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2017年5月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

天理教には、三つの原典と呼ばれる書物があります。皆様もよくご存知のことと思いますが、「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」です。今日は、そのなかで、特におふでさきについてお話をさせていただきたいと思います。

おふでさき」とは、教祖が自ら筆を執られ親神様の思いを書かれたもので、天理教教義の最も大切な骨子が記されたものであります。全17号に分かれ、1711首が和歌の形で集録されているものです。明治2(1869)年から15(1882)年までの13年という長い歳月を経て書かれたと言われております。教祖伝逸話篇には、「おふでさき」ご執筆の様子が残されていますので、それを紹介いたします。

22 おふでさき御執筆

教祖は、おふでさきについて、

「、、、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』 と、仰っしゃりました。 七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら 手がしびれて、動かんようになりました。」

と、仰せられているとおり、親神様の天啓によって書かれたものなのです。決して、教祖ご自身が考えて書かれたものではなく、親神様のこころのままに記されたものです。

そして、おふでさきとはどのようなものなのか、ということについて、そのことがおふでさきのなかに記されています。

このよふハりいでせめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ(1-21)

せめるとててざしするでハないほどに
くちでもゆハんふでさきのせめ(1-22)

この世の全ては、親神様の理詰めの世界である。その意味合いを歌で知らせる。手ではなく、また口でもない、筆に記して、親神の世界を知らせようとするものである。

実際に、このおふでさきを拝読することによって、私達は親神様の人類創造の深い思召やその具体的なプロセスを学び、そして、おつとめについての親神様の神意に触れ、さらには親神の守護を知り、私達の生き方の心遣いに至るまで学ぶことができるもので、私達の信仰の一番の拠り所であるものと位置づけることができると思います。

おふでさきご執筆が始まった当時の教祖の状況は、おびや許しが道明けとなり、人々が教祖の元に集まり、徐々におつとめを教え始められました。その後、人々にさづけを渡され、ついにはつとめ場所が出来上がり、お屋敷は多くの人がお参りに来るようになりました。と、同時に、寺社からの攻撃も始まりました。そして、教祖は、初めて断食をされています。教祖に対する反対攻撃が厳しくなり始めた頃に、おふでさきのご執筆が始まったわけです。また、おふでさきは、13年かけて書かれたものですが、これが正式に今のようにひとつの形にまとまって発行されたのは、昭和3年、1928年です。実に書き終えられてから、46年間は発行できなかったのです。どうして、発行までにこんなにも時間がったのかといいますと、公的にはおふでさきは紛失したことになっていたからです。というのも、当時の先生方は、おふでさきを手描きで書き写していたのですが、ある時、その様子をみた警官が、おふでさきを持って警察へ出頭するように申し付けました。しかし、この時に、おふでさきが没収されては大変なことになると恐れて、焼き捨てたと申し入れたため公式には存在しないとされた歴史があります。それほどまでに当時の先生方はこのおふでさきを教えの根幹として非常に神経をつかって慎重に、大切に扱っていたのであります。

では、これからおふでさきの内容を見てみたいと思うのですが、今日は第1号の最初の所、立教の意義について、さらにはそのときの親神様の思召について学んでいきたいと思います。

おふでさきの第1号の1から8までのお歌は、ここに掲げられている「みかぐらうた」の「よろづよ八首」とほぼ同じです。少し言葉が違っていますが、「よろづよ八首」の元になっているのは、おふでさきのこの冒頭の8つのお歌です。

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから(1-1)

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや(1-2)

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする(1-3)

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい(1-4)

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる(1-5)

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん(1-6)

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる(1-7)

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて(1-8)

冒頭のお歌は、「この世が始まった時から今日に至るまでの時間、そして世界中という場所をご覧になって、これまで誰一人も親神の思いを分かっているものはいない。」と、嘆かれ、残念な思いを述べておられると同時に、続いて、「それは当然のことで、これまで教えたことがないのだから、わからないのは不思議ではない」と仰せになり人々の様子を認めておられます。そして、親神様の視点が世界中の人に向けられていることと同時に、人類の親としてのその壮大な真意についても、強く感じられるのであります。

そして、3番目のお歌では「このたびはかみがおもてへあらわれて」、いわゆる天保9(1838)年10月26日、親神様が教祖をやしろとしてこの世に初めて現れられた、ということです。そして、「なにかいさい」で詳しく細かく、全てのことを教えると仰せになりました。この最初の3首が立教に至る親神様のお心を記された非常に大切なお言葉であると思います。

この歌が書かれたのは、明治2年(1869)ですから、立教から数えて32年目になります。当時の方がたは立教についての親神様の本来の意味をまだ明確にはご理解できていなかったと思いますが、このお歌を通してその点を明確に示していただいているのだと思います。

続いて、「このところやまとのぢばのかみかた」と、大和のぢば、神様のおられる場所という意味です。そして「ゆうていれどももとしらぬ」、神様のおられるところ(ぢば)であるということは知っているだろうけども、その元、理由については知らいないであろうと仰っていられます。これは、そのときすでにおつとめのお言葉に「ぢば」ということを教えておられたのですが、「ぢば定め」はまだ後の出来事ですから、当時の人々には理解できていなかったということを仰せになっていると思われます。そして、次のお歌「このもとをくわしくきいたことならば」と、その元のこと、すなわちこの世、人間の創造について詳しく聞いたならば、「いかなものでもこいしなる」と、「ぢば」という場所が全人類のふるさとであり、そこを恋しく慕う気持ちになると仰っておられます。すでにおぢばに帰った人には、このお言葉の意味がとても良くわかっていただけると思いますが、自分の親のいるところ、また自分が生まれた所は、いくつになっても懐かしく、心が穏やかになるものです。その気持ちと「ぢば」は同じなんだと教えてくださっています。

そして、6番目のお歌では、「きゝたくバたつねくるならゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん」この元のことを聞きたいと来るならば、万事の細部に至るまで根本の由来を教えると言っていただいております。実際、おふでさきには、元始まりのお話がとても詳しく述べられ、また親神様の十全のご守護、ほこりの心についても、詳しく教えていただいております。

7番目のお歌では、「かみがでてなにかいさいをとくならバせかい一れつ心いさむる 」と、親神がお教祖を通してこの世に現れ、どんなことも詳しく話しをすれば、世界中の人の心が皆勇みたってくるのである。言い換えますと、みんなの心が勇み、喜びに満ち溢れ、陽気になってくると教えて下さいます。

最後には、「いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかゝりて」と、 親神は世界の人を等しくたすけたいと、急いでいるお気持ちを表現されており、そして、そのために皆の心を勇ませるんだと仰せになっています。親神の思いを早く知らせ、人々を陽気な勇んだ心に立て替えることを教えてくださっています。

おふでさきのこの最初の8つのお言葉から、親神様の思召がはっきりと読み取れます。

最初に、親神様のこの世、人間創造の思いを知らせる、そして次に、皆がおぢばを恋しく思う。そうすると、心が勇んでくる。という順序でもって、陽気な世界が出来てくると仰せになっております。

そして、これこそが人がたすかっていく順序とも悟ることがきでます。そして、そこで何よりも大切なことは、元を知り、そして勇んだ心にならなければたすからない、ということです。明るい心で喜びいっぱいに日々を通ることが、大切なんだと教えていただいていると思います。

「勇んだ心」、皆さんは常にその心になれているでしょうか。自分自身を振りかえってみると、毎日の暮らしの中で、自分に都合が悪いことが起きた時も、勇んだ心を持つことはとても難しいと言わざるを得ません。それは、やはり自分が一番可愛い、大切だからであります。自分の都合に良くないから喜べないのです。こんな心遣いでは、親神様に勇んでいただくことはできません。それをほこりの心と教えていただいております。いつ、どんな時でも、勇んだ心で通らせていただきたいと思います。そんなとき、自分の心の状態を見つめるためには、毎日のおつとめをつとめるなかに、親神様への日々の感謝と、そして自分自身の心遣いの反省と、ほこりを払う努力をし、常に喜びの心を持つことなのです。

天理教の信仰は、どんな時でも勇むことが第一歩です。そして、親神様の真意を聞かせていただいて、感謝の気持ちが勇む心になってきます。さらに、おつとめを勤めることによって一層勇ませていただくのです。

親神様は、こうして、世界の人々が勇んだ心で陽気ぐらしへの道を歩むことを教えてくださっています。そして、おふでさきの次のお歌では、

だん/\と心いさんてくるならバ
せかいよのなかところはんじよ(1-9)

というように、私達一人ひとりが勇んだ心で通るならば、有難いご守護をくださると、お約束されているのです。

本日は、おふでさきの冒頭の8首のお歌に込められた、立教の意義と、そこにあふれる親神様の深い思召について述べましたが、私達、信仰者は日々親神様の思召を尋ねて、「おふでさき」に親しんで、一層の勇んだ毎日を通らせていただきたいものでございます。

ご清聴ありがとうございました。

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