Tenrikyo Europe Centre

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2016年6月月次祭神殿講話

天理教ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

只今は、ヨーロッパ出張所の6月の月次祭を皆様と共につとめることができ大変ありがたく思います。今月の神殿講話にご指名を頂きましたので、しばらくお付き合いの程よろしくお願い致します。

数ヶ月前に遡りますが、フランスとベルギーで悲惨な事件が起きました。ご存じのように、その残虐なテロ行為では、多くの死者を出し、私たちは無力さを味わいました。

この痛ましい出来事について考える中で、特に憂慮し、非常に理解しがたい点は、このテロ行為の犯人等が、神に帰依し、外見上は非常に強い信仰心を持って、より良き世界を願っている人々であったという点です。ここに彼らが持っている意志と反社会行動のなかに、明らかな矛盾があることに気づきます。と同時にこの事実は、ある問いを私達に投掛けてきます。

これまで私は、様々な形の信仰、また人生におけるその役目について自問自答を重ねてきました。本日は、その一端を、私たちの視点、つまり教祖の教えに照らし合わせながら、少しお話したいと思います。

信仰というこのテーマに対して、核心を突くお言葉をみかぐらうたに見ることができます。

なんぼしんじんしたとても心得違いはならんぞへ
やっぱり信心せにゃならん心得違いは出直しみかぐらうた6下り目、7つ8つ

個人的には、お歌を翻訳する際、いつも一語一語を区切って意味を取るようにしています。お手ふりをつとめるとき、その手振りと言葉の意味がしっかりと一致するようとの思いからです。もっとも、みかぐらうたの完全な理解には、歌詞と手振りの関連づけが大切なことは、みなさんもご存じの通りだと思います。

なんぼ信心したとても心得違いはならんぞへ

なんぼとは、数量、重量、力量を意味し、また際限ない量のことを示します。

しんじんとは、信じること、信仰を意味します。

したとてもは、もしおまえが、それをどのくらいしているとしても、

心得は心の使い方を意味し、違いは誤りを意味します。よって心得違いは、間違った心の使い方ということになります。

ならんぞえは、決してするでないの意。

文字通り噛み砕くとこうなります。

あなた方の信仰心が際限のない大きなものであったとしても、心の遣い方を間違えることは、決してしてはならない。(親神様の教えに反した心遣いをするでない。)と、なります。

続いて、

やっぱり信心せにゃならん心得違いは出直し

やっぱり、しかしながら、それでもの意。

信心せにゃならん、信仰心を保持しなければならない。

心得違いは、もし間違った心遣いがあるのであれば、
出直しや、あなたは出直しするだろう。

出直しとは、再び戻って来る為に今の身体を離れること。天理教ではそれを死ぬとは言いません。再び戻って来るということは、何も無い所から再び始めるということです。

同様に訳すと、
しかしながら、信心を保持しなければならない、けれども、そこに間違った心遣いがあったとしたら、その時は出直しとなるであろう。

この二つのお歌の中で、はっきりと区別して使われている2つの言葉があります。そのひとつは、信心(Foi)であり、もう一つは、心遣いです。これにより、強い信仰心であっても、間違った心遣いを同時に持つことがあり得るのが分ります。

わずかばかりの信仰心に対して、良い心遣いもあり得るのです。この関係は、必ずしも絶対的な相互関係ではありません。

非常識な考え、途方も無いような心遣いの間違えは、忌まわしい行為、残虐な状況、堪え難い苦しみや、また戦争という形をもって具現化されます。全世界、特に西洋において、かつて、いや今なお宗教戦争は起っています。なぜなら、我々人間は、他者に自分の考え方や信仰心を無理強いででも、押付ける必要があるとよく考えてしまうからです。

その上、大変強い信仰心には、非論理的で有害な振舞の主原因である無知なる行動に陥ってしまう可能性もあります。

キリスト教には、イエスが十字架に張り付けにされる際に神に訴えかけた「主よ彼らを許したまえ。彼ら、その為すことを知らざればなり。」という有名な言葉があります。当然、もしも彼らが何をしているか分っていたならば、このようなことはしなかったでしょう。今日まで、私達は間違ったことばかりをしてきました。その原因は、私たちが無知であるということです。その無知さのせいで、神の思惑から完全にずれた、否定的な行いを犯してしまうのです。

信仰心とは、必ずしも自身の体験を通さずとも、それが真実であると思い見なすことです。また信仰心は信頼する思いに根差すものです。私たちは、両親が言ったこと、教えてくれたことを信じてきました。子供は、まずママ、パパ、牛乳、瓶など物の名前を教えられ、そして日が経つに連れて、家や、学校や、教会、今だとテレビを通じて、どのように生活するのか、そして何が、社会通念に従った行為なのかを教えてもらいます。

そして大抵の場合、それらの物事が固く信じられることにより、真実となり、私達のあらゆる判断の基準になっていくのです。

教祖は、私たちに信心を続けることを望まれましたが、特に強調されたのは、心と精神の遣い方です。教祖は、静かに内省、熟考する中で考えを明確にし、納得した後に物事を決めることを促されました。そしてそれが私たちを成人させる道だと教えてくださいました。

おふでさき12号180、16号79に、

さあしやんこの心さいしいかりと
さだめついたる事であるなら

さあしやんこれから心いれかへて
しやんさだめん事にいかんで

みかぐらうた9下り目5つ6つに

いづれのかたもおなじことしあんさだめてついてこい

むりにでやうといふでないこころさだめのつくまでハ

とあります。

勿論、私たちが教祖への信仰心を持つに至ったことは、とても幸運な事であり、大きな力であると言えます。しかし、教祖は、彼女が伝えたことに対して、我々に盲目的信仰を求めてはいません。教えを一つひとつ実行体験することを望まれているのです。

おふでさき4号65のお歌に

だんだんとこどものしゆせまちかねる
神のをもわくこればかりなり

とあります。

私達は、信仰の歩みを進めることにより、本当の信仰心へと導かれて行きます。体験を通してつかんだ真理の先に広がる境地は喜びづくめの世界です。信仰心が喜びと結びつく時、感激が私達を包みます。この世の神の身体のなかで、全ては私達の為にあり、その全てが必然性を備えており、その意味で、世界中のすべての物と繋がり一体化しているような感覚が身体を埋め尽くします。確信をともなった陽気さが自然と心にあふれ、そこには欲求の不満も、他者との争いも存在しません。

教祖はこういった境地に至る通り方をする事を望まれているのだと思います。

おふでさき14号23-24に

せかいぢうどこの人でもをなじこと
いつむばかりの心なれども

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ

このお歌では心の正しい使い方を教えてくださっています。その為には、信じるとか、信じないと言う問題ではなく、教えを体験してみること、教えを実践すること以外何も望まれてはいないのです。

不幸になりたいと望む人はどこにもいません、だとすれば、たとえ僅かな信仰心しかないという方がおられても、この心の使い方を試してみたいと思うのは当然です。

それを真剣に実行する気となり、ひと度、その意思が固まった人に対しては、正しい心の遣い方、陽気づくめの心は、絶大な効果を発揮し、その人の人生を根本的に変える力を持っています。

教祖おふでさきの中で

このたびハぢうよぢざいをしんぢつに
してみせたならこれかまことやVI 129

これをみていかなものでもとくしんせ
心したいにいかなぢうよふVI 133

と仰っています。

ここに、良い心遣いとは、これまでに見てきたように、全ての物事に対して喜びを見出せるようになることであり、信仰心が沸き上ってくるものです。なぜなら、この状態が正しい心の使い方における結果であろうと思えるからです。

教祖は私たちに「陽気遊山をしなさい」と教えられました。だからこそ、喜びの対極に位置するものを消していく努力が必要です。

今日は、ここで例えば、怒れる気持ちを無くす試みをしてみましょう。想像力を十分に働かし、腹立ちが無くなれば、私は一体どのような人となるのだろうかを考えてください。怒りを感じない人というのはどのようなひとなのだろうかと深く自分のなかで自問しイメージするのです。そして、この時に自分自身の奥底で沸き上った感覚イメージを保持するなかで、実生活でも楽に自分が望んだ心の状態を作り出せます。

一日中というのはさすがに無理があるかもしれませんが、しかし、たとえ数分間でもやってみるのです。そして同じことを翌日もう一度繰返します。恐らく前日よりは腹立ちを感じない時間が延びるはずです。このようにして徐々に心を変えていくことができます。

今は、腹を立てやすい人の場合を例に取上げましたが、これと同じ方法で、「をしい」から「こうまん」までの八つのほこりの全てに対して対処することができます。

全てのほこりの心遣いは溢れ出る喜びや陽気な気持ちの妨げになり、私たちを陰気、憂鬱、冷淡、あきらめという感情に引き込んでいきます。

仮に、私が確固たる信仰心を持っていたとしても、上に挙げたような感情で陰気ぐらしをしているようでは、陽気ぐらし実現へ歩みを進める事は出来ません。それは正に間違った心遣い、「心得違い」をおこして立ち止っているようなものです。

正しい心遣いは、愛や喜び満足、感激の中にあります。これら以外は心得違いだと呼べるかもしれません。正しい心遣いは健康、そして個々と集団の繁栄を生み出します。

喜びが現れるとき、私達の身体や周囲でも、物質、肉体、精神面の全ての分野で妨害するものもなく、生きる力、いわば十全のご守護がより活発に働くことができるのです。

教えの実践に基づいた、この良い心遣いを、まずは生活の中心に置くと、自然と続く信仰が持てるようになると思います。数ある教えの中でも、この教えが心に治まれば、狂信、紋切り型の信仰、排他的な精神を持つこともなく、他の人々をより深く理解するようになります。

それでは、日常生活で間違った心遣いが現れるサインというのは一体どういった物なのでしょうか。

おふでさきに、

めへめへの心みのうちどのよふな
事でもしかとみなあらわすで12号171

とあります。

目に見える最初のサインは身体上に現れるものです。ネガティブな気持ちはイライラや不足、筋肉の緊張、胃潰瘍、原因不明の疲れという姿で身体に現れてきます。これらの兆候は私たち各々の生活に定期的に起こりうるものです。

もっとも、それらのサインは、悪い心遣いをしたり、喜びの心を忘れていると私たちに現れてくるものです。少しの短気も身体に影響を及ぼします。イライラしたりストレスを感じる事も私たちが心得違いをしている表れなのです。

もう一つのサイン、それは自分が実現したかったものと現実のものとの差異からくる不平、不満です。実際、私たちが何をおいても手に入れようとしているもの、それは幸せになるということです。そしてそれは人間にとって実行に移すべき唯一であり真の使命です。

人間創造の元初まりの際にも、「人間を作り、その陽気ぐらしをするのを見て共に楽しもうとおもいつかれた」とあります。

陽気と対極にある全てのもの、それが心得違いです。心得違いは私たち自身や私たちの周りを無秩序や停滞という状態に引きずり込みます。

実際、とても強い信仰心と間違った心遣いというのは同時に持ってしまう可能性があります。

テロ行為を犯した人々を見てみましょう。彼らは大変強い信仰心を持つがために、自分の身体に巻かれた爆弾と共に命を捨てる事に何のためらいもありません。彼らは、大衆の中で自爆するような、多くの重罪を深い信仰心を支えとして犯してきました。彼らはその行為によって天国へ行けるということを信じているからです。

無知さであるがばかりに、間違った心遣いと結びつき、彼らをこのような常識から逸脱した状態に陥れたのです。その無知さが、さらにあまりにも強い信仰心によって利用され、すぐさま出直しという結果になりました。彼らには強い信仰心はあったものの、間違った心遣い、心得違いをしていたので、出直しに直結し、大勢の方を巻き込みと同時に自らも死にいたりました。

前述の通り、教祖も私たちに、信仰を持つことは大切だが、もしそこに心得違いがあるならば出直さなければならないと教えてくださいっています。

ここ最近フランスやベルギーが体験したテロ行為は、全てイスラム原理主義者たちによるものです。しかし、過去を振り返れば、他の宗教も過ちを犯しているのです。例えば、ヨーロッパにおける宗教戦争では、カトリックの宗教裁判に於いて、悪魔に取り憑かれたということを自白させる為に、容疑者を拷問にかけました。その狂気で信じられない行いも、信仰心からくるものであり、それも心得違いの結果なのです。

一貫して言えること、それは信仰心というのは、本質となるものでは無いということだと思います。また時に信仰心はとても危険な道具になるものであります。

翻って、教祖は、「やっぱり信心せにゃならん」と仰っています。

確かになぜなら、どんな時でも私たちは心を入れ替える力、喜びを溢れ出させる力を持っているのですから。重要なのはそれを出来ると信じること、そのためには、その思いが、私達の強い信仰信条の一つとなるよう日々繰返し思い続けなければなりません。

良い心遣いと結びついたこの信条こそ、常に持つべきものなのです。その心を保つために、喜びを燃料として心を使うことを訓練しましょう。なぜなら喜びこそ私たちの生活と完全に調和する唯一の感情なのです。

私達がこの信条を持って世間と関わるならば、天の理として、周りの人から好かれるようになり、陽気ぐらし世界の道も自然と今よりも少し進展するものと思います。

ご静聴ありがとうございました。

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