Tenrikyo Europe Centre

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2012年5月月次祭神殿講話

内子・パリ布教所夫人 松川こひな

本日はヨーロッパ出張所、五月の月次祭を皆様と共々に勇んで勤めさせていただき、ありがとうございました。神殿講話の御命をいただきましたので、私の身近に起こった出来事から色々考えさせていただきましたことを、少しお話しさせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

私事で非常に恥ずかしい話なのですが、何年か前に様々なストレスから、日本の実家に急に帰ったことがありました。しかしそのときに、色々な事を母に叱られ、お互いが本音でぶつかり合いました。

普段はとても情の厚い、何でも相談できる母でしたので、本当にショックで、「何で親にここまで言われなければならないのだろう。」と、その時は親の思いが分かりませんでした。

しかし、だんだん時が経つにつれて、親であればこそ言える、また親でなければ言ってくれない、という親の深い心が分かってきました。また、親からしたら、言ったほうが、どんなにつらかったろう、心配をかけたなあと思えてきたのです。子供が思っている以上に、親は子供のことが心配で、私達人間をお創りくだされた親神様も、きっとそういう思いではないのかなあと思いました。

おふでさきに、

にんけんのわが子ををもうもおなぢ事
こわきあふなきみちをあんぢる 七-9

それしらすみな一れつハめへ/\に
みなうゝかりとくらしいるなり 七-10

どのよふなくどきはなしをするのもな
たすけたいとの一ぢょばかりで 七-26

親であればこそ、時にはきびしい意見もする。私たち人間は、自分が望んだことが叶ったり、良いことが起こってくると、結構なご守護をいただけたと喜びます。反対に、望みに反した出来事や結果が表れた時は、ご守護がなかったと嘆き悲しみます。しかし、果たしてそうでしょうか。私たち人間の側からすれば、マイナスに見える出来事や結果も、すべて陽気ぐらしへ導くための親心からなされたことだと解することができるのではないかと思います。その時は分からなくても、いつか親の思いが分からせてもらえる日が来ると信じています。

おさしづに「難儀さそう、不自由さそうというをやは無い。」また、おふでさきにも、

月日にハせかいぢうゝハみなわが子
たすけたいとの心ばかりで 八-4

にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる 十四-35

と、お教え下さいますように、親神様の御心はどこまでも我が子を救けたいとの親心のみだと思うのです。教祖は「神さんの信心はな、神さんを産んでくれた親とおんなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心ができますで。」と、お教え下さいました。

ここヨーロッパは、おぢばから遠く離れています。しかし、私達は自宅に、またこの出張所に神様が、お鎮まりになっています。悲しい時は思いきり泣いて、うれしい時は思いきりうれしかった事を報告して、いつでも神様を身近に感じさせていただき、安心して、もたれきることが大事だと思わせていただきました。

日々生活していると、いろいろな事が起こってきます。喜べる日はいいですが、喜べない日もあります。でも、神様にしっかり心をつながせていただいていると、ふと、いろいろな事を思い浮かばせていただいたり、夜、夢を通して見せてくださったり、また人を通して、様々な事を見せてくださいます。その時に、「ああ、こういう事なのか。」と、心の向きを少しずつでいいので、切り替えていけたらいいと思います。

教典に、「親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成って来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえって喜びに転じてくる。この心の治め方をたんのうと教えられる。また、かくて真にたんのうの心が治まれば、前生いんねんは納消される。たんのうは単なるあきらめでもなければ、また辛抱でもない。日々いかなることが起ころうとも、その中に親心を悟って益々心を引き締めつつ喜び勇むことである。」とあります。親神様や私の親も、どこに居ても、どんな時でも喜んで通る事を望んでいるのではないかと思わせて頂きました。

どこまでも我が子を救けたい、心配をしているという親の思いが分かったら、私たちはどうさせていただいたらいいのでしょうか。また、どうしたら親は安心して喜んで下さるのでしょうか。

教祖は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と、おっしゃいました。

やさしい心とは、相手を理解することだとも言えると思います。相手の立場に立って物事を考えたら、自然とやさしい言葉を発したり、いろいろな行動に移せるのではないかと思います。私自身、今まで振り返ってみましても、反省すべき点が多々あったと感じています。

また、教典に、「およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。」と、お教えいただいております。

ある先生は、おさづけについて、次のようにおっしゃっています。

おさづけは、人を救けさせていただくための道具として下されたものである。いかなる道具であってもその道具を使わなかったら、ごみがたまる、さびが付く。それを使わずに放っておいたなら、ついには腐ってしまう。が、おさづけの理は腐ろうはずはない。これを頂いて、この人だすけの道具を使わしていただかなかったら、そのおさづけ人自身の身が立たなくなるのである。ここのところをよく考えさせてもらい、しっかり人だすけのため、おさづけの理を使わせてもらわなければならない。おさづけの撫でる理は、教祖の撫でてでも、さすってでも救けてやりたい、との親心(月日の御心)、それが撫でる理の中に現れる。その理をおさづけ人が取り次がしていただくのである。これがおさづけの理である。」

と、このようにおっしゃっています。

おふでさきに、

しんじつに人をたすける心なら
神のくときハなにもないぞや 三-32

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる 三-38

とお示しいただいております。

しっかりおさづけを取り次がせていただき、ご存命の教祖にお働きいただけるよう、私自身勇んで通らせていただきたいと思います。

親神様、ご存命の教祖は、世界中の我が子が帰って来るのをおぢばで待っていてくださいます。人間を創造された親がいてくださる、人類のふるさと、ぢば。何度、帰らせてもらっても、心が安らぎ、落ち着くところです。一人でも多くの方に、親の所へ帰っていただき、安らぎを感じてもらえるよう、また親に喜んでいただけるよう、一生懸命つとめさせていただきたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。

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