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2022年10月大祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

本日は10月の大祭ということで、これは天理教の立教であります10月26日という日を祈念してぢばでつとめられるおつとめであります。

立教は、1838年10月26日でありますが、何をもってこの日を立教とするかと言いますと、教祖親神様の思召しに沿われて「神のやしろ」になられた時点を立教としております。

教典には、

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。

家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。

とありますように、10月26日という日は教祖が「月日のやしろ」になられた日で、これが天理教の始まりということです。ということは、教祖の「神のやしろ」という点がとても大切であるということが分からわせていただくわけです。

では、神のやしろ、また月日のやしろとは、どういうことかと言いますと、一言でいえば、教祖のお身体に親神様の心が入り込んだということです。1838年10月26日の立教以来、教祖の行動やお言葉はすべて親神様のお心、お気持ちであるということです。そして、親神様は教祖の口を通して、人類の親として、子供である人間が真に救かる道をお説きくださったのであります。

おふでさきに、

いまなるの月日のをもう事なるわ
くちはにんけん心月日(おふでさき12号 67)

しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている(おふでさき12号 68)

また、同時に教祖は「ひながたの親」といわれるように、実際に人間の歩むべき手本を50年の長きにわたってお示し下されたのです。教祖は、月日のやしろとして世界の人々をたすけるために、口で説き、筆に記して教え導いてくださいましたが、それだけではなくて、私たち子供が通りやすいように、実行しやすいようにとの親心から、実際に先頭になって歩んで下さいました。私たちが日々実践するための生き方の手本を教えてくださったのです。

このように、教祖は「神のやしろ」として、また同時に私たちにとっては「ひながた」としてのお立場であります。

そして、もうひとつ立教に関連して忘れてはならないのは、最初の親神様のお言葉にあります「この屋敷にいんねんあり」というところです。この屋敷とは、もちろん教祖のお住まいになられていた中山家であり、その中山家のある場所を指しています。この場所が後にぢばとして教えてくださったところで、そこが、親神様が人間創造のときに、子供を宿し込まれた場所であり、世界に二つとない人類の故郷であると教えられました。さらには、このぢば親神様がお鎮まりくださっており、そして、ぢばそのものに親神天理王命の神名を授けられました。また、人間創造の証拠としてかんろだいが据えられ、その周りを囲んでかぐらづとめがつとめられるところで、とても重要な意味を持つ場所であります。

このように親神様、教祖、そしてぢばはとても深いかかわりをもち、その理、働きはひとつであるといわれ、天理教の教理の基本、信仰の原点です。

さて、今日はこのぢばについてお話をさせていただきます。私たちは、ぢばにいくことを「おぢばがえり」と言い、人類の故郷であり、親神様がおられ、教祖が存命の理をもってお働き下さる場所へいくことに大きな意義を持っています。教祖は、助けを願って尋ねてくる人々に対して、「よう帰ってきた」とか、「待ってた」などという言葉で人々を迎えておられます。天理駅に降り立ちますと「ようこそおかえり」という看板がありますし、天理にお住いの方に会ったり、それぞれの詰所に着くと「おかえりなさい」という言葉で迎えてくださいます。こんなところは、おそらく世界中でどこにも見当たらないじゃないかと思います。まさしく、人類のふるさとということを実際に体現している場所だと実感しておりますし、おぢばがえりを体験した方は同じ思いであろうと思います。

世界には、聖地と呼ばれる場所がいくつもあります。ぢばを天理教の聖地、あるいは巡礼地と呼ぶ人もあります。

世界の聖地と言われる場所を紹介しますと、ユダヤ教は、ソロモン王がエルサレム神殿を建設し信仰の中心となっていましたが、その後全焼しその残った壁が、「嘆きの壁」として多くの信者が訪れて、聖地と言われています。

次にイスラム教は、メッカ、メディナ、エルサレムの三か所が聖地とされています。メッカはムハンマドの生誕地であり、メディナはムハンマドが埋葬されている場所、エルサレムは、ムハンマドが天使に連れられて聖天した場所という伝承から聖地となりました。

また、キリスト教も、エルサレムを聖地とし、イエスが教えを語り十字架にかけられ、そして復活した場所です。ご存知の通り、エルサレムは三つの宗教の聖地となっているため、それがもとで争いが起こる原因になっています。またカソリックでは、イエスの弟子ペトロが埋葬されたバチカンを聖地とし、またスペインのサンチアゴコンポステーラは、ヤコブが埋葬されている場所として聖地になっています。

一方、アジアに目を向けると、仏教には四つの聖地があると言われています。まず釈迦が誕生したルンビーニ、これはネパールです。またインドのブッダガヤは釈迦が悟りを開いた場所とされ、インドのサールナートは法を説いた場所、最後に、クシーナガラで入滅、いわゆる亡くなった場所として聖地と呼ばれています。

そのほかにも、聖地また巡礼地と呼ばれるところは世界中にいくつもあります。そして、これらの聖地とぢばは同じ意味を持つのかというと、全く違うと言えると思います。

さきほどご紹介した世界の宗教の聖地は、ほとんどが開祖や聖人などの誕生地であったり、また埋葬されている所、また何か奇跡が起こった場所などですが、おぢばは、親神様が人間を創造するとき、宿し込まれた場所であると教えていただいておりますから、その意味で、通常の聖地とは全くその性格は異なります。

おふでさきに、

にんげんをはじめだしたるやしきなり
そのいんねんであまくたりたで(四 56)

このよふをはじめだしたるやしきなり
にんげんはじめもとのおやなり(六 55)

とありますように、まさにここで人類が創めだされた訳ですから、教理の上で大変重要な地点であります。

私は教会に生まれ、今日まで天理教の信仰を続けてまいりました。そうした信仰生活の中で最も強くまた深く心に刻まれた信仰体験、感銘を受けたのは、この「おぢばがえり」なのではないかと思っています。

こどものころ、毎年夏の「こどもおぢばがえり」は私にとって一年で最大の行事であり、最も楽しみにしていた旅行でした。高校生になると、学生会でおぢばがえりをしたり、いろんな行事を通しておぢばがえりを体験し、それはどれもとても楽しみであり、またたくさんの友人ができる機会でもありました。こうして「おぢばがえり」は、自分の信仰には無くてはならないものになりました。そして、おやさとの風景はいつも心に強く残り、生きる上に大きな力になっていました。

これは、フランスに来てからもその思いは変わっていません。教祖の御教えを伝える時やはり一番に勧めるのは「おぢばがえり」です。こどもができないと悩んでおられた方が、おぢばがえりを契機にこどものお与えをいただかれたり、また、家族の病気を回復するご守護をいただいたり、人生の方向を見失った方がおぢばがえりをきっかけに立ち直った人もおられました。おぢばに帰って、かんろだいを目の前に、そして教祖の前に身を置くと、何もかも忘れて、そして、ただただ感謝の気持ちと安堵感で心が落ち着くと涙する人もいました。このように、人類の故郷であるおぢばには大きくて優しく包み込んでくれるものがあります。

今年の8月、三年ぶりのおぢばがえりをさせていただきました。コロナウイルスの影響で以前のように自由に往来することができませんでしたが、今回やっとおぢばがえりが叶いました。三年ぶりのおぢばでしたが、その光景は何も変わることがありませんでした。教祖に「ただいま帰ってきました。この二年数カ月は世界中でコロナ感染で多くの方が亡くなりました。そんななか私の家族や信者さんたちは無事に元気に今日を迎えることができました。本当にありがとうございました。」と、御礼を申し上げました。そして滞在中、参拝に行くたびに感じたのは、やはりこの場所が自分の心のふるさとであるということでした。そして、教祖に「よう帰ってきたな」とお声をかけていただいたように感じて、優しい空気に包み込まれ、自然と心が穏やかになっていくことを再認識いたしました。

一八七 ぢば一つに

明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」
と、お言葉を下された。

このようなお話があります。

ぢばに心を寄せる」ということは、具体的にはどういうことでしょうか。

さきほど、「親神教祖ぢばは同じ理であり、働きはひとつである」と申し上げましたが、このことから思案しますと、「ぢばに心を寄せる」ということは、私たちの日々の暮らしの中で、朝夕のおつとめを通して親神様に対して毎日のご守護に感謝申し上げ、また教祖のひながたに照らし合わせた通り方をさせていただく、すなわち人だすけを実行する、また人に喜んでいただける毎日を通るということ。そして、おぢばに帰らせていただいては、かぐらづとめを拝し、また教祖に感謝を申し上げ、あるいは辛い苦しいときは胸の内をご相談させていただく、このような信仰のあり方ではないだろうかと考えます。そして、ぢばに心を寄せていれば、大難は小難にご守護くださり何事にも流されない確かな人生になると、この逸話で教えていただいているのではないかと思います。

お陰様でコロナ感染の状況ももかなり改善され、今では誰でもおぢばがえりができるようになりました。しかし、フランスからでは時間もかかるし、費用もかかって決して簡単に帰ることはできませんが、教祖140年祭が2026年に勤められるというこの大切な時期に、是非ともおぢばがえりをしていただいて、教祖に「よう帰ってきたな」と喜んでいただけるよう、心をぢばに寄せて毎日を通っていただきたいとお願い申し上げます。

また、来年の6月から8月まで、5年ぶりに修養科フランス語クラスが開催されると聞いております。3か月という長い期間ですが、教祖のお膝元で学ぶこの修養科は、基本的な教理やお手ふりなどのおつとめを学びながら、陽気ぐらしを実践できる人へと成人する絶好の機会であり、自分の人生を見つめなおす機会にもなります。どうか、この機会に多くの人がこの修養科に入学していただきたいとお願いいたしまして、本日の神殿講話を終わらせていただきます。

ご清聴ありがとうございました。

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