Tenrikyo Europe Centre

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2012年8月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 篠田克典

去る7月26日から8月4日までの10日間、おぢばにてこどもおぢばがえりが開催され、世界中から約22万2700人が参加しました。私達も海外団ヨーロッパ隊として7月27、28日の二日間、フランス、イタリア、イギリスからの帰参者17名に日本在住者4名を加えて21人で参加してきました。
今回は子ども7人に対して、大人が14人という倍の数になりましたが、その半分は、自ら進んで「手伝いたい」と言って参加してくださった若い人達です。おかげで、参加した子ども達も2日間をとても楽しく無事に過ごすことができました。かつては世話取りをされる側だった人達が、今度は自ら世話取りをする側として参加してくれました。今回参加した子ども達もそんなお兄さんお姉さん達の姿を見て、いつかは同じように世話取りをする立場となってまた参加してくれたらと願ってやみません。
さて、こどもおぢばがえりでは、多くの催し物があり、またその設営や運営にものすごく大勢の人達が関わっています。また、期間中はいたる所にお茶所が設けられ、冷たく冷やされたお茶が無料で振る舞われています。その規模の大きさは実際にこの時期におぢばを訪れた方ならおわかりになると思いますが、かなりのもので、初めて訪れた人がよく驚くのが、これらの人手のほとんどがひのきしん者でまかなわれていることです。
ひのきしん」という行為は「ボランティア」とよく似たもののように解釈されることがありますが、ボランティアとの大きな違いは、根底に「神様への感謝」があることです。ひのきしんもボランティア活動も、たいていの場合、人様に喜んでもらいたいと思ってすることが多いでしょうが、ひのきしんとは、親神様の御守護に感謝をささげる自発的な行為だと教えていただいています。それは掃除であったりだれかのお手伝いであったり、何でも良いのですが、あくまでも「親神様への感謝」から生まれるものです。
こどもおぢばがえりというのは私も学生のときは毎年とても楽しみにしていました。中学生の時に少年ひのきしん隊に参加して、そのときのカウンセラーという立場の人達にあこがれ、自分もやってみたいと思い、それで高校、大学時代には少年ひのきしん隊のカウンセラーや係員という立場でこどもおぢばがえりに毎年参加していました。信仰のない知人からは、夏休みを使ってただ働きなんかしてと笑われることもありました。まさにその通りなのですが、そこにはほかでは得難い大きな喜びがあるのでした。こどもおぢばがえりに参加できる喜び、新しい友達ができる喜び、子ども達の笑顔を見る喜び、合宿生活をする中で子ども達が成長し、自分も成長できる喜び・・・そして、その喜びを仲間と分かち合い、親神様にお礼を申し上げるのです。

ところで、世界には、未だに紛争の絶えない地域もありますが、近年は国や人種に関係なく世界規模での助け合い活動がとても盛んになっているように思います。
昨年3月に日本で起きた東日本大震災でも、日本国内のみならず世界中で救援活動の輪が広がり、現在もそれは続いています。
教祖は「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」とおっしゃったそうです。
現代において、「やさしい心」を持つ人は、天理教を信仰しているいないに関わらず世界中にたくさんいます。それは皆さんも日頃からお感じになっていることと思います。
次に「人をたすける」ということですが、世の中には、困っている人に手を差し伸べる人はやはり数多くいます。フランスでも路上生活者に食べ物や住居を与えたり、国境なき医師団のような医療活動もあります。しかし、教祖のおっしゃっているのはそれよりさらに深く、元の神の存在を教えてたすけるということだと思います。目の前でお腹をすかして困っている人には長々と話を説いて聞かせるよりはパンを与える方が先だと思いますが、その上で根本的なたすかりを願うのが天理教の信仰者のあり方だということです。親神様は人間の陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思し召され、この世と人間をお創りくだされたこと、そして私達すべての人間は親神様を親とする兄弟であるということ、この体は自分のものではなく親神様から貸していただいているものであることなど、それが心底わかってくると心に喜びがわき、見える世界が変わってきます。
そして三つ目の「癖、性分をとる」ということですが、これがなかなかできなくて苦労している方が多いと思います。私もそうですが、人にはそれぞれ癖があり、やめようとしてもやめられない性分というのがあります。些細なことでもつい腹を立ててしまったり、人の言葉をつい悪く取ってしまいがちだったり、いろいろな癖や性分があるでしょう。ある意味、癖や性分があるからこそいろんな人がいて面白いとも言えますが、人を困らせるような癖、性分、例えばうそをついたり、すぐ暴力をふるったりとか、こういった癖、性分はない方がいいに決まっています。
人間は魂は生き通しで体を親神様からお借りして、何億年もの間、何度も生まれ変わりを繰り返しているうちに、いろいろな心遣いをしてきていますから、それらが少しずつ「」となって心に積もり重なっているのです。

天理教には「八つの」という教えがあります。ここヨーロッパ出張所でも平日の夕づとめ後にこの教えの説き分けを読んでいます。我が家でも毎日夕づとめの後に同じ物を読ませていただいていますが、その冒頭にはこのように説明されています。

人間の身体は、親神様からのかりもので、心だけが自分のものであります。身体をはじめ、身の周りの一切は銘々の心通りに御守護下さいます。
親神様の思召に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と仰せられます。ささいな「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分な御守護を頂けなくなります。そこで親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除に努めるとともに、人には「ほこり」を積まさぬよう心を配らねばなりません。
ほこりの心遣いを掃除する手掛かりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」という「八つのほこり」をお教え頂いています。

この中で、「ささいな『ほこり』の心遣いも積もり重なると、ついには十分な御守護を頂けなくなります。」とありますが、ここでいう「十分な御守護を頂けなくなる」とは具体的にどういうことでしょうか。それは健康な体でいられなくなることでもあり、身の周りや家族に大きな事情のもつれが起きることでもあり、さらには、何を見ても何を聞いても喜べなくなることだと思います。心に喜びが持てなくなるほど危険なことはありません。その人の性分によっては、何かの拍子に他人や自分自身を殺めたりすることにもなりかねません。最近喜べなくなってきたとか、思い通りにことが運ばなくなってきたともし感じている方がいらっしゃいましたら、気を付けてください。
人間は陽気ぐらしをするために親神様から心の自由を与えられていますが、ついつい自分中心の好き勝手な心の遣い方をしてしまいがちです。そのために毎日おつとめをして自分の胸の掃除をし、人にはほこりを積まさないように心を配ることが大切なのです。

人間の親である親神様は、子どもにあれもやりたいこれもやりたい、幸せにしてやりたいという気持ちでいっぱいだけれども、人間の心にほこりがいっぱい積もっているのでどうにもならないとおっしゃっています。
おふでさきに、

月日にハみな一れつハわが子なり
かハいゝばいをもていれとも

一れつハみなめへ/\のむねのうち
ほこりいゝばいつもりあるから

このほこりすきやかそふぢせん事に
月日いかほどをもふたるとて

月日よりこわきあふなきみちすじを
あんぢていれどめへ/\しらすに(八 60-63)

と教えられているとおりです。まったく申し訳ない限りです。

フランスからは、おぢばは地理的に遠いところにあります。飛行機に乗れば12時間ほどで日本に行ける時代ではありますが、やはり時間的にも金銭的にもそれほど簡単に都合のつく人は少ないと思います。
しかし、人類の魂のふるさとであるおぢばでは親神様教祖がいつも私達をお待ちくださっています。おぢばに帰ると、いつも喜びをいっぱい感じ、また、心が洗われるような気がいたします。
私も今度はいつおぢばに帰らせていただけるかわかりませんが、これからもこのフランスの地で自分より若い世代を育て、より多くの人達に信仰の喜びを伝え、そしてまた共におぢばに帰らせていただけたらと願っております。

ご清聴ありがとうございました。

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