫婦を造ったりするために、8つの道具をお使いになったと教えられています。しかし、人間の魂を造る話は一切ないのです。不思議な事だと思います。これはどういう意味なのでしょうか。わたしは次のように考えています。

人間創造は神様にとって前例のない大変むずかしい仕事であったと、教えられています。それは8つの道具をお使いになって、人間の体や人間を産みおろす夫婦を造られたことを指しているのではないかと思います。さらには同じ道具をお使いになって、人間の住まいとなる自然界を造られたことを指していると思われます。一方、人間の魂を造る話がないのは、魂が造られたのではなく、神様の分霊が魂として使われたからではないかと思うのです。魂が不死不滅な存在であるということは、魂が神様の分霊であると考えれば至極当然のことだと思います。

人間は神様を感じ、祈り、ご守護をお願いします。神様も人間にいろいろと語りかけます。それができるのは、魂が神様の分霊であり、魂を通して神様につながっているからではないかと思うのです。魂は神様がお鎮まりになる神聖な場所ではないかと思います。神様は常に人間の身体の中で働いておられると教えられますが、それも、魂にお鎮まりになっている神様がお働きになっていると考えると、よりわかりやすいように思います。魂の根源的な意味がここにあるように思います。そして人間の尊厳性も、魂に神様がお鎮まりになっていることがわかれば、誰にも納得がいくのではないかと思います。

さて、教祖は、魂の生まれ替わりに関して、かなり具体的に教えられています。名前をあげてどのように魂が生まれ替わりするかを示されましたが、注目すべき事は、起こる前にそれを予言された事です。いくつかの例をご紹介したいと思います。

天理教信仰の中心者を真柱と申します。現在の真柱様は4代目です。初代真柱様の出生に関する話が、天理教教祖伝に次のように書かれています。(第4章)おはるという方は、教祖の娘です。

『同年(1865年)、おはるが懐妊(みごも)った。教祖は、「今度、おはるには、前川の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの真之亮やで。」と、懐妊中から、仰せられて居た。月みちて慶応2年(1866年)5月7日、案の定、玉のような丈夫な男の子が生まれた。教祖は男児安産の由を聞かれ、大そう喜ばれた。そして、「先に長男亀藏として生まれさせたが、長男のため親の思いが掛かって、貰い受ける事が出来なかったので、一旦迎い取り、今度は三男として同じ魂を生まれさせた。」と、お話し下された。』

このお話から、教祖の実の父親である前川半七正信氏が1840年に出直し、その魂が1854年に梶本亀藏氏として生まれ、さらに亀藏氏が1860年に出直して、1866年に初代真柱の梶本真之亮氏として生まれてきたということになります。出直しから生まれ替わりまでの年数は、それぞれ14年と6年となり、生まれ替わるのにそれほど長い年数が経っているのではない事がわかります。

おふでさきの中には、魂の生まれ替わりに関する歌がいくつもあります。先ほどお話しした初代真柱の奥様になる、たまえ様の出生に関しては、特に念入りに歌われています。たまえ様は教祖の長男秀司様の娘として1877年(明治10年)2月5日に生まれましたが、その魂は1870年(明治3年)3月15日に出直した、同じく秀司様の娘だったお秀様であることが明確に教えられています。出直しから生まれ替わりまで7年が経過していますが、こちらもそれほど長い年限ではないように思います。お秀様からたまえ様への生まれ替わりに関して、代表的な歌だけをご紹介します。

1869年(明治2年)に執筆された、おふでさき第1号60のお歌には、翌年のお秀様の出直しが予言されています。

このこ共二ねん三ねんしこもふと
ゆうていれども神のてはなれ一−60

1874年(明治7年)に執筆された、おふでさき第3号109のお歌には、出直したお秀様の魂を神様が抱きしめていることが示されています。

このものを四ねんいせんにむかいとり
神がだきしめこれがしよこや三−109

1875年(明治8年)に執筆された、おふでさき第7号には、お秀様がたまえ様として生まれ替わってくることが預言されています。

このたびのはらみているをうちなるわ
なんとをもふてまちているやら七−65

このもとハ六ねんいぜんに三月の
十五日よりむかいとりたで七−67

それからハいままて月日しっかりと
だきしめていたはやくみせたい七−68

なわたまへはやくみたいとをもうなら
月日をしえるてゑをしいかり七−72

その他、ご長男の秀司様が出直された時の様子が天理教教祖伝(第7章)に次のように書かれています。

教祖は、出直した秀司の額を撫でて、「可愛相に、早く帰っておいで。」と長年の労苦を犒われた。そして、座に返られると、秀司に代わって、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれているで、古着を脱ぎ捨てたまでやで。」と仰せられた。』

それから教祖伝逸話編48には、上田ナライト氏が14歳で病気になり教祖にお目にかかったときのことが書かれています。教祖は、「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」とおっしゃったそうです。

ここまで、魂に関していろいろとお話をしてきましたが、魂は人間存在の本質であり、魂を抜きにして人間を考える事はできないのではないかと思います。

仏陀は、人間には解決できない4つの苦しみがあると言いました。それは、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことの4つです。しかし、今までお話してきたように、教祖の教えをひもとけば、これらの苦しみは全て氷解します。確かに出直しは悲しくてつらいものですが、魂の生まれ替わりは出直し後10年前後で行われていて、それほど長い時間ではありません。そう考えるだけで、わたしたちの心は明るくなり,人間には大きな希望が与えられます。

教祖は、神様がなぜ人間とこの世を創造されたか、大変簡潔に教えられています。
天理教教典(第3章)によれば、

「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」

と教えられています。

陽気ぐらしの生き方は、簡単に言えば、何を見てもうれしい、何を聞いてもありがたい、何を食べてもおいしい、どこへ行っても楽しい、誰と話してもおもしろいというような、楽しみ尽くめの生き方です。

教祖の教えには、魂の教え一つとってみても、人間に陽気ぐらしをさせてやりたいというお心がこもっています。

心に悩み、身体に病気、家庭に問題をかかえて困っておられる方は、ぜひこの教祖のお話に耳を傾けてみて下さい。必ずや明るい希望と解決の糸口を見つけることができると思います。

ご清聴ありがとうございました。

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