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2022年11月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

今、メディアでよく耳にするのがエネルギー節約という言葉です。誰もが頭を悩ませているウクライナ戦争に加え、エネルギー不足も心配の種になっています。私たち家族も、皆さんと同じように、これから寒くなる季節に向け、エネルギー資源を無駄にしないように心がけています。

このエネルギー節約という言葉で、あらためて体とおつとめの関係の重要性について考えました。みなさんもよくご存じのように、おつとめ陽気ぐらしを実践するためのエンジンのようなものです。

まず、陽気ぐらしとは、苦しみのない快楽の世界ではありません。それは、前向きな生きる力を失わない世界です。この喜びの生活は、個人の生活から始まり、周りの世界へと広がっていきます。

現実に、天理教の信者として、他の人のことを考え、他の人を助けようとする多くの信者を知っています。これは非常に重要なことで、必ず行うべきことです。おふでさきにも「人をたすけてわが身たすかる(III-47)」と書いてある通りです。

もちろん、助けられるために助けるのではありません。見返りを求めない助けによって、人は自然に救われるのです。ですから、教祖は私たちに人をたすけなさいとおっしゃるのです。しかし同時に、この教えは、理解しやすいものです。善良な市民であれば誰かを助けたいと思うことは当然ですし、そのために深く考える必要もないでしょう。苦しんでいる人がいたら、手を差し伸べる。これは、天理教の信仰者でなくても当たり前の行動でなければなりません。

しかし、他人という概念について考えてみてください。皆さんにとって最初の他人とは誰でしょうか。実は、天理教教典の中に「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの(教典第七章)」と書いてあるとおり、最も近い他者は自分の中にあるのです。

自分の体は自分のものだと思っていても、実はそうではないのです。最も近くにいる他者は、自身の魂に貸されたあなた自身の体なのです。私たちは、魂に属する精神と、命に組み込まれた肉体で構成されています。つまり、私たちは「二つ一つが天の理」という教えを生まれつき備えているのです。精神をつかさどる心と、物質をつかさどる体。この2つが合わさって一人の人間になるのですが、実はそれぞれが独立しているとも言えるのです。

他人のことだけ考え、自分の健康を犠牲にしていると、天理教の目指す大切な目標の一歩を踏み外すことになります。集団の陽気ぐらしは、個々人の幸せな生活から成り立っています。幸せな生活とは、病気や苦しみのない人生ではなく、精神的に幸せと喜びに満ちた人生を意味すると思います。

そして、それを実現するために、私たちにはおつとめがあるのです。毎日のおつとめを通じて、親神様の十全の守護に感謝することはよく知られています。みなさんそうされていると思います。しかしながら、この毎日のおつとめが、特に強く意識することなく実践するだけの、ただの惰性になってはいないでしょうか。毎日つとめる習慣的な行いは、無意識の実践という意味ではありません。みなさん、意識を持ってつとめておられると思います。しかし、その意識は頭で分かるだけのものにとどまるのではなく、頭から指先まで、身体的なものであるべきです。

現実の話に戻ってみます。省エネの観点からも、このおつとめは非常に実用的な手段だと思います。座りづとめをすると、体が温まってきます。皆さんもこのような経験があるのではないでしょうか。歌って、手振りをして、体の中からふつふつと湧いてくる温もりが、肌の表面にまで上がって来るのを感じたことがおありだと思います。

しかし、意識せずのおつとめになりすぎてしまうと、手振りに覇気がなく、あるいは速すぎたりして、感動や感覚からくる心地よい温もりがあまり感じられなくなります。初めにも述べたように、おつとめを通して、十全のご守護のお働きを感じ、親神様に感謝しなければならないのです。胸の前で手や手首だけで手振りをすると、十分なぬくもりが湧いて出てはこないでしょう。

もしそのようなおつとめを経験されたことがあるのなら、大きな手ぶりでおつとめをすることをお勧めします。手や腕だけでなく、肘や肩、背中など、体の前全体で振ってみてください。毎日忙しい生活をしていると、何も考えず手だけで素早くつとめることもあるかもしれません。正直に言って私もそういう時があります。ですが、上半身全体だとダイナミックになり、意識もはっきりします。さらに、体の奥深くに温もりを生み出してくれます。

それだけではありません。体の動きを意識すると、親神様のご守護をより具体的に感じることができるのです。実はこれがとても大切なことなのです。これらの守護について、一つずつ見ていきたいと思います。

まずくにとこたちのみことです。目と水のご守護で、おつとめの際、目を開けば手や腕が動くのが見え、目を閉じれば暗い中にかすかな光を感じることができるでしょう。そのようにしてご守護に感謝することが出来ます。水のお働きのありがたさは話すまでもないでしょう。

おもたりのみことは、火とぬくもりのご守護です。皮膚の表面にまで上がって来るぬくもりを感じたら、そのご守護によって自身の体に感謝したくなるでしょう。とくにこれからの季節は強くそう思えると思います。

くにさづちのみことは女一の道具、皮つなぎ、よろずつなぎのご守護です。合掌の手をすれば、肌がふれあい、皮膚のたくさんの機能に感謝するきっかけになるでしょう。手ぶりをしながら皮膚が伸びたり縮んだりするのを感じた時、そのお働きに感謝の気持ちを抑えられなくなるはずです。筋肉もこのつなぎのご守護です。

つきよみのみことは、男一の道具、ほねつっぱり、よろずつっぱりのご守護です。座っているときや体の姿勢、手や腕、肘、背中など関節が動くたびにこのご守護を感じなければなりません。

くもよみのみことは、飲み食い出入りのご守護です。このご守護が水分の循環、つまり血液の循環もつかさどってくれます。心臓の鼓動が感じられれば、このご守護に感謝できるでしょう。また、このご守護は消化を始め、循環するものすべてをつかさどっています。朝、おつとめ前にお手洗いに行って、このご守護に感謝すれば気持ちよく一日をスタートできるでしょう。

かしこねのみことは、息吹き分けと言葉のご守護です。息を吸って吐くを繰り返し、お歌を歌う。おつとめの時にはこのご守護を絶えず感じて感謝できるでしょう。

たいしょくてんのみことは、切ること一切です。このご守護には、出直しも含まれますから、あまりいい印象を持たないかもしれません。しかし、私たちの浅はかな考え方がそのような印象を持たせるだけで、神様のご守護に何一つ悪いことはありません。切るというご守護は、常に存在していて、とても大事です。息を吐くだけではダメだという事は誰でも分かるでしょう。吸って、吐くという二つの行為の間には休みがあります。その切れ間こそがこのお働きです。手ぶりも、次の動きに移る前に止めるタイミングがあります。止めることができるのも、この切るご守護が働いているからです。切るご守護は、変化や生まれ変わりをつかさどっています。体で言えば、皮膚の古い角質が落ちるのも、髪が抜け落ちるのも、この切るご守護です。このご守護がないと、何も変わりませんし、何も新しく生まれ変わりません。おつとめの前と後も、何かがきっと変わっているでしょう。

おふとのべのみことは、子を引き出すお働きで、引き出し一切のご守護です。引き出しとは、生育や成長をつかさどります。切るご守護で抜け落ちた髪や毛は、この引き出しのご守護によりまた生えてきます。爪も同じです。背の高さや体重など、体の成長に関するすべてが、このご守護によるものです。おつとめで、自身の体がここまで大きくなっていることを改めて感謝すべきです。

いざなぎのみこと、いざなみのみことは、それぞれ男ひながた種の理、女ひながた苗代の理です。この二つのお働きが、みなさんをみなさんたらしめていると言えるでしょう。私たち人間はみんな例外なく、種と苗代から生まれてくるのです。男性であれ女性であれ、私たちの中には父親と母親の両方の性格・性質が存在しています。それらがみなさんのアイデンティティを作っているのであり、言い換えればあなた自身の存在には必ず二つの異なる働きが備わっているということです。こう考えると、おつとめの間、心も体も自分が自分でいられることを改めて感謝できるのです。

このように、毎日の座りづとめで、この十全のご守護を、意識を持って体で感じることが大切です。

おつとめは感動をもたらします。親神様のご守護で助かった経験があればなおさらでしょう。しかし、おつとめは感情的であるだけでなく、現実的で実利的、物質的で、なおかつ肌で感じられるものなのです。それは現実的にみなさんの体によい効果をもたらします。おつとめは、ただ安心したり、感動したりするだけでなく、そのものが助け合いの対象となっているこの借り物の体を、具体的に健康に保ちリフレッシュさせてくれるものなのです。

一人一人の健康な体、健康な心、健康な生活は、やがて平和な家庭生活、地域生活へと導いてくれます。よりよく生きるために、心だけでなく、具体的に体のことを考えておつとめを実践し、その身体的効果を日々感じましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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