Tenrikyo Europe Centre

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2013年8月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長夫人 長谷川真理子

只今は、8月の月次祭を皆様と共に陽気につとめさせて頂き、誠にありがとうございました。当番に当たっておりますので、神殿講話をつとめさせていただきます。つたないフランス語ですが、どうか最後までお付き合い下さいますようお願い致します。

私がフランスに来まして、早いもので7年が経ちました。2005年に主人と結婚しまして、何も分からないままフランスへ来てしまいました。私が主人と初めて会ったのは2004年10月26日の夜でした。当時の海外部長・三濱善朗(みはま よしあき)先生のご紹介により、先生のお宅でお見合いをしました。そして次の日の夜、私たちは結婚することを決めました。誤解のないように言っておきたいのですが、私は決して誰かに脅された訳でもなく、お金で売り飛ばされたわけでもありません。自分たちで決めたことです。彼とはいろいろな偶然が重なり出会うことができました。『運命的』と言えば聞こえはいいですが、そういうものでもなく何かに導かれるようにして、出会い、結婚を決め、今日まできた気が致します。
人生において一度だけ良い選択をできるカードが使えるとするならば、その日までこのカードを残しておいてよかったと心から思うのです。
主人は37歳、私は29歳の時に結婚したのですが、お互い急いで結婚せず、その年まで独身でいて良かった心から思いました。

主人と結婚してよかったことはいくつかありますが、その中でも最も良かったことは、主人の母に出会えたことでした。私は結婚してすぐに主人と一緒にフランスへ来ることになっていたのですが、ビザが下りず、しばらく日本へ残ることになりました。実家に帰ろうか、また兄弟や友人のところへ行こうかと考えていたところ、母が『もらったものを返す必要はない』とのことで、主人の実家がある愛知大教会に住むことになりました。主人はフランスへ戻りましたし、主人の父は1995年にすでに亡くなっておりましたので、母と二人暮らしとなりました。始めは少し抵抗があったのですが、今ではあの時の二ヶ月間、母と一緒に暮らしてよかったと心から思っております。
主人は男4人・女1人の5人兄弟で、上三人が年子です。主人曰く、母の怒ったところは見たことがないそうで、もちろん私も母が怒っている姿など一度も見たことがありません。子どもを怒らない教育法がいいかどうかは別として、怒る姿を子どもに見せないということは、とても難しいことだと思います。母は怒りませんが、決して子どもを甘やかして育てたという印象はありません。どちらかというと厳しい面もあるかと思います。母は怒らないばかりか、いつも心低く通っておられます。私が印象に残っている出来事の一つに、母が日本から送ってくれた荷物がなかなか届かなかった時、母は『荷物が着くのが遅くなって、悪かったね』と私に言うのです。荷物が届かなかったのはもちろん母のせいではなく、日本かフランスの郵便局の何らかの理由で遅れたわけですから、母が謝る必要はありません。しかし、自分が関わったことで何か不具合が出てしまったことは、自分にも責任があるとか、楽しみにしていただろうに、待たせてしまった事に対する母の申し訳ないという気持ちがこの言葉に表れています。
声を荒げて主張することで物事が動くこともあります。言わなければいつまでも先へ進まないこともあると思います。謝ればこちらの不手際を認めることになるので決して謝ってはいけないという考え方もあるかと思います。それでも、私は母の『悪かったねぇ』という言葉に優しさと思いやりを感じることができました。

何か迷惑を被った時、それに対する人の態度として『怒る』『怒らない』『謝る』という三段階の行動があるとします。怒って当然ということが0(ゼロ)だとしたなら、怒らないことで+10ぐらいになり、さらに母のように謝ることで+20にも30にもなります。怒るか怒らないか、小さな一つのことを何度も繰り返していくうちに、100や1000もの大きな違いになっていくのです。ただの日本的美徳に過ぎないと思われるかもしれませんが、怒ってほこりを積むところを、怒らずむしろ謝るその人の心はどんどんと澄んでいくにちがいないのです。
母の心こそが低い大きな心であり、本当の優しさだと私は感じました。そこには自分の感情云々は横に置き、どこまでも相手に対する思いやりだけがあるのだと思います。母は穏やかで心が広く、人の悪口は言わず、どんな年代の人とでも分け隔てなく話ができる本当にすばらしい人です。恐らく神様は『こんな女性になりなさい』と母に出会わせてくれたのだと思います。主人との結婚を機に、尊敬する母に出会えたことは私にとって大きな宝です。

天理教の教えに『八つのほこり』があります。八つのほこりとは、おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまんで、このほこりを積まないよう、親神様の教えをほうきとして、たえず胸の掃除につとめ、また人にほこりを積ませないように、心を配らなければならないと教えて頂いております。

日々ちょっとしたことでほこりを積みがちな私ですが、その中でも使ってしまいがちなほこりは、『ほしい』と『腹立ち』です。『ほしい』心はあるのですが、自由になるお金が余りありませんので、『ほしい』心はすぐにあきらめの心に変わります。 自由に使えるお金が少ないということは、ほこりをあまり積まなくてすむという点では良かったのかもしれません。『八つのほこり』の『ほしい』の最後に『何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります』と書かれています。お金があまりないということは、自動的にたんのうにもつながり一石二鳥です。
二つ目の『腹立ち』ですが、『腹立ち』の心が大きくなると『にくい』や『うらみ』に変わっていきます。ですから、ほこりを大きくする前に、小さな『腹立ち』のうちに芽を摘むことと、さらにはほこりを払うことが大切です。
『はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。楽すぎるからであります。心が澄まぬからであります。人が悪いことを言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず天の理を立てるがよろしい。短気や癇癪は自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります。』と書かれています。
小さなほこりも大きくなると自分の徳がどんどん減り、ついには命を落とすまでになると仰せられています。
さて、この私が積みやすい『腹立ち』のほこりはどうしたら積まないようになるかを少し考えてみました。
まず、『腹立ち』の反対は何だろうと考えました。それは腹をたてないということです。そして、腹を立てないようにするには、心を澄ますことだと思います。
ご発布頂いた諭達第三号に『陽気ぐらしとは心を澄ます生き方でもある。』と書かれています。
毎回ではありませんが、少し心に余裕がある『腹立ち』の場合、怒りがこみ上げてくると、私は頭の中で自分が怒っているシチュエーションを考えてみます。せりふもちゃんと決めて、ここでこういう風に怒ると決め、おもいっきり怒鳴ってみるのです。怒鳴るといっても頭の中ですから、声には出しません。そして次に、自分自身はどうであるかを考えてみます。『同じようなことを気がつかないうちに自分もしているのではないか、また私もそういうことで怒られたことがあるのではないか。言うのか?本当に言ってしまうのか??』そして、振り返ってみると、だいたい自分も同じことした覚えがあるのです。『人は鏡』まさにその言葉通りなのです。 そう考えていると、少しずつ怒りがおさまっていることに気がつきます。きっと誰にでも間違いはあるし、神様がこの人を通して私に何かを伝えているようにも思えてきます。その人の姿こそ私なのです。もちろん、かっとなって怒ってしまう時もあります。しかし、言葉に出さないことで心の中で思う。これを繰り返すうちにいつか心でも思わなくなったらいいなぁと思っています。

先程、『腹立ち』の反対は心を澄ますことだと言いましたが、心を澄ます第一歩は『許すこと』だと思います。例え相手が悪くても、怒らず・責めず『許す心』を持つことが大事だと私は思います。立場的に怒らなければいけない場合もあると思います。例えば、親と子、上司と部下というように、長い時間をかけて育てていかなければならないような場合は、また別の言葉や心の使い方があると思いますが、個人的なことの場合にこそ許す心を持つべきだと考えます。
これまでに一体どれだけの人に許してもらってきたのだろうか。両親や兄弟・友達、周りの方々、本当はもっと怒られていてもおかしくないところを、怒りを心の中に治めて下さっていただろう推測します。そして、例え怒られても最後には許してもらってきた人生であることを思うと腹立ちも薄らいできます。
私たち二人は基本的には仲の良い夫婦ですが、喧嘩をすることもしばしばあります。喧嘩といってもほとんどの場合、私が怒るだけなのですが、怒ってすぐは『私は悪くない主人が悪い。絶対に謝らない。』と思っているのですが、いろいろと思いを巡らせているうちに、今まで私は彼に、何度許してもらってきたのだろうという考えに辿り着きます。そうすると怒りが少しずつおさまり、私も悪かったなぁという思いになってきます。主人は私が何かミスをしても決して怒ることはありません。出張所の事など公用の事は別ですが、特に主人自身に対しての私的なことではいつも『しょうがない、そういう時もある』と言ってくれたり、何かを壊してしまった時でも『形ある物はいつか壊れるから』と言って許してくれます。

お願いごとがある時は『神様どうぞお願いします』と頼みますが、普段何気ないことは、『人が見ていなければ大丈夫』というように考えてしまいます。神様は人間の良いことも悪いことも全てを見ておられるわけですから、とても矛盾しています。そんな人間の姿を見て、神様はきっと笑いながら許して下さっているわけです。

いままでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ十七-14

しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる十七-15

そんなことしてきた人間であっても、心を入れ替えたなら神様はすぐに受け取ると仰せ下されています。人間はずっと神様に許され続けて今日まできているのです。これこそが暖かい親心であると思います。

以前、元旦祭の直会の時、些細なことを言われ腹を立ててしまったことがありました。自分は精一杯やっていたつもりでしたが、その方にはそうは写らなかったようでした。何でそんなことを言われなければいけないのかと悔しい気持ちになりました。心を落ち着けようと場所を変え、深呼吸を繰り返しました。少し心が落ち着いたところで、神殿へ行き、新年早々不足をしてしまったことを、親神様教祖にお詫び申し上げました。その日の夜にそのことを主人に話すと、彼は『その心は、おつとめをしても変わらなかったのか』と言われました。只今つとめました月次祭のおつとめ、そして毎日行う朝夕のおつとめで私たちは心を掃除して頂いているはずですが、いつのまにか何気なくしているおつとめになっていたことに気付きました。神様へ、ほこりの心遣いに対してのお詫びと、日々のご守護への感謝をさせてもらい、心のほこりを払っていただけるようなおつとめをつとめなければなりません。

おふでさきに、

これからハどうぞしんぢつむねのうち
はやくすまするもよふしてくれ五-74

せかいぢうをふくの人であるからに
これすまするがむつかしい事五-75

いかほどにむつかし事とゆうたとて
わが心よりしんちつをみよ五-76

たくさんの人たちと共に生きている私たちです。みんなの心を澄ますことは本当に難しい事だと思います。そんな時こそ自分の心を省みて、まずは自分の心を澄ます努力をしていくところに始まりがあります。

このみちハどんな事やとをもうかな
せかい一れつむねのそふぢや十六-57

この道に引き寄せられた私たちは、自分の与えられている持ち場・立場を生かし、自らの心を掃除し、人の心の掃除のお手伝いをさせていただくことも御用であると思います。ほこりを積まない努力と共に、人にもほこりを積ませない心配りも大切です。

心さいすきやかすんた事ならば
どんな事てもたのしみばかり十四-50

心が澄んだならば、どんなことも楽しみに見えて来ると仰せられます。心が変われば、見えてくる世界も大きく変わります。ほこりを積まない心がけと、日々のおつとめで心のほこりを払うこと、これが心を澄ます努力をするということだと思います。

何か壁にぶつかった時、『教祖ならどうされるか』と考える、というお話しを聞いたことあります。そう考えて行動に移せたらいいのですが、反面とてもできそうにないことのようにも思います。私の場合は、母ならどうするかと考えると心が治まるような気がします。誰でも、一人ぐらいはこの人はすごいなぁと思う人がいると思います。『あの人ならどうするかなぁ』と考えることで自分だけの物差しだけで考えるのではなく、周りも見えてきますし、自分が変われる一つのきっかけにもなるのではないでしょうか。

教祖130年祭に向うこの旬に、小さな一歩を踏み出してみることです。大それたことを言われると、『私にはできそうもないから』と人ごとのように片付けてしまいますが、まずは自分の出来る小さいことから始めてみてはいかがでしょうか。

私の一歩は、母に近づく努力と、主人の思いに沿うことです。
教祖130年祭へ向けて、心を澄ます生き方の一歩を踏み出していきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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