Tenrikyo Europe Centre

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2015年8月月次祭神殿講話

永尾教昭(本部員)

昨日は、青年会長、中山大亮様のご臨席を頂き、ヨーロッパ青年会創立30周年記念の総会を持たれて、誠におめでとうございます。

ちょうど30年前、ここにおられるジャンポール・シュードルさん、岩切耕一さん、津留田正昭さん、そして私も、まだ青年会員でありました。当時の出張所の、あまり性能の良くない車を使って、私たちは在欧信者のお宅を回り、翌年に控えた教祖百年祭への帰参と、ヨーロッパ青年会結成の意義を説いて回ったことを、昨日のことのように思い出します。途中、何度か車の故障や、盗難にも遭いました。ヨーロッパに数十年ぶりの寒波が来ており、非常に難儀したことを覚えております。しかし、それらの節を乗り越え、ほとんどの在欧信者のお宅を回りました。その走行距離は、約2万キロに及びました。そして、1985年6月9日、現真柱様のご臨席を頂いて、230名もの参加者を集めて、ヨーロッパ青年会結成の集いを挙行しました。当時の神殿は、20人も入れない狭いものだったので、庭にテントを張って式典を行ったことをよく覚えております。

ヨーロッパ青年会は、誕生以来30年を数えました。ほぼ一世代を超えたと言えるでしょう。これからも、若い人達が中心になって、このヨーロッパの地に親神様の教えを多いに広めて行って頂きたいと思います。そのことが、真柱様、そして大亮様への最大のお礼になると思います。ヨーロッパの若者の今後に大いに期待します。

さて、人間にとって幸せとは何か。これは、人類始まって以来の永遠のテーマだと思います。幸せとは、すなわち教祖みかぐら歌で述べておられる「この世の極楽」に住まう境地でしょう。

それは、決して物質的な意味で豊かになることではありません。では、どうしたらそのような境地にたどり着くことができるのかを探る。これこそが信仰する目的だろうと思います。

幸せとは何か、私は、かつて数人に聞いたことがあります。色々な答えがありましたが、金持ちになる事、社会的地位が上がる事という答えは皆無でした。多くは「家族全員が健康であること」と答えられました。これは、恐らく国が違っても普遍的な考え方でしょう。続いて、私は「では健康とは何ですか」と聞きました。すると「病気ではないこと」という答えでした。つまり、幸せとは、家族皆が病気でないこととなります。本当にそうでしょうか。自分も含めて、家族の誰かが病気ならば幸せではないのでしょうか。陽気ぐらしはできないのでしょうか。しかし、よく考えてみて下さい。大体50代以上の人は、多くが何らかの病気を持っています。関節痛、あるいは高血圧、糖尿病、痛風、頭痛…。私自身も腰痛という病気を持っています。家族の誰かが病気であれば幸せでないとなれば、ほとんどの家族が不幸ということになります。

そもそもなぜ、親神様は身上、事情を与えられるのでしょうか。確かに、これがなければ、幸せなようにも思えます。しかし、私は逆に身上、事情があるからこそ、幸せに近づくことができると思うのです。言い換えれば、身上、事情は、神様が我々を陽気ぐらしへ導くための一つの手段だろうと思うのです。

かつて、あるイギリス人の方は、ヨーロッパセミナー中に、杖なしで歩けるようになるというご守護いただかれました。もしあの身上がなかったら、彼女は道の信仰には近づかなかっただろうと思います。

人間は、熱が一度上がっても、ぎっくり腰になっても手足一つ自由が叶わなくなります。その時、初めてこの身が自分の思い通りにならないことに気づく。病気になって、身体が借り物であることに気づくことができます。

私は、ある人に「身体は神からの借り物だ」と言いました。すると、彼は「その通り。身体は神からのギフトだ」と言いました。しかし、私は「違う」と言ったのです。

ギフトなら、それをもらった瞬間に送り主ともらう側の関係は完結しています。例えば、下さった人に毎年お礼を言うとか、定期的にお礼の品を持って行くという人は、いないでしょう。しかし、借り物は、それを返すまで、定期的に何らかの形で、礼あるいは返済をしなければなりません。しかも、借りている間、貸し主、言い換えればそのものの持ち主との関係は永続します。つまり、身体が借り物であるという自覚が、私たちと親神様との繋がりを認識させ、親神様に何らかの答礼をせねばならないことを気づかせるのです。さらに、借り物であるから、身体が機能する、すなわち生きているということは、親神の守護によるということになります。

おふでさきに、

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん(三 137)

と教えられます。ひのきしん、お供、おつとめ、すべて、身体を借りていることへのお礼の行為に他なりません。つまり、この「かしもの・かりもの」の教理が理解できなければ、天理教の教理は理解できないのです。

真柱様が発布された諭達第3号には、「我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相」とあります。

家族の絆が、今崩壊しています。「家族」「夫婦」とは、何をもっていうのかという質問さえ出てきます。「一つ屋根の下に住んでいる者をいうのか」。「血縁関係があれば家族か」あるいは「届け出関係のあるものをいうのか」という質問です。家族が固定したものではなく、流動的になっているのです。

また「一緒に...する」(ensemble)が死後になりつつあります。家族揃っての食事、居間での家族団欒がなくなりつつある。ゲームさえ、今はコンピューターで一人でできるのです。夫婦、結婚さえ死語になりつつあります。

私たち夫婦は、2009年に、25年間住んでいたこの出張所を離れて、日本に帰りました。そして、今、家内の母も同居しています。義母は、身体も少し悪く、年相応に記憶力が衰えています。ですので、妻は少し大変です。しかし、妻本人は、25年間、母と離れて暮らしていたので「やっと親孝行できる」と喜んでいるのです。つまり、幸不幸は、ある人の状況を見て、外から他人が判断することではなく、自分自身がどう考えるかということなのです。

あるようぼくが言いました。「家族がみんな仲良しです」「これは幸せなことだと思います」。その通り、例え家族の誰かに病気があったって、家族が皆仲良しであること。これが、幸せなのだと思います。否、むしろ、家族のだれかの身上が家族の絆を強めてくれると思うのです。

私たちは、朝夕のおつとめで「このよの地と天とをかたどりて 夫婦をこしらえきたるでな これはこのよのはじめだし」と唱えます。これは、本教独特の夫婦観だと思います。夫婦からこの世は始まったのです。だから、夫婦の治まりが世界の治まりに通じるのです。

諭達では「天地抱き合わせの理を象る夫婦をはじめ、己が家族のありかたを正し、たすけ合いを実行して、足元から陽気ぐらしの輪を広げよう」とあります。

夫婦が大事という話をしておりますが、もちろん、この中には離婚しておられる方、独身もおられるかも知れません。その人は道を通れないのか。そうではありません。おさしづに「別れてもきょうだいという理」という言葉があります。

先ほど、「一緒に」がなくなりつつあると言いました。「一緒にするもの」その最たるものがおつとめでしょう。本教で講を結ぶ、あるいは家族で信仰することを強調するのは、おつとめを勤めるためなのです。家族が揃って、おつとめをする。これこそ、この道の信仰家庭のあるべき姿なのだと思います。

おふでさき

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる(三 47)

これも、本教独特の教えであろうと思います。道徳律では昔からあります。「情けは人のためならず」などと言います。しかし、道徳的な意味でこの教えが説かれているわけではありません。

通常、神と人とは一本の線で結ばれています。「助けて下さい」と神に祈る。そして神が守護を与える。しかし、本教の場合、第三者との関係性によって、助かるのです。教祖は、身上を助けて頂きたいと申し出た人に、人を助けよとおっしゃった。そうすると、自分自身が助かるのです。つまり、神と人が二等辺三角形のような関係になると思うのです。

現に、おふでさきには「助ける」あるいは「助かる」という文言が多く出てきますが、その前に必ず「真実があれば」といった文言があります。

例えば、

しんじつの心あるなら月日にも
しかとうけやいたすけするぞや(七 84)

本教で言う「真実」「誠」とは、「人を助ける心」です。

おかきさげ

人を助ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという

と教えられる通りです。人を助ければ、その人と同時に自分も助かると教えられるのです。

人をたすけることは、多少なりとも苦労を伴います。しかし苦労があるから、喜びがあるのです。暗闇の中でこそ、光は輝きます。日中に電気を付けても、それを感じることはできません。そして、小さな苦労でも、人のためにする苦労ならば、必ず喜びがついて来ます。さらに言えば、「あなたのお陰で助かった」と言われる以上の喜びはありません。真実を持って懸命に人を助けるために尽した苦労は、必ず何らかの形で報われると思います。

もちろん、時には、すぐにはこれと言った結果を見せられない場合もあります。しかし、人は、結果よりも、自分のために苦労して努力してくれる姿に感動するのだと思います。

天理大学のある女子大学生が、今、一生懸命別席を運んでいます。彼女は、天理教の信者ではありませんでした。しかし、天理大学で友人からお道の教理を聞き、信者さんの姿を見て、感動して信仰の道に入りました。

彼女の両親は、彼女が4才のときに離婚。父親は家を出て行きました。以来、彼女は父に一度も会っていなく、父を恨んでいました。それが数ヶ月前、父に一人で会いに行ったのです。天理教の教えを聞いて、父を恨む気持ちがなくなったと言います。同時に、全く神を信じない母も「宗教って素晴らしいね」とおっしゃっています。

ところで、皆さん、動物は圧倒的に一夫多妻です。人間もかつては一夫多妻でした。なぜ逆、つまり一妻多夫はあまりないのでしょうか。それは、一妻多夫、つまりメスが一匹でオスが複数の場合、生まれてきた子供の父親が分からなくなる可能性があるからではないかと私は思うのです。人間の場合、DNAを調べれば分かります。しかし、自然界では無理です。すなわち、両親が分からないということは、これほどの不幸はないから、自然界も一妻多夫という形はとらないのではないでしょうか。

さらに、世界中に妻、あるいは夫がいなく生涯独身という人はたくさんおられます。また、子供、叔父、叔母、あるいは兄弟姉妹のいない人も、大勢あるでしょう。しかし親のいない人はいません。確かに何らかの事情で親の分からない人、あるいは親が早く亡くなり、親に会ったことがない人はいます。しかし、そういう人にも親はいたのです。元から親のない人は地球上に存在しない。あらゆる人間関係の中で、親だけは誰にも平等にいるのです。

考えてみれば、私たちの拝する対象は、親神教祖とともに「親」を冠しています。それは、誰にでも、実感として感じることができるようにという配慮ではないでしょうか。そして、教祖は、神様を、自分を産んでくれた親と同じように思えとおっしゃいました。親ならば、子供に持てない荷物は持たせません。子供の体力に会った荷物しか、渡さない。つまり、神様は、子供である人間に無理な苦労を背負わすことはされないのです。私たちが日々頂く身上も事情も、すべて私たちが背負うことができると思われて、与えられているのです。そう考えれば、身上、事情の中も必ずや勇んで生きることができると思うのです。

昨年の冬、私は、猛吹雪の中をある教会の巡教に行きました。何度もスリップをして死にかけました。途中で、何度も悔やみました。「やめておけば良かった」と思いました。そのとき、車のラジオから「テンリキョウ...」と聞こえたのです。一瞬、聞き違いかと思いました。しかし、耳をよくこらして聞くと、ラジオの司会者が「天理教のひのきしんは...」と、まさに天理教の教えを広めるようなことを言ってくれていたのです。私は、吹雪の中でものすごく嬉しかったのです。本当に勇むことができました。この苦労も、親である神様が私に背負わせて下さったのだと思いました。その苦労を雄々しく全うした時、喜びが溢れます。同時に道のために尽した苦労は必ず、神様のもとに届くんだと確信をしたのです。

真柱様は、昨年の春季大祭のお言葉の中で、

「同じ地域に住むようぼくが、所属教会の枠を超えて集う...。(中略)同じ地域に住むようぼく同士がつながり合い、たすけ合い、さらには、地域社会にも働きかけられるような、継続的な動きにつながていっていただきたい」

とおっしゃいました。

この同じヨーロッパに住むようぼく同士が、たすけ合い、勇ませ合い、この道を広めて下さることを心より願っております。そして来年1月26日の教祖百三十年祭には、一人でも多く、おぢばに帰って下さることを祈念して、講話を結びます。

ありがとうございました。

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