Tenrikyo Europe Centre

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2020年9月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一

ご承知のように、ヨーロッパ出張所では毎年3月と9月は、月次祭の後に御霊祭が執り行われます。今日もこの後、亡くなった方の御魂を出張所の御霊屋に納める合祀祭が行われることになっています。それで今日は、人間の「魂」についてお話をしたいと存じます。

天理教教祖は「おふでさき」と呼ばれる1711首からなる和歌集を私たちのためにお残し下さいましたが、その中につぎのようなお歌があります。

このよふのはぢまりだしハとろのうみ
そのなかよりもどちよばかりや4−122

このどぢよなにの事やとをもている
これにんけんのたねであるそや4−123

このものを神がひきあけくてしもて
だん/\しゆごふにんけんとなし4−124

このお歌は、教祖が人間創造について教えられた最初のお歌です。当時、教祖のお話に耳を傾けた人々は、代々農業を営み、教養や学歴の低い人々でした。教祖は、そんな人々が興味や関心をもち、しかも誰もが得心できるようなわかりやすい方法で、人間創造に関するお話をされました。その方法のひとつが、魚や水中に住む動物を話の中に取り入れることでした。

ドジョウという魚もその例えの一つと言うことができます。人間創造のとき、この世は混沌とした状態で、それを「泥の海」と表現されています。その泥の海に無数の「ドジョウ」がいた。その無数のドジョウを神様が皆食べてしまって、その性質を味わった上で、ドジョウを「人間の種」にして、人間を創造したと教えられたのです。

天理教では、ドジョウを元に造られたこの「人間の種」が人間の魂にあたると考えられています。「種」は「元になるもの」であり、「核になるもの」ですから、魂は、人間の元になるものであり、人間の核になるものだと言うことができると思います。

それでは、どうして人間の魂の元としてドジョウが引き合いに出されたのか考えてみたいと思います。ドジョウという魚は通常、川や池や田んぼの中に生息していますから、教祖のお話に耳を傾けた人々は当然よく知っていたと思われます。それだけに当時の人々は、なぜ?と不思議に思ったでしょうし、興味深くお話を聞いたに違いありません。

ドジョウという魚はぬるぬるしています。ですから泥水の中にいても身体に泥がこびりつくことがありません。それからドジョウは、泥水の中にいて泥といっしょに餌を飲み込みますが、泥は外に吐き出し、必要な養分となる餌だけを取り入れます。ですからドジョウの身は真っ白で、泥に汚されることはありません。

ここから魂に関する天理教の教えの大切なポイントを類推することができます。教祖は、しばしば泥水を人間の欲の世界に喩えておられます。端的な例として「欲に切りない泥水や心澄み切れ極楽や(10下り目4)」という、つとめの歌を残されています。人間の世界は泥水のように欲にまみれた世界ではあるけれども、人間の魂は、そのような欲に汚されることのない、清らかで純粋なものであると、ドジョウの特性から象徴的に教えられているように思います。

さらには、そのような魂をもつ人間は、本来、罪や穢れのない善なる存在であることを教えられているのではないかと思います。

また人間の魂の元が、ドジョウという魚、一種類だけであったということから、人間の魂は本質的にすべて同じであると言うことができます。現在世界には70億を超える人間がいますが、一国の大統領も一般市民も、大富豪も貧民も、男も女も、大人も子供も皆、魂は平等だと言えます。

人間は皆平等であるという事に関して、おふでさきの中には、

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい13−45

とはっきりと教えられています。

「高山」というのは、社会の指導的な立場にいる人々のことを指しています。「谷底」というのは一般市民のことです。このお歌が書かれた明治時代、日本では富国強兵が国策となり、その実現のため王政復古を基本方針とした天皇の神格化が強く推し進められていました。そんな時代でしたから、人間は皆平等であるという考え方は国策に反するものとして、不敬罪という罪になりました。天理教の教祖はそのために、85歳を過ぎてから90歳でお姿を隠すまでの間に、17、8度も警察や監獄署に留置されたのです。

さらに教祖は、おふでさきの中で

せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや13−43

と歌われました。

神様は人間を産みおろした親ですから、人間は皆、親である神様の前では兄弟姉妹であると言うことができますが、人間の魂の起源が同一であると考えると、なお一層納得がいくように思います。

さて、もういちどドジョウの話に戻りたいと思います。泥海の中にいたドジョウは人間創造の時、すでに存在していた生命だと考えることができます。つまり魂には始めから命があったということになります。体をもって生きている私たちは、命は体にあるように感じますが、命の元は魂にあるのではないかと思います。

次に、魂がすでにあった生命を受け継いだものであると考えると、魂は、当然その生命を維持し、それを明日につないでいく働きを持っていると考えることができます。人間の生命が、生まれてから過去、現在、未来へと切れることなく維持されていくのに、魂が大きな役割を果たしているのではないかと思います。

教祖は、人間が死ぬことは「出直し」であると教えられました。人間がこの世に誕生するとき、神様はそれぞれの魂に体を貸し与えられ、人間としての一生が始まります。そして人間が死ぬとき、魂はお借りした体を神様にお返しします。このように人間の生と死の2つの世界をつなぐのも魂の役目の一つだと思います。

天理教教典には人間創造の内容がまとめて書かれています。そこには、最初に産みおろされた人間は全員が3度の生まれ替わりをした後、さらに8008回の生まれ替わりをしたと説明されています。そして次第に人間へと成人していったことが書かれていますが、魂は人間創造後の成人のために重要な役割を担ってきたという事がわかります。

しかしながら、不思議な事に、教典の人間創造のお話の中には人間の魂を造る話は一切ありません。これは何故なのか考えてみました。考えられる事は、神様の分霊が人間の魂として使われたからではないかということです。その結果、人間の魂には創造主の永遠の神性が具わることになります。こう考えるといろいろなことが腑に落ちてきます。

例えば、人間は信仰がなくても誰でも神様を感じることができますし、自分の力でどうしようもできない時は神様に祈ります。人間は教えられなくても人間を殺してはいけないことを知っています。誰でも人間には尊厳性があることを感じているからです。人間は感覚的に永遠性を感知する事ができますし、誰もが不老不死を願っています。すべて人間の魂が神様の分霊だと仮定すると了解できそうに思います。

教祖は、魂の生まれ替わりに関しても教えられました。初代真柱様と奥様のお二人を引き合いにだして、大変具体的に教えられています。初代真柱様の魂の生まれ替わりに関しては「天理教教祖伝」に書かれてあり、奥様の魂の生まれ替わりに関しては「おふでさき」に書かれています。

初代真柱様の魂については、教祖の父親の魂が教祖の娘の長男として生まれ替わり、その後初代真柱として生まれ替わったと教えられています。出直してから生まれ替わるまでの年数は、6年と14年となっていますので、思ったより短いように感じます。

初代真柱様の奥様の魂については、教祖の長男の娘の魂の生まれ替わりであると「おふでさき」に特に念入りに歌われています。出直してから生まれ替わるまでの年数は7年です。かなり短いように感じます。

仏陀は、人間には解決できない4つの苦しみがあると言いました。それは、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことの4つです。しかし、今までお話してきたように、教祖の教えをひもとけば、これらの苦しみは全て氷解します。確かに出直しは悲しくてつらいものですが、出直し後10年前後で魂は生まれ替わってくると教えられています。それほど長い時間ではありません。そう考えるだけで、わたしたちの心は明るくなり,人間には大きな希望が与えられます。

教祖は、神様がなぜ人間とこの世を創造されたか、次のように大変簡潔に教えられています。

「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」

と教えられています。

陽気ぐらしの生き方は、簡単に言えば、何を見てもうれしい、何を聞いてもありがたい、何を食べてもおいしい、どこへ行っても楽しい、誰と話してもおもしろいというような、楽しみ尽くめの生き方です。

教祖の教えには、魂の教え一つとってみても、人間に陽気ぐらしをさせてやりたいというお心がこもっています。

心に悩み、身体に病気、家庭に問題をかかえて困っておられる方が身近におられたら、ぜひこの教祖のお話に耳を傾けていただけるように声がけをお願い致します。必ずや明るい希望と解決の糸口を見つけることができると思います。

ご清聴ありがとうございました。

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