Tenrikyo Europe Centre

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2020年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

皆様ご存じの通り、存命の教祖は、世界たすけを急ぐうえから、その25年の定命を縮めてお姿を隠されました。

そのご存命で絶えず私達をお導きくださっている教祖、中山みき様が、お隠れになった日、明治20年1月26日(1887年1月26日)に起因して勤められるのが、本日、みなさんと共につとめました1月の大祭となります。この大祭の意義とは、当時の信者に対しても、とにかく「おつとめ」をつとめるようにと促された教祖の「ひながた」最後の日々を、私達がもう一度思い起し、その限りない親心を感じること。そしてそこから湧き上る感謝の気持ちから、自らも他の人々に、教祖のように惜しみ無く何事も与えることができる人となる努力をこれからも続ける決意を新たにすることだと教えていただいております。

つまり、本日、まずは自らの心遣いを振返り、日頃から他者の事を思いやる気持ちが持てているか、また自分の事だけでなく、身近な方々のためにどれくらいの時間を親神様、教祖への真実の祈りに捧げているのかを自問することも大切だと思います。

もし、他人の事を思いやる気持ちが、出張所で言われるほどには、どうしてもなれないという人がおられるのであれば、そんな人は、無理だと放っておかずに、努力を続けると同時に、親神様,教祖に対しても、自分の心持ちが変わっていくようにお願いをしてくださるのが良いと思います。さらには、参拝する時には、必ずみかぐらうたを唱和すること。そしてそこに歌われている神様からのメッセージと自分の生活ぶり、また存命の教祖と今の自分自身との関係について、静かに思いを巡らすことも有益だと思います。

当ヨーロッパ出張所の重要な存在目的の一つに、我々ヨーロッパの信者が、おつとめ教祖が教えて下さった通りに人数を揃えてつとめるということが挙げられているのはお分かりかと思います。

月次祭では、奉仕者だけでなく参拝者も含めた私達の普段の心遣いと当日の心を親神様が受け取ってくださいます。ここでの祈りは、大袈裟かと思われるかも知れませんが、私的な事柄のみならず、家族、友人、地域、国、世界レベルにおいてまでも、平和な状況を生み出すことに寄与しているのです。

そのような大事なおつとめをつとめる時に大切なことは、まず、心を合わせること。心を合わせるということは、具体的には、芯となる人の動きに、他の方々が合わせるという意味になるかと思います。おつとめの芯は、座りづとめ、おてふりをつとめる6名のうち中央に位置する男性になります。その男性の動きを見ながら地方が歌い、地方のリズムに合わせて拍子木が叩かれ、拍子木のリズムに合わせて他の鳴物全てが奏でられるのです。

次に「勇み心」を持つということも、忘れてはならない大変重要な点であると思います。この場合の「勇み心」とは、私の個人的な解釈を申し上げれば、「身の回りに起こる全ての事に喜びを見出だし受け入れようとせんばかりの積極的な心」であり、また「教えの実行を通して、自らの精神性を高める努力を続けようとする心」とも言えるかと思っています。

今年9月20日に執行される出張所創立50周年記念祭では、成人目標にもあります通り、おつとめ奉仕者も参拝者も、みかぐらうたを全員でヨーロッパ中に響き渡る喜びの声で歌い上げたいと思いますし、どんな中にあっても教祖の導きを信じ、今後の更なる成人への積極的な努力を誓うおつとめとなる事を今から切に願っています。

話は変りますが、当出張所は、1970年7月22日に設立されました。管轄範囲はヨーロッパ全土と現在と変わらないものの、当時の名称は天理教パリ出張所でした。それが、当神殿が建てられた創立20周年にあたる1990年に、ヨーロッパ出張所と変更されました。

設立から50年経った現在、ヨーロッパ在住のようぼく数は、約500名、本部拠点がフランスと英国に2カ所あり、教会はフランス、ボルドーに1カ所。布教所はフランスに9カ所英国に3カ所、スペイン、ドイツに各2カ所。イタリア、オランダ、オーストリア、スイス、スロベニアには各1カ所ずつあり、全体で19カ所となっています。

これら布教所の設立年を見ると、過去10年の間に設立されたものが、4カ所、過去20年となると10カ所となり、全体数の約半数は2000年以降の設立ということが分かります。

今後も親神様のお手引きを頂き、自身の信仰生活をより充実するためにも、固い決心をもって布教所を開設なさる方が,この地にも寄り多く出てくるだろうと思います。

これまでの50年の間には、教祖の名代とも言える私達の信仰の芯であられる前真柱様、現真柱様が、当出張所を幾度となく訪れておられます。そして、その時に真柱という立場からお下げくださったご揮毫が、ヨーロッパ出張所には5点あります。これは、私達の信仰活動の指針となるもので、おふでさきの原本と同じように真柱様が、この場で墨と筆で書かれたお言葉です。

今から真柱様が当出張所にお掛けくださっているお心を時系列順に学ぶという意味からも、古い物から2点、ちょうどこの神殿に掲げてある前真柱様によるものを紹介し、共に思案させて頂きたいと思います。

一番古いものは、皆さんの左側に掲げてあります「素直」SU-NAOと発音する御言葉です。1987年に頂きました。フランス語では「ouvert et réceptif」という訳が掛けてあります。日本語ですと漢字二つで構成されている言葉です。最初の「素」という漢字だけだと、その意味は、「ありのまま。手を加えていない本質」。もう一方の「直」だけだと、「間に何もはさまないこと」という意味になります。

天理教教典には、次の文章の中に使われていました。

親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。」

このテキストのなかでの素直は、une grande simplicitéとフランス語訳されています。

また「素直」と聞いて、思い浮ぶのは「子供」ではないでしょうか。そうすると、みかぐらうたにあるお言葉、「三才心」が浮かびます。

みかぐらうたの一下り目に「三才心をおさめ」とあります。

「素直」にという言葉に関連するフランス語翻訳が3つでました。「ouvert et réceptif」「une simplicité」「cœur reste pur」です。直接的に「素直」という言葉ではありませんが、「素直」とは、「三才児の心のように澄んだ心」とも言えるのではないかと思うのです。

その心とは、陽気ぐらしができる心です。つまり、みかぐらうたの中でも、私達が親神様によって想像された時に持合せていた、ありのまま。手を加えていない人間の本質的な「心づかい」を例えて言われているのだと思います。

親の愛情をしっかり受けている素直な子供であれば、親から差出されたものへの反応として、自身の理性的な判断だけに従うのではなく、親と通い合わせている愛情からくる安心感が、大きな意味合いを持ち、安心して物事を受け入れることが可能となると思います。

「素直」とは間違っても、ただ自分の気持ちを押殺して、相手の意見に盲目的に従うという意味ではありません。

次に、皆さんの正面に掛けてあります「変わらんが誠」を見てみましょう。創立20周年の1990年に頂いたもので、明治24年4月27日のおさしづの中にも同じ言葉が見られます。

変わらんが誠、変わった分にはどうもならん。(M24.4.27)

一度決めた心は、途中で曲げたりすることなく、最後まで変わらず実行してこそ、誠の心と言うことができるのだという意味のお言葉です。ここでの「誠」とは、親神様の教えを真実として、先程のご揮毫、「素直さ」を持って、受け入れる心のありようとも解釈できると思います。

おふでさきには

どのよふなたすけするのもしんちつの
をやがいるからみなひきうける七号101

この事をこれをまことにをもうなら
まことしんぢつ心したいや七号102

心さいしんぢつすんだ事ならば
どんな事でもちがう事なし七号103

とあります。

先日、読みました「誠」についてのお話の中で、この意味の具体例のひとつとして、中山慶治先生は、教祖伝にある飯降伊蔵先生の入信日の場面を挙げておられましたので、ここに紹介致します。

妻、おさと様の産後の患いから、初めてお屋敷にたすけを願いに来られた飯降伊蔵先生に対して、教祖は「救けてやろ。救けてやるけれども、天理王命という神は初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ」とのお言葉を下さいます。

そして伊蔵先生は、そこで教えられた「親神様の真実」を伊蔵先生の「誠」すなわち「素直な心」で受けられ、おさと様も伊蔵先生同様の心で受止められた。その二人の心を受け取られた親神様のお働きによって、おさと様は全快の守護を頂かれました。まさに、「誠」の心があれば、親神様は、どんなたすけももたらすということの具体例といえるでしょう。

真柱様が、全ヨーロッパの信者の為に下さった最初の2つの御言葉「素直」と「変わらんが誠」は、信仰を歩むうえでの正に土台となるお言葉です。

私自身、毎日、この二つのご揮毫を目にする度に、否が応でも自分の心を謙虚な気持ちで、振返らせて頂ける本当にありがたいお言葉です。

どうぞ、本年9月20日には、できるだけ多くの方々と、これからの先々も、素直な気持ちでこの道を歩み、変わらない誠の心を親神様、教祖に捧げるおつとめがつとめさせて頂けるよう、皆様方にも変わらぬ努力をお願い致しまして、私の神殿講話を終わらせて頂きます。

ご静聴ありがとうございました。

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