Tenrikyo Europe Centre

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2017年9月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長夫人 長谷川真理子

7月に出張所にて『夫婦と親子』というテーマで天理教のつどいが行われました。基調講演のあと、練り合いが行われ、それぞれのグループでテーマに沿って意見交換が交わされました。

今回の集いを通して、親に対していろいろな思いが浮かんできました。

本日は『親心』について、私の体験と思いますところを話させていただきます。

わたしは、子ども時代を恵まれた環境で育ててもらったことに、とても感謝をしています。この場合の恵まれた環境とは、いい家に住んだとか、お小遣いをたくさんもらったとかそういうことではなく、たくさんの愛情をもって育ててもらったこと、親に感謝のできる子どもに育ててもらったということです。たとえたくさんの物やお金を与えてもらっても、親を恨むようでは、恵まれた環境であったとは思えないと思うのです。

親の親、そのまた親をたどっていくと、人間創造の親である親神様に辿り着きます。私たち人間の親である親神様は『人間の陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい』と思いつかれ人間をつくられました。たとえ親に感謝できない環境であったとしても、元の親・親神様の思いは、子どもかわいいばかりなのですから、その思いを知った者から、この天理教の教えを実行し、伝えていくことに、幸せの道は開けてくるとわたしは考えます。

天理教教典に、親心について次のように書かれてあります。

親神の心とは、あたかも人間の親が自分のこどもにいだく親心と相通じる心で、一列人間に対する、限りなく広く大きく、明るく暖かい、たすけ一条の心である。

およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行く末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽くしの程がくみとられて、有難さが身にしみる。

ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、あつい親心に添いきる心が定まる。かくて、真実に心が定まれば、親神はすぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神はそれを待ちわびておられる。

わたしは今までの人生において、大していいことをしてきた覚えはありませんが、どうしたわけか、何不自由なく毎日を幸せに暮らしております。その理由を考えた時、一つだけ思い当たることがありました。

今から16年前、3年間の教会本部での勤務が終わり、本部の修養科を終え、大教会での女子青年づとめを始める時のことでした。通常であれば1年の伏せ込み期間が妥当なところでしたが、その時は9月で、翌年の11月に大教会創立110周年を控えていましたので、恐らく一年以上になるであろうと思っておりました。父とご挨拶に行ったところ、奥様から『来年の4月までよろしく頼むな。』とお言葉をいただきました。わたしは1年以上と覚悟をしていましたので、7ヶ月で終われるということに喜び、笑顔で『はい』と答えようとしたところ、隣におりました父が『そこを何とか110周年まで置いていただけないでしょうか』と言い出したのです。隣を見ると『この子に大教会の理を頂きたいのです』と言って頭を下げている父の姿がありました。

せっかく向こうから半年ぐらいでいいと言ってくださったのに、勝手に伏せ込み期間を延ばすなんてと、その時は父に対して怒りの気持ちでいっぱいだったように思います。結局2年後の2003年1月まで大教会に置いていただき、女子青年を終えさせていただきました。その間には、本当ならとっくに家に帰っているのにと不満に思うこともありましたが、あの時大教会においていただいて本当によかったと思うようになりました。何ものにも代え難い親の理を頂くということ、そしてその旬に徳を積ませていただくということは、後々の大きな宝となるのです。そのことをわたしは父から教えてもらいました。どんな種でも旬を逃さずに蒔くように、またとない旬に、親の思いに添い、親の理をいただいたことに、今のわたしの幸せがあるのだと思います。

おさしづに、

真実の理を見た限り、おやのあと子が伝う。(M26.6.21)

とあります。

このお言葉の解説として次のように書かれています。

親の通る姿通り、子に映るのであります。そのことからすれば、親が子につくせば子は親につくすかというとそうではなく、親がその親につくせば、親のあと子が伝うで、子も親に孝をつくすようになるのであります。

わたしは6人兄弟で、その全員が天理教を信仰し、天理教の教会長や布教所長をしたり、教会へ嫁いでいます。天理教を信仰していることで、私たちは幸せに暮らさせていただいています。すべては親のおかげです。私たち兄弟は、両親とどこかへ遊びに行ったり、旅行にいったりという思い出はそんなに多くはありません。両親は大教会やおぢばへ行き、月の半分は家にいませんでした。家にいる時でも、どこかへおたすけに行っていることが多かったように思います。それでもさみしいとか、嫌だとか、それが天理教のせいだとか思ったことはありませんでした。それは両親がいない間も教会の信者さんにいろいろとたすけていただいたからだと思いますし、両親が子どもにつくすのではなく、親へとつくし切っていたからだと思います。物や思い出を与えることで親の愛をみせるのではなく、自分たちの行いで、天理教の信仰と、子どもへの愛情をみせてくれていたのだと思います。小さい頃は気付きませんでしたが、簡単にできることではないと今になって強く思います。

私たち夫婦は、結婚して5年程はニ人だけでアパートに住んでおりました。6年前より出張所に住まわせていただき、今も10人程で共に生活をしております。正直に言いますと、そのことを面倒に思うこともありますし、自分たちのことだけ考えて、自分たちだけで暮らしている方が楽だと思うこともあります。ここで生活していく中で、そして出張所長夫人という立場をいただいく中で、感じることがたくさんあります。一番強く感じるのは、親の心です。何かあるごとに、『親はこんな気持ちでいてくださったんだなぁ』と思います。わたしたち夫婦には子どもがありません。親の心・気持ちを知らずに終わるはずだった私たちに、このような環境を与えてくださったことに、こころより感謝をしております。

自分が指導される立場だった時は、厳しいことを言われるたびに『そんなに怒らなくてもいいのに』と思っていましたが、叱るということは労力もいりますし、気も使うということを知りました。言わずに流すことの方が楽だと思うこともあります。それでも、これが自分の兄弟だったら、身内だったら、そのまま放っておくはできない、と思うのです。何より、彼らの親御さんならどうするか、見過ごすことはしないであろうという思いに至ります。

相手に自分の思いを伝える時、いつも思うことは、日頃の自分の通り方です。こんなこと私が言える立場じゃないという気持ちが、言い出す勇気を阻みます。自分自身も『あの人に言われても説得力がない』と思ったこともありますのので、言う前は相手が上手に受け取ってくれるように願うばかりです。

そして、相手に対してどういう風に言えば理解してもらえるか、納得してもらえるかよく考え、文章を考えたり何度も練習もします。わたしの親々もそうしていたかどうかはわかりませんが、たくさんの愛情をもって叱ってくださり、育てていただいと思っています。

自分の子どもに信仰を伝えることは叶いませんでしたが、いんねんあってここで出会った家族のような彼らに、このお道の考えかた・悟りかた・通りかたを伝えていき、お互いに成人できるようにと思いながら過ごしています。そして、ここで共に過ごした彼らに、誰一人余すことなく幸せになってもらいたいと願っております。それがわたしにできる、親への恩返しの一つだと思っています。

去る7月に、本部かんろだいに大きなふしをお見せいただきました。

天理教内統領・山澤廣昭先生は
『信仰の芯であるかんろだいにふしをおみせいただいたことは、私たちの信仰姿勢が、親神様の思召に添い切ったものなのかどうかを、強くお知らせくだされたものと思案します』とされ、
『お互い、ぢば一条・神一条の精神を再確認することが必要だと思います』と仰られました。

出張所という代々の方々が作り上げてくださったこの場所で、おつとめをつとることができるということ、今日まで導いてくださった先人の方々、親々のおかげであることを改めて感じさせていただきます。

17年前に同様のふしをお見せいただきました時に、実家の父が教区報に書きました言葉に
『我々は年限と代を重ねていくうちに、いつしか日々の結構さに慣れ、加えて世相や他宗を意識するあまり、素朴で大らかで力強いこのお道本来の持ち味を忘れて、いたずらに数を頼み、歩みを急いできたように思われる。今こそ心機一転の旬。足元を見つめ直し、もう一度教えの台を積み重ねる努力を始めよう。』とありました。父は25歳で天理教と出会い、その『素朴さと・大らかさと・力強さ』に惹かれて、今日までお道を歩んできたことだと思います。その親に導いてもらったこの道を、わたしもまた力強く歩んでいきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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