Tenrikyo Europe Centre

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2014年8月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

私は2001年に第6次青年会海外人材派遣の派遣生としてフランスに参りました。そして、天理教ヨーロッパ出張所、および天理日仏文化協会に着任いたしました。13年前の8月11日でした。本日は 2014年8月10日ですので、フランスへ参りまして、ちょうど13年間が過ぎたということになります。来仏以来13年間、この天理教ヨーロッパ出張所の月次祭、また各種行事を通じて、本当に多くのお道を信仰される方々にお会いししてきました。

この天理教ヨーロッパ出張所は、天理教教会本部の出先機関であることから、本部から来られた先生方とお会いする機会がたくさんあります。また、ヨーロッパでこの道を信仰される方々が一同に集う場として、フランスのみならず欧州諸国の方々とも親睦を深めることもできます。さらに、国際都市のパリにも近いことから、ヨーロッパのみならずお道を信仰する世界中の方々が行きかう所でもあります。

私たちは、世界中の人間は「一列兄弟」であると聞かせていただいておりますが、この天理教ヨーロッパ出張所は国籍や人種を超えてお互いが兄弟として実感できる最適の場ではないかと、私は思っています。しかし、多くの人が集まったというだけでは、お互いが兄弟であると感じられるわけではありません。本日は、お道でいう「兄弟」とは何かということについて、少々考えさせていただきたく思います。

実は、私は肉親の兄弟がおりません。兄弟のいない私が兄弟について語るのは少々抵抗があるのですが、皆さんは兄弟とは何かと聞かれると何と答えられますか。いろいろな答えがあるとは思いますが、まず兄弟とは同じ両親を持つ者同士と言えるのではないでしょうか。それぞれが同じ親を持っていることさえわかっていれば、会う度にお互い兄弟であるということをあえて確かめ合う必要はないと思いますが、いかがでしょうか。

今日お話しする兄弟は、肉親の兄弟のことではありませんが、同じ親を持つ者同士という点では同じです。もちろん、その親は親神であります。元の親、実の親とも言われますが、この世人間をおつくりくださった親、そして今もなお変わらぬご守護によりこの世人間をお守りくださる親、これが親神であります。

まず、「一列兄弟」という言葉が、どこから来たのかということついて確かめさせていただきたいと思います。

この言葉は、「おふでさき」の中にあります。親神は、おやさまを通して、私たちにその思し召しをお伝えくださいました。そして、おやさま直々に筆をとってお書きになったのが、この「おふでさき」です。この中に親神の思し召しが、1711首の和歌によって綴られています。

和歌というのは、五、七、五、七、七の音節で区切った31音からなる短い詩です。日本では古くから伝わるこの和歌で、自然の美しさや、人々の気持ちを表現し、後世に伝えてきました。ただし、この「おふでさき」の中の和歌は、親である親神から、子どもである人間に向けられた書であります。内容も自然への賛美や、人の気持ちではなく、子である人間に対する親の思い、警告、戒めなどが綴られています。また、お書きになったのは、おやさまでありますが、筆者は親神自身であり、1711首の和歌はすべて親神が一人称になっています。

この「おふでさき」の中では、親神は自らを「神」「月日」「親」という3つの名で称されています。その中の「神」と「親」という名を合わせて、私たちは普段「親神」とお呼びしています。

では、「一列兄弟」について書かれているところ、第13号の41から52までのお歌を日本語とフランス語で拝読させていただきます。この部分では、親神は「神」そして主に「月日」と称されています。

けふまでわどんなあくじとゆうたとて
わがみにしりたものハあるまい

この心神がしんぢつゆてきかす
みないちれつわしやんしてくれ

せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや

このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい

それよりもたん/\つかうどふぐわな
みな月日よりかしものなるぞ

それしらすみなにんけんの心でわ
なんどたかびくあるとをもふて

月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ
どふぞしいかりしよちさしたい

これさいかたしかにしよちしたならば
むほんのねへわきれてしまうに

月日よりしんぢつをもう高山の
たゝかいさいかをさめたるなら

このもよふどふしたならばをさまろふ
よふきづとめにでたる事なら

この心たれがゆうとハをもうなよ
月日の心ばかりなるぞや

Personne ne pouvait savoir jusqu'ici
comment les méfaits se reflètent en soi.

Dieu en vérité vous expliquera le cœur qui en est cause.
Sachez tous réfléchir là-dessus !

Les êtres de la terre entière sont tous frères.
Personne qui puisse être dit « étranger ».

Que personne n'en comprenne le principe,
là est la source du regret de Tsukihi !

Qu'ils vivent en haute montagne ou au fond de la vallée,
ils ont la même âme.

D'ailleurs, tous les instruments dont vous vous servez
sont des prêts de Tsukihi.

Mais dans votre ignorance d'homme,
vous avez des idées de haut et de bas.

Tsukihi voudrait vraiment faire reconnaître
cette vérité par le monde entier.

Il suffirait qu'elle soit reconnue parfaitement
pour que les racines de la zizanie soient extirpées.

Que Tsukihi voudrait donc voir s'apaiser
les conflits de la haute montagne !

Par quels moyens les apaiser ?
Si tout était disposé pour le Service de la Joie...

Ne vous demandez pas qui s'exprime ici.
C'est le cœur même de Tsukihi qui s'exprime.

親神の存在は、目には見えませんし、肌で感じることもできません。その存在は、この世界で、また私たちの体内で、どのようにお働きになっているか知ることによってのみ認識ことができます。「この世は神の体」、「身の内はなれて神はなし」とも教えられています。

親神は、人間の親としての存在を世界中の人に知らせ、人々が兄弟としての自覚に目覚め、おつとめをつとめることによって、世の争いを治めたいと申されております。

親神のご守護については、皆さんもよくご存じのことと思います。おやさまは、それぞれのご守護に神名を授け、わかりやすく私たちにお説きくださいました。今一度確認させていただきたいと思います。

くにとこたちのみこと…人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。
をもたりのみこと…人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。
くにさづちのみこと…人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。
月よみのみこと…人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。
くもよみのみこと…人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。
かしこねのみこと…人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。
たいしよく天のみこと…出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。
をふとのべのみこと…出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理。
いざなぎのみこと…男雛型・種の理。
いざなみのみこと…女雛型・苗代の理。

個人的な話で恐縮ですが、去る7月3日に三男が誕生いたしました。私は長男、次男、そして三男と、三度妻の出産に立ち合せていただきました。妻の立場からすれば、何の痛みも感じていない私には、出産の苦労は何もわからないだろうと言われるかもしれませんが、約5年ぶりに子を授かるという感動を味わうことができました。そして、改めて親神のご守護を目の前で感じさせていただくことができました。妻の体内から三男が引き出されたときの感動はまだ記憶に新しく、長男、次男のときもそうでしたが、私の人生でこれに勝る感激はありません。

先ほど読ませていただいた親神のご守護を初めて聞かせていただいたときは、まだ独身であり、私自身「男」であることから、やけに出産に関するご守護が多いという印象を持っていましたが、今となっては納得できます。

人間の親であるなら、人間がいつ、どこで、どのようにして生まれてきたのか詳しく教えることは、ある意味当然のことであり、逆にこのことが教えられなければ親とは言えないのではないでしょうか。

人間社会では、生まれてきた子の親は、私たち夫婦ということになります。しかし、親だからといって私たち夫婦が子をつくったということではありません。子をおつくりになったのは親神で、わたしたち夫婦は、親神からこの子を授かったということになります。

私たち夫婦がしたことは何かと申しますと、その子を授かるのに必要な手続きをしたということにすぎません。そして、親神は私たち夫婦にこの子を持つことをお許しくだされ、その子を育てるように託されたことになります。

もちろん、私たち自身もそのようにして、両親のもとに生まれてきたわけで、私たちは皆、親神によってこの世に生を受け、そのご守護によって、今もなお生きています。

親神がこの世人間をおつくりくださった」というと、遠い昔のことのように思われるかもしれませんが、この親神の人間を創造したときのご守護は、過去の1回限りのことではなく、今この瞬間もひと時も休むことなく繰り返されていいます。「今がこの世のはじまり」とも仰せられています。

さて、本日は兄弟ということについて考えさせていただいておりますが、実は、肉親の兄弟のいな私は、初めてこの教えを聞いたときは、兄弟であることがそんなに大切なことなのかという印象を持っていました。兄弟といってもお互い助け合って仲良く暮らしている人ばかりではないでしょうし、兄弟であることよりも、むしろ他人でいるほうがいいと思うこともあるのではないでしょうか。

また、人には好き嫌いというものがあり、好みも人によってそれぞれ違います。だれでも好きな人とそうでない人や、付き合いやすい人とそうでない人がいると思います。中にはこんな人と兄弟だなんてまっぴらごめんだ、想像したくもないという人もいるかもしれません。

なぜこのような感情を抱くのかというと、双方の間に介在する普遍的なもの、言い換えれば、共通の親の存在がなく、双方の利益や好みのみによってのみ結ばれているからではないでしょうか。人間同士がお互いに兄弟だ、姉妹だと言い合うだけでは、気の合う仲間作りにはいいかもしれませんが、親神を親とした兄弟の絆は築けません。利益や好みが一致しているときは、問題ないのですが、相反すると争いを招いてしまいます。

私たちが目指す兄弟とは、利害関係や好みが一致する仲間ではなく、親の存在を知り、その心に近づくことによって築かれる絆です。ですから、周囲が親に近づいていく中、自分一人が親の存在を無視していては、この絆は築けませんし、自分一人が親を慕うばかりで、周囲が親の存在に背を向けていても同じです。

本日この出張所にお越しの皆様方の中には、気の合う友人、同じ悩みを持つ人、同じ境遇にある人、長年辛苦をともにした人などいらっしゃると思います。また、初めて出張所に足を運ばれたとか、知人も友人もほとんどいないという人もいるかもしれません。

しかし、たとえ言葉は交わさなくても、それぞれが親を慕い、一歩一歩親の思し召しに近づこうと励んでいれば、自ずと兄弟の絆は深まり、この場に身を置き、ともにおつとめをつとめることによって、親に対する感謝の気持ちと、兄弟に囲まれた心の安らぎを共有できる至福の時間と空間を得ることができるのではないでしょうか。

年齢、社会的地位の違い、信仰の年限の長い、短いはあるでしょうが、親神を親と慕う兄弟であるということにおいては、夫婦も親子も同じあります。そして、夫婦、親子、肉親の兄弟、隣人へと親神の存在を知らせるためには、まず自分自身が親神の心に近づかなければなりません。

そして、この教えを先に聞かせていただいた者、つまり兄弟の中でも兄や姉として、周囲に親の存在を伝えていかなければならないと思います。また、親神はそのために私たちをこの道にお引き寄せくださっているのではないでしょうか。

ご存知の通り、約1年半後の2016年の1月26日には、天理教教会本部でおやさま130年祭がつとめられます。前回の年祭は2006年だったわけですが、今日お越しの皆様方の中には、2006年にはまだ親神の存在もその教えも全く知らなかったという方もいらっしゃると思います。

私自身は、自分で意識して迎える年祭はこれが2回目です。最近、10年前、20年前と今とを比べ、自分の心がどのくらい親神に近づいたか、もしかしたら、近づくどころか、遠くなっているのではないかなどと自問自答することがありますが、この旬に今一度自分の心の向きを正し、少しでも親のお心に近づけるように励みたいと思います。

今日ここにいらっしゃる皆様方におかれましても、より一層お励みいただき、またともに励まし合いながら、この天理教ヨーロッパ出張所に集う私たち兄弟の絆がさらに深められ、一人でも多くの方に親の存在を知ってもらい、親神を親とした兄弟の輪が広がることを願いつつ、本日の講話を終わらせていただきたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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