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2022年9月月次祭神殿講話

内子パリ布教所長夫人 松川こひな

このたび8月に3年半ぶりにおぢばに帰らせていただきましたが、久しぶりに親元に帰らせていただいたという安心感を味わせていただきました。

陽気ぐらし親神様にもたれ切り互いたすけ合うくらし。今回は神様にもたれるとはどういうことなのか、について考えさせていただきたいと思います。

今、世の中には子育てに関する情報があふれています。育児書やインターネットの子育て関連のページを見ていると、「子どものいい所を見つけてほめましょう」「子どもの興味や関心を尊重しましょう」など、なるほどと思う言葉が並んでいます。また、「子どもの人格を否定するような𠮟り方はしない」「他の子と比べない」などのNG集が紹介されていることもあります。こうした情報が子どもの健全な発達に役立つのなら、とてもいいことだと思います。

しかし、その一方で、これだけ情報があふれていると、育児書に書かれた正しい子育てが出来ていないことで不安が募り、問題を解決しようと、焦る気持ちが出てしまうことがあるかもしれません。けれどもそんなときほど、一息ついて気持ちを落ち着かせていくことが大切だと思います。なぜなら、一つの問題にとらわれると、かえってそれが大きくなることがあるからです。

例えば私たちは日常生活において、さまざまな心配ごとを抱えたり、いらだちを覚えたりすることがありますが、それを何とかしようと、もがけばもがくほど、かえって不安や怒りが増してくることがあります。そもそも、心配、不安、恐怖、悲しみ、焦り、怒りなどを感じない人生なんてあり得るでしょうか?こうした感情はあって当然なのです。だからこそ、私たちはそうした不快な感情に振り回されないように、それらの上手な抱え方を学ぶ必要があります。この点に関する理解を深めるには、乳幼時期の心の発達がとても重要であると、ある心理学の先生が仰っています。

例えば、小さな子どもが転んで泣いているときには、傍らに寄り添いながら「痛かったねえ。おお、よしよし。大丈夫だよー。」などと、優しい言葉をかけてあげますよね。この何気ないやり取りですが、これは心の発達においてとても大切なことです。「痛い、怖い」と、不快な気持ちが生じたときに、それを「痛くない、怖がるな」と、否定されるのではなく、「痛かったねえ」と、優しく抱えてもらうことで、私は守られている、大丈夫だという安心、安全な感覚が生まれます。そうした体験を重ねることで、やがて私たちは自分の中の不快な感情に振り回されず、上手に抱えることができるようになるのです。これは大人でも基本的には同じです。

人は「自分は守られている、これからも大丈夫だ、きっとうまくいく」と、安心感を抱きながら人生を歩むためには、「大丈夫だよ」と、やさしく抱えてもらう体験が必要です。ですから、焦る気持ちや心配ごとが生じてきたときには、まず自分自身に「大丈夫だよ、落ち着いて」と、やさしく声をかけてください。気持ちが落ち着く言葉は人によって違うでしょうから、自分の心がやすらぐおまじないの言葉を決めておくのもいいと思います。心が落ち着く場所や安心感が得られる人の顔を思い浮かべるのもお勧めです。

そして、可能な状況ならば、この人と一緒にいると安心するなと思う人に話を聞いてもらい、不安な気持ちをやさしく抱えてもらえばいいでしょう。そして、親自身が安定してくると、子どもをやさしく抱えてあげることができるようになります。そうした親子の関係が子どもの発達にとって大切なことであると言われています。親にやさしく抱えられて育った子どもは、やがてその子どもが大きくなった時に、またその子どもをやさしく抱えてあげることができるようになります。

みかぐらうたに、

ふじゆうなきよにしてやろう
かみのこころにもたれつけ(九下り目 二つ)

とありますように、もたれるとは、そのままを100パーセント信頼することを意味します。神の心にもたれ切れば、何不自由なく守護すると教えられます。それは具体的にどういうことなのでしょうか?思案する前に、教祖のひながたをひもといてみましょう。

逸話編34「月日許した」

明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。

「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで。」

教祖が「ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。」と仰せられているように、教祖が一番お伝えになりたかったことは、親神様こそが人間創造の元なる親であり、この屋敷こそが、その元なる場所であるということです。

その証拠としてお許しくださったのが「をびや許し」ですから、親神様のご存在とお働きを信じてもたれ切ることが求められるのです。

ここで、私が体験したことを少しお話しさせていただこうと思います。今から23年前、私が主人との結婚を決めるときに体験させてもらった時のことです。

主人とはお見合い結婚だったため、お見合いをしてから数回しか会っておらず、結婚してもいいものかどうか迷っていました。ある朝、本部の朝づとめ参拝後、教祖殿に行かせていただいた折、とても不安の中、教祖に心の底から、「どうしたらいいですか?」と尋ねさせてもらいました。すると、「大丈夫‼」と声が聞こえ、言い表しようのない安心感、安定感、安らぎの気持ちにならせていただき、結婚しても大丈夫だと確信させていただくことができました。海外など行ったこともなく、結婚したらすぐにフランスに行くことが決まっていたので、その出来事がなかったら、大丈夫と心が安定することもなかったかもしれません。

みかぐらうた、三下り目七つに、

なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする

とあり、何が何でもこれからはただ一すじに親神様にもたれ、思召しに沿いきって身も心も委ねて通らせていただきます。一すじ心、神にもたれる心の反対は、いわば人間思案をあれこれ巡らせ、自分の知恵、力に頼っている姿、我を張っている姿です。

また、

五つ いつもたすけがせくからに
はやくやうきになりてこい(四下り目)

と仰り、たすかってから陽気になるのではなく、教祖は一日も早くたすけてやりたい、だから早く陽気になりなさい。どういう状況の中でも、しっかりと喜び心を持ちなさい、と仰せ下さっています。

七つ なにかよろずのたすけあい
むねのうちよりしあんせよ(四下り目)

人間たちが何かにつけ、万事、たすけ合うことが親神の望みである。このことを心の底からよく思案するように、と仰せられ、おふでさきにも

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら(十二 93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ(十二 94)

と仰せになり、親神様の子どもである人間たちが、万事につけてたすけ合う世の中を切にお望みになっています。

また、十下り目 四つ、

よくにきりないどろみづや
こころすみきれごくらくや(十下り目 四つ)

おふでさきに、

心さいすきやかすんだ事ならば
どんな事でもたのしみばかり(十四 50)

と仰せられるように、陽気ぐらしは心をすます生き方でもある、と記されています。心をすます生き方は、心のほこりを積まないことを心掛けることと、知らず知らずのうちに積んでしまったほこりを払うという努力を怠らないことです。

教典第十章「陽気ぐらし

たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。

お互い様に親神様がお望み下さる陽気ぐらしを目指して、神様にもたれ切り、日々心をすみ切らす努力と、互いたすけ合うおたすけの精神をもって、日々のくらしを勇んで通らせていただきたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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