Tenrikyo Europe Centre
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鎮西アムステル布教所長 三浦峰子
布教所の開所式にお話しをした事をパリでもお話し下さいと所長のご提案がありましたので、そのままではありますがお話しさせていただきます。
本日はお忙しいところ お越しいただいてありがとうございます。
昨年の12月25日に鎮西大教会長が書類申請を清書して下さって、鎮西アムステル布教所の設立の申請を御本部にいたしまして、12月28日に無事に受理されました。
そして本日1月26日の御本部春季大祭の日を合わせまして、鎮西アムステル布教所の開所式を執り行うことができました。
また本日はパリよりヨーロッパ出張所長谷川善久所長真理子夫人が御本部の理を持ってお越しになられました。
皆様本日は鎮西アムステル布教所の開所式に参列していただきましてありがとうございます。
鎮西オランダの歴史は1973年の常岡一郎花子ご夫婦の金婚式にヨーロッパ旅行をされた際にある日本人ガイドとのご縁から始まったもので、子供たちに日本語環境を与えたいとの事で女の子をお手伝いに欲しいとのお話がありました。
常岡宏先生は、該当者はいなかったけれど一つ返事で「お手伝出来る女の子を送る」事を承諾して、翌年の1974年から鎮西大教会海外女子青年派遣が始まりました。
この時に神戸オランダ領事館では女子青年派遣でお金ももらわないで手伝いにやることに不審がられたとの事でしたが、常岡先生が領事館の中に入ってみると以前ハワイ大学の入学手続きの時にお世話をしたTさんが、「常岡先生」と大きな声で近寄ってこられたとのことです。ハワイ大学卒業生の常岡先生にTさんが尊敬の念を抱いている姿を見ていて、更には長年領事館勤務をされていた方で大使から信頼を受けていたので、今後は女子青年のオランダ滞在ビザに関してはすぐハンコを押せるようにするとのお返事でした。
実はTさんがハワイ留学の際に乗船した船で偶然、柏原先生と一緒になられ、なんと6年半の大学生活を終えて帰る船の中でも柏原先生と一緒になられ、それがきっかけで今後良かったら英語を生かすために私の所に働きに来なさいと言われ天理教海外布教伝道部に勤務となりました。Tさんは柏原先生や飯降先生に英語の指導をされた方です。3年間の天理勤務の後に神戸オランダ領事館に事務方として誘われて就職した方でした。これは親神様のお導きの他にはありません。
また3代前の常岡一郎大教会長さまは「ご縁尊し」とよく言われ、空になる。没我になる。精も根もつくす。この真心が天地の真理に合致するからである。大自然のめぐみに守られるものは、なにものもこれを破ることは出来ない。と書かれています。
ここで少し、我が家の信仰について話させていただきます。
福岡県古賀町に住んでいた4代前の上野梅吉は子供の身上で入信、鎮西大教会の元の教会、元鎮分教会に土地・材木寄進をしました。明治20年頃梅吉が移籍して教会に入り、弟の角二郎がこの教えを広める為に、生涯軒なし布教として単独布教を行いました。最終的に単独布教先の鹿児島で出直しました。3代前の私の祖父にあたる弥作は、大教会創立後に鎮西大教会役員になりました。 私の叔母、父の妹にあたる 上野喜美代は緒方源二を婿養子にして鎮西大教会の会計事務をしていました。
昭和10年 父・繁之の学生時代の話です、父は天理外国語学校(今の天理大学朝鮮語学科)に入学する為に義理兄と養子縁組をして名字を松隈に変え天理外国語学校に入学し、芦津部内の分教会子弟として一れつ会のお世話になりました。
学校卒業後実家に帰る予定でしたが、2年後の1月2日に実家の食堂が火事になり兄弟3名が死傷し、実家も焼け落ちてしまい、実家の援助もなくなったので、学校をやめて教会から仕事に行き月給すべてお供えする青年勤めしておりました。
年祭の折に芦津大教会の会計を担当していた父の義理兄が大教会長様から自分の土地を売って本部のお供えにしたいとの意向を受けて行ったところ、役員会からの罷免を受けました。 大教会長様が御本部にお願いされて教会本部の土地建物をお借りしそれぞれの家で住むことになりまして、我家は鎮西大教会に戻りました。父の義理兄はおたすけをして行くところのない人を住み込み人として我家に連れてきました。その後私は現在の天理中学校近くの教会本部所有の個人宅で生を受けました。
私は1979年4月456期の修養科、大教会住込みを経て、10月に7人目の女子青年としてYさん宅に参りました。思っていた環境とはかなり違っておりましたが2年間の辛抱と思っておりましたら、日本の鎮西部内ではオランダの生活環境が、劣悪すぎるとの評判が出てしまい後任が決まらないとの事で結局1年半も伸びて3年半の任期となりました。
そのお蔭なのかどうかはわかりませんが、1981年ライデン国立民族博物館において遠州流茶道の若宗匠から茶道を始めてはとの声がかかりまして、素敵なお点前だったのでお稽古を始めたところ師範は三浦孝二さんでした。帰国後2年間大教会女子青年勤務勤めた後に、ご縁があって1985年3月に結婚に至りました。
1985年3月に常岡先生の援助で女子青年に憩いの場所として鎮西オランダ布教所を井出かおり所長として始め、その後松平康則所長、悦子所長が引き継がれていきました。全部で36人の女子青年が派遣されました。
主人三浦孝二も鎮西オランダ布教所の設立の役員として設立当初から協力いたしました。長年における布教所活動は更に大きくなり広大な敷地で、月次祭、ひのきしんデー、陽気ぐらし講座、バザー、北里さん夫婦による演奏会、お餅つき、元旦祭など多くの活動を進めてまいりました。また親切な方々とも縁ができてボホーベ家やネダーコルン家に良好な生活環境で女子青年の派遣が続きました。
2003年に大教会の借金の事情で布教所の売却が大教会役委員会議で決定して売却をされました。2004年オランダで正式に閉鎖手続が完了しました。2003年4月には長男義孝が天理教親里高校に入学しました。2005年にパリのヨーロッパ出張所の永尾所長から布教推進委員会にオブザーバーとして参加してはどうですかとの声を受けて参加しました。その年の9月22日に我家で陽気ぐらし講座を開催しました。講師は昔から親しくしている鎌田先生だったので、ご指導を仰ぎながら無事に終えることができました。布教推進委委員会のメンバーになり婦人会も発足されてメンバーとして参加して、その後、陽気ぐらし講座を2014年まで10回行い多くの講師がお見えになり、ヨーロッパ出張所の大きな援助で講師派遣を行って頂きました。 その後は2回海外部派遣講師の原稿を読むことにして英語はロブ・ネダーコルンさん日本語は私で交互に代読させていただきました。会場は北里家、ネダーコルン中山家、ニッケン上條家、ボーガース細江家が自主的に提供してくださいました。
2006年長男は天理大学入学その翌年次男孝裕が天理教校学園に入学しました。子供のおかげで主人三浦孝二も無事に別席を運び始めました。次男孝祐がおさづけの理をいただく前に急がないと一生次男に馬鹿にされるよと母娘の脅しがききまして、2009年11月15日におさづけの理を頂きました。長男は大学卒業後海外部に勤務して2014年4月にオランダに帰ってきました。同年本部主催のようぼくの集いをオランダで開催させていただきました。2015年9月27日長女真理子はご縁がありまして竹内勝仁君と結婚式をしました。イギリスのビザの手続きが難航しましたが、2016年10月に無事ロンドンに移住しました。おかげさまで娘を嫁にやる悲しさよりもようやく夫婦一緒になる事の喜びの方が大きくなりました。
また2016年の12月のヨーロッパ出張所の月次祭の前半のお手ふりに娘夫婦と地方は竹内父と皆でお勤めを勤める事ができました。反抗期の時期が過ぎて親子でお手ふりを務められることは、これは親神様に感謝の想いを伝えなければとの想いが強くなりました。
2016年9月末に日本に帰っていた時になぜ私はヨーロッパ布教推進委員会や婦人会などご本部の御用に参加しているんだろうと疑問に思って、また教友の谷口由利子さんの出直しもあったので、弟に色々聞いてもらいました。そういえば私がオランダにお嫁に行くときに常岡花子奥様が私と共について来て下さると信頼する祈祷師が話していた事を伝えたところ、1年365日、日本全国講演を行っていた常岡一郎先生のお世話と御本部の御用されていた花子奥様が付いてきてくださるならそれなりの御本部の理を頂けるのではないかと聞いて、なぜか心に収まる感じで納得を致しました。
1971年、私が14歳の頃に京都中心山荘に住み常岡一郎先生と花子奥様の家でおせち作りのお手伝いに行っておりました。両親の心の理の親である常岡一郎先生の中心の本を、日本全国に無料配布に車をだす父の義理兄に協力して、父は働きながら金銭援助を行ってきました、また自宅では1年の330日は信者さんが仕事の帰りに食物を持ち寄って食事をしながら親神様のお話をして、皆が帰るのはいつも深夜という日々でした。
主人の祖父も宗教は違いますが、子供を親戚に預け単独布教をされた方です。
不思議なことですが弟孝一主人孝二甥の孝三がおり123がそろっております。主人が足の痛みを覚えてしばらく2016年3月ごろより杖を使い初めまして、日本からの飛行機では電動カーで空港内移動することになり、12月16日から日本への出張には、長男義孝に同行して荷物持ちを頼みました。義孝が2年半ぶりにおぢばに帰るにあたり、ご迷惑をかけ来たお詫びと親神様へのお礼として、布教所設立の想いが湧いてきたので、詰所で布教所申請の手続きをしてくれませんかと息子に話を致しましたすぐにウンと答えましたが、今後自分が引き継ぐ重圧に考えているようでした。
12月13日の夜19時半に義孝の職場の居酒屋の排気口から突然火の手が上がり素早い消火のおかげで誰一人けがもすることもなく助かりました。14日に親神様が大難は小難小難は無難にお連れ下された事に感謝して、今一度布教所開設の話を義孝にしたところ今度は素直に返事をしてくれました。この日は長女真理子の誕生日でした。翌日主人に話したところ「びっくりポン」という感じではありましたが、快く承諾してくれました。
天理に23日について詰所で書類を頂いて早速下書きをしてもらい、その日の夜中に鎮西大教会長ご夫婦が車で到着する予定のところ、神殿当番に当たっておられたそうで何時もより早めに到着されました。翌日話をして書類を見て頂き、一部変更の必要があるとの事で大教会長が清書をして下さることになりました。25日本部に提出してくだされ、28日に受理されたとの事でした。今回書類を確認すると26日受理日と書かれていて、この日は23年前の父の出直した日だと気が付きまして、親の想いが更に感じることが出来ました。布教所申請は詰所主任南都中心分教会鎮西大教会とも「びっくりポン」状態でした。弟もどこからかお声がかかったのかと聞いてきましたが、どこからもありません小さなことは色々あったけど旬が来たので申請してもらいましたと話をすると納得してくれました。
時折天理教用語がわからずに受理されていたから次の許可が下りるのを待っておりましたら1月11日にパリからの留守電があったのでお電話をしてみると開所式はいつ行うのか教えてほしいとのことでした。私の勘違いで布教所の設立の許可を待っていると答えたらもう下りたとの事が判明したので開所式の日時の候補日は決めてあったので、1月26日の春季大祭日はいかがでしょうかと聞いたところ長谷川所長はちょうど日時が空いているので参拝にお越しになるとのお返事でありがたい限りでした。その日は次男の誕生日でした。
布教所の開所式に向けて家を片付けるにはどうしても男手が必要でしたが、義孝の職場が火事の修復で壁をはがしているのでしばらく自宅待機との事。今月の給料も全額ではないが出るとの事でした。親神様がお働き下さっていることを感謝してさっそく大掃除に取り掛かりました。友人と共に古いピアノを捨ててもらい新しい家具の上に神様をお移り頂いてようやく皆様にも参拝頂ける形が整いました。
他の方々に連絡不足で大教会から聞いたと言ってお祝いのラインを下さる方もいました。15日に常岡宏先生に連絡いたしました所、布教所開設に大変喜んでいただきまして、是非とも26日に行きたいけど準備が間に合わないとお話になられて相変わらずお元気なご様子でした。
私自身も長年体調を崩しておりまして病気は変わりませんが、毎日楽しく過ごすことが出来るようになりました。今後も無理せず身体を大事にして一歩々布教所活動を続けていきたいと思います。親神様から導かれたようにスムーズに布教所が開設することが出来ました。
布教所の開所式に長谷川所長が来られると聞き少し困っていましたが、所長と電話でお話をしている時に鎮西大教会長様にご相談をしてみては如何ですかとのアドバイスを受けて、早速に大教会にメールを送りました、もし返事が来なくてもそれも良いと考えておりましたが、1月18日に大教会長からお返事があり祭文を含め式次第など本当に細かく指示が書かれた物が届きました。お忙しいのに何にも分からない相手にこれ程までに書いてきて下さったので、心の準備は整いましたと早速お礼の返事を送りました。当日は所長のご指導を仰ぎながら無事執り行うことが出来ました。
布教所の月次祭の鳴物は拍子木と笛とチャンポンと琴と三味線だけですが、長谷川所長ご夫妻とオランダの教友の皆で12下りをつとめる事が出来ました。振り返ると女鳴物を入れてのおつとめは14年振りであまりにも長い年月が過ぎ去っていた事に本当に驚き、親神様にお詫びとお礼のおつとめ、月次祭を皆で助け合って続けていく事が一番大事なことだと痛感いたしました。
ご清聴ありがとうございました。