Tenrikyo Europe Centre

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2020年12月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

コロナ感染規制により、この神殿には20名足らずではありましたが、インターネットを通じてご参拝くださいました各地の方々のことも思いながら、本年最後の月次祭を勇んで感謝の心のうちに、勤めるあげることができました。ありがとうございました。

今月のこの時間は、本来であれば英国連絡所代表のパターソン・サイモン先生にお越しいただき、神殿講話を頂戴する予定でしたが、コロナ禍により状況が許しませんでしたので、代わりに私の話を少しのあいだお聞きいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

はじめに、皆様方におかれましては、ご自身のお仕事、様々な拘束があるにも関わらず、本年も、ヨーロッパ出張所の御用の上に真実のお力添えを頂き、誠にありがとうございました。深く御礼を申し上げます。

さて、新型コロナウイルスが広がりはじめた3月から10ヶ月以上経た現在、12月に入ってもウイルスの脅威が、未だに世界各地で続いています。各国の教友の皆さんにおかれても、個人に求められている状況改善への責任ある行動に加えて、信仰者として早期の感染拡大終息を日頃より親神様にお願しておられることだと思います。実際、幸いな事に、ワクチンの開発、完成が当初の予想以上に早まったことにより、これから徐々に、事態の収束が見えてくるのではないかと期待しているところです。

本年、当出張所と英国連絡所の創立記念祭を9月と5月に執行する予定であったものも来年に延期せざるを得なくなりました。この延期については、教友のみなさん、それぞれ思案するところがあろうかとも思いますが、延期を決定するにあたり、海外部中田課長からおっしゃっていただいた言葉は、「記念祭までの時間を一年延ばすことの意味は、今年の記念祭で教祖にごらんいただけたであろう、各教友が努力してきた心の成人レベルを、来年の執行となったからには、さらにより高くすることです。」というものでした。各自が、まだ時間があるからといって気を緩めることなく進むことが求められているのです。

その意味から、今日ここでは、出張所創立50年記念祭にむけた全教友の成人目標の軸とる「おつとめ」に関連して、「みかぐらうた」を取上げてみたいと思います。「みかぐらうた」は、ご存じの通り、そのことばの発話者として、神様と人間からの発話が混ざり合っており、歌っていると親神様と直に会話をしているような気持ちにさえなることがあるものです。

今日は、その沢山あるお言葉のなかから、私が個人的に信仰を歩むなかで非常に大切だと思っている箇所を紹介したいと思います。

その箇所とは、信仰の基本となる心の問題。心遣いや信仰の在り方を諭しているもので、五下り目の4つから6つの3首にあたります。

四ツ よくのないものなけれども かみのまへにハよくはない

まず、冒頭の欲は、八つのすべてを含めた神様が戒めている心遣いの代表とも捉えることができ、いかなるを持ったものであっても、心の汚れを洗いきる親神様を前にすれば、そのは消えると教えてくださっています。神を前にすればというのは、具体的には、教えを守って生きる中、神様にもたれた人助けの道中、またおつとめを真剣につとめる中とも言えるでしょう。

また、個人的には、この部分の「欲」という語は、「悪い因縁」とも言い換えることができるのでは無いかと思っています。私達のなかに悪い因縁の無い者はないけれど、それでも教えを守って、真実で祈る者からは、親神が、その不幸になる種を消し去ってくださるのです。一言でいうと、因縁を払い幸せになりたければ、親神様に心身ともに正面から向き合うことが大切だと教えて下さっています。

五ツ いつまでしん/\したとても やうきづくめであるほどに

おふでさきにはこの首では、公式のフランス語翻訳とは少しニュアンスの違った解釈をしております。それは、「信心とは、ただ単に年限や形ばかりの道ではなく、この道は、常に陽気ずくめで通ることが大切である」というものです。

ある先生の解釈も同様で、その本には以下のようにありました。「この道を信心させていただいている以上は、場所、時、形は、なんであっても、心に結構と味わわせていただくとき、ここにこそ陽気がある。これがこの道の信心の生活である」

二つの解釈が可能だと思いますが、以下のおふでさきのお歌に

せかいぢうどこの人でもをなぢ事
いつむばかりの心なれとも十四号 23

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ十四号 24

とあるように、信仰に迷い、勇めない時も多い私などは、後者の解釈、つまりこの信仰は形では無く、とにかく、心を陽気づくめにして通ることが正しい道」という意味の方が印象深いといえます。 そしてこの解釈をさらに発展させると、「陽気に通っていない道は、どれだけ長年信仰したといっても意味をなさない」となることからも、普段から勇めない時には、とにかくなんとか心の向きを陽気さへと向かわせるよう意識することにしています。その結果、すぐにとはいかなくても、気がつけば、気持ちも晴れていたということも多々経験していますので、私の信仰生活にとって非情に大事な一首です。次に

六ツ むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい

この「むごい」「やさしい」は、おふでさきには、無い表現です。

むごいこころとは、この部分のおてふりの手の動きからもわかるように、弱い者を上から押え付けるような非道な心で、広義には、利己主義な心です。これを徹底的に忘れて、教祖のお心である人を包み込むようなやさしい、思いやりのある心へ切替えることの重要さが説かれています。

また平野知一(ひらのともかず)先生の本には、おさしづを出され以下のように教えて下さっています。

「悪を善で治め。たすけ一条、千筋なら善で治め悪を善でおさめる心が、優しい心であります。この心こそ、新に人間の幸福、世界の平和、陽気ぐらしを築く土台であり基礎であり根本であります。」(明治22年2月7日)

いかに悪い振舞に際しても、この道の信仰者は、他人の善性を信じ、自らの善性を与えることが、優しさであり、治まりを見せていただけるということでありましょう。現実的に非情にむずかしい場合もあると思える話ですが、最大限の努力をさせてことが、成人の道だとも思わせてもらいます。

以上、五下り目の3首から私達の信仰するうえでの大切な心の持ち方を見てきました。

最後に、今日は説明をしませんでしたが、この5下り目は、人類救済の源である「おぢば」の理合についてのお歌がありますし、10番目の終りの首には、

どうでもしん/\するならば かうをむすぼやないかいな

との言葉がでてくる下りでもあります。

ぢばの理、心遣いの2つの要点の後、すぐに講を組織することへの言及がなされていることは、私達の信仰生活にあっても重く受け取る必要があろうかと思います。家庭内での信仰形態を抜け出して、信仰を同じくする者が寄り集い、切磋琢磨しながら信仰を進めることは、正しい道を歩む上でも不可欠であると教えていただいていると思えてなりません。

そして、ここでも、やはり、その見える形ではなく、「どうでも信心するならば」と組織するにあたっての心持ちの条件をだされていることに注意して頂きたいと思います。神様から頼まれて講を結ぶのではなく、私達信者の固く信仰を続けるゆるぎない決心が根底にある条件で、親神様がお許しくださり、他の誰でもない私達が、信仰生活上、欠かせない場を作り上げるのです。

ヨーロッパにある教会はじめ布教所は当然ながら、ヨーロッパ出張所、英国連絡所においても、このみかぐらうたにある講にあたるものです。私達の信仰決心に対して、親神様からお与えいただいたものなのです。そのことからも、来年出張所創立50年、英国連絡所創立20周年記念祭を勤めさせていただくにあたり、今一度我々が思い返し、心に留めて置くことは、上述の通り、親神様と正面から向き合い、陽気尽くめの心とやさしい心で日々を送る努力を惜しまずに続けて行くことだと思います。そしてその努力の結果として、来年新型コロナウイルスの脅威をもはねのけた勢いあるヨーロッパ教友揃っての成人の姿を親神様、教祖にご覧いただこうではありませんか。頑張って参りましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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