Tenrikyo Europe Centre

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2021年11月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

去る9月19日、まだコロナ禍の収まらない中ではありましたが、天理教ヨーロッパ出張所の51周年記念祭を皆様と一緒につとめさせていただくことができて、嬉しい限りでした。

個人的にはそろっておつとめをつとめられたことが本当に大きな喜びでした。おつとめは一人ででも、また複数でもつとめるもので、二つともに同じぐらい重要な意味があります。本日は、複数でつとめるおつとめの、とくにその実践方法について話したいと思います。

これからするお話は、おつとめ奉仕者だけではなく、参拝場で参拝する方々にも、どういう気持ちでおつとめに参拝すべきかという話になります。

むかしから、譜面を持って上段に上がってはいけないのかという話をよく耳にしてきました。個人的には譜面をもっていかない方がいいと考えています。これは音楽的な意味ではなく、精神的、宗教的な意味からそう考えられます。

まず、私たちは音楽や踊り、歌のプロではありません。技術的にミスなく演じることは、おつとめの第一の目的ではありません。音楽的に不愉快なおつとめが、必ずしも悪いおつとめということにはなりません。おつとめの原則を忘れてはいけません。おつとめで最も大事なことは、一手一つに親神様の人間創造の想い、つまり陽気ぐらしの想いに立ち返ることです。天理教教典にこうあります。

実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、(中略)親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、その守護を祈念するつとめである。

音楽と踊りは、そこにたどり着くための手段です。演奏がよければもちろん目的を達しやすくなります。しかしながら、演奏が完璧だからと言って、目的が達成できたとはなりません。「今日はいいおつとめでしたね」という言葉は、単純に演奏とお歌とておどりが上手でしたという意味であってはいけないのです。もし私たちの気持ちが音楽的、あるいは芸術的な側面にとらわれてしまった場合、陽気ぐらしという大きな目的を忘れることにもなりかねません。残念ながら私たちは目にし、耳にする手段にとらわれて、目に見えてこない目的を見失うこともあるのです。陽気ぐらしは、芸術的に完全な世界ではないのです。それは、どんな状況であっても、そこに集う人間が人だすけの精神で過ごす世界の事です。毎日の生活の中で、大変なことに出くわすと陽気ぐらしはしにくくなるでしょう。おつとめの演奏がひどいときには心も乱れやすいでしょうから、もちろんそうならないようにすべきです。しかし、先ほども申しましたように、音楽のプロではない私たちはミスをしてしまいますし、必ずしも上手とは言えません。あるいはもっと根本的なところで、音楽のセンスそのものがない人もいます。

私が修養科に行った時、本当に音楽に向いていない女性がいました。私の大教会では、修養科中毎日鳴り物の練習がありました。しかし、その女性はいつまでたっても拍子木と同じタイミングでちゃんぽんを叩くのです。私はまだ若かったこともあって、どうやってそれに合わしたらよいのか全く分かりませんでした。彼女はようぼくですが、おつとめには出さない方がいいのでしょうか。あるいは彼女の方からおつとめに出ないように申し出た方がいいのでしょうか。もちろん、そのようなことはないでしょう。この方と一緒に演奏するのは非常に大変ですが、やるしかないのです。しかし、どうやってつとめるのでしょうか。これはもうできる人自身が自分の役割をしっかりとつとめ、ひどい演奏の中にも心のハーモニーを奏でられるように努力するしかないのです。つまり、音楽的、芸術的な枠組みを超えて、自分を乗り越えていくことが求められるのです。これは心理的に非常に負担の大きいことです。音楽の話であれば、できない人には演奏させなければいいだけのことです。しかし、おつとめは精神世界の話です。できない人は最善を尽くし、できる人は心を完全に鎮めて、できない人とともに心の調和を紡いでいく、そこにおつとめの真髄があるはずです。

音楽が不調和であっても、心の調和を求めていかなければなりません。おつとめは、生活の縮図でもあります。現実社会でも、私たちには役割があります。他人と暮らすかぎりは、自分の役割を果たすとともに、役割の異なる人たちと生活を共にすることが求められます。他の人が自分の生活に都合のいいように役割をこなしてくれるとは限りません。そんな中談じ合って陽気にくらすよう教えられています。おつとめでも同じです。音楽が乱れることもありますが、そんな中も澄んだ情緒を醸し出せることが大切だと思います。そして必要なら談じ合えばいいのです。

おふでさき

だん/\と人ぢうそろふたそのゆへで
しんぢつをみてやくわりをするX-38

とあります。

おつとめの役割はその人の音楽性によってあたえられるものではありません。もし歌が上手なら地方にいけばいいのですが、精神世界では必ずしもそうなるとは限りません。歌がうまくても、心の成人次第で鳴り物をあてられることもあります。上手に弾けない鳴り物をあてられると落ち着かないでしょう。しかし、だからといって、おつとめが一手一つにつとめられないことはありません。

そこで、譜面についてです。もし一手一つになれるのなら、譜面を持っていてもいいじゃないかという話になります。理屈ではその通りなんですが、譜面を持たずに演奏することには、物質的なものをできるだけ避けるという意味もあります。おつとめは精神の営みです。譜面は、音が記号化され、物になっています。物質的なものに頼るかぎり、精神的な力は弱まってしまいます。おつとめでは、音楽を演奏するわけではないのです。音楽とおどりを手立てとして、精神の営みの一部を表現するのです。でも鳴り物も物質的なものじゃないかと言われるかもしれません。確かに鳴り物は物質です。だからこそ、これ以上おつとめにものを増やしてはいけないのです。譜面があった方が上手に演奏できるといっても、芸術的な側面が精神的な側面より重要視されてはいけないのです。おつとめの演奏は大切です。しかし、演奏そのものは二次的な意味で大切なのです。譜面は、おつとめの目的ではなく手段を強調しすぎています。譜面を見ていると、一番大切なものを見逃してしまうのです。すでに鳴り物で手足を使っています。ですから、目、とくに頭と心でおつとめの本質的な部分を見て、感じる必要があるのです。頭や心は、まわりの音に乱されるのではなく、全員で作り上げるおつとめに溶けこまなければならないのです。そういう意味もあって、鳴り物おてふり、歌の練習をつねづね繰り返して、周りの雰囲気、つまり他の人の作り出す音にすんなりと合わせられるように、自然に、まるで無意識に演奏しているかのようにできるところまで練習すべきなのです。

ご承知のように、私たち自身が子供に対してそうであるように、親神様は子供の成人を気長に待たれています。しかし子供である私たち自身は、親の忍耐にあぐらをかくことなく、努力を続けなければなりません。もうこの人生でこの鳴り物がうまくなることはないな、と思っても練習を続けないといけないのです。お道では生まれ変わりを教えているのですから、いま練習することで二、三回生まれ変わった後には見事な腕前で演奏できるかもしれないのです。いずれにせよ、この努力こそが私たちに求められていることです。教祖伝逸話編に有名な話があります。

「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。」(54心で弾け)

また同じ個所に

「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや。」

ともあります。

この二つのお話に共通するのは、稽古です。教祖は「稽古できてなければ心で弾け」と仰っているのであって「何にも準備してなくても譜面見て心で弾いたらええ」とは仰っていません。ですから稽古して練習することが大事で、ミスや下手な演奏はそういう条件付きの上で許されるのです。

とはいえ、ちょっとしたニュアンスも含めた方がいいとは思っています。みんなが譜面なしでできれば一番いいのですが、それぞれの成人の度合いは違います。何年も練習して上手な人もいれば、初心者もいて、そういう人たちが一緒におつとめをつとめます。いくらたくさん練習していても、譜面なしだと不安な人もいます。おつとめはとても心地よくつとめられるものなのに、そのおつとめで気持ちが乱れるのはよくありません。そういう場合に限っては譜面を見てもいいのではないかと思います。おつとめをつとめる心理状態は、決して軽く考えてはいけないと思います。しかしながら、それはいずれ克服すべき一段階です。おつとめに対する姿勢が変わってはいけません。練習もせずに譜面を見ておつとめをつとめようと思った時点で、教祖の想いには添わない、間違った方向でおつとめをつとめることになります。つまり、おつとめの本来の意味からは逆に遠のいてしまうことになります。

おふでさきには、音楽的・芸術的にすばらしい演奏をしてくれというお歌はなく、おつとめによって親神様と人間とで神人和楽の陽気世界を実現することが説かれています。そして、それによって世界たすけが実現されるのであって、そのたすけは身上や事情のたすかりもありますが、時を超えた心のたすかりも意味するのです。おつとめはその心のたすかりに本来の意味があるのです。その部分のおふでさきをご紹介して、本日の神殿講話を終えさせていただきたいと思います。

みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむるI-11

このつとめなんの事やとをもている
よろづたすけのもよふばかりをII-9

このたすけいまばかりとハをもうなよ
これまつたいのこふきなるぞやII-10

ご清聴ありがとうございました。

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