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2015年4月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ

先日、ある本を読んで、非常に勉強になったことがありましたのでご紹介させて頂きます。

日本で開かれたある研究学会で、ある外国人が日本人にこんな質問をしました。
「日本の親や先生は子どもに対して、生きていくときにどういうことが大切だと教えますか。」
その日本人はこう答えました。
「他人に迷惑をかけないようにということです。」
それに対して、その外国人はこう言いました。
「その教育では、日本の子どものひきこもりやイジメなどの問題は解決されないかもしれませんね。」
日本人はどうしてですかと質問をしました。その外国人は次のように答えました。
「私の国では、『人間は自分が知らない間に誰かに必ず迷惑をかけている。だから自分が誰かをたすけられる立場にいたら、必ずたすけてあげるように』と教えます。誰にも迷惑をかけなければそれでいいと思う子には感謝の気持ちが育ちにくいのではないでしょうか。」 (引用終わり)

この二人の会話をもとに、この本の著者は、人に迷惑をかけない子に育てるよりさらに大切なことは、人は一人で生きているわけではなく、いつも誰かに支えられているのだから、お互いに優しくして助け合っていくことではないかと書いていました。

このお話を読んで全くその通りだと思いました。日本のニュースで、特に非行で補導された子どもたちが誰にも迷惑をかけていないからいいではないかと言うのを耳にしたことがあります。親や大人たちから、人に迷惑をかけないようにとしか教えられていないからだと思います。

自分のことを振り返ってみても、生まれてから今まで実に多くの人のお世話になり、ご指導を頂いて、今の自分があります。けれども感謝やご恩の気持ちをどこまで持ち続けてきただろうかということを改めて考えさせられました。時が過ぎ、環境や状況の変化で受けたご恩を忘れてしまっていることが多々あることに気がつきました。また、子どもに対しても感謝の心を育てるようにどこまで言葉がけをしてきたか、私の姿を子どもが見ているのですから、全く反省の一語につきます。

身近な人への感謝の心が育たなければ、親神様教祖のご恩を感じるというのは難しいのではないでしょうか。

今月、四月十八日は教祖のお誕生日です。おぢばではもちろん教祖ご誕生祭がつとめられますが、毎年、その翌日の十九日には天理教婦人会総会がご本部の中庭で開催されます。国内はもちろん、海外からも婦人会員の方が帰ってこられて、昨年は約四万六千人が参加しました。私もヨーロッパ婦人会の代表として毎年、参加させて頂いています。真柱様、婦人会長様の婦人に期待する思いを直接聞かせて頂ける本当にありがたい機会です。

昨年の総会の婦人会長様のお話の中で特に心に残ったのは、その前の年の総会での真柱様のお言葉を受けて、次のように述べられたことです。

『初代、先人は、たすけて頂いた感激を胸に、ただひたすらにご恩報じの道を素直に通られて、この教えは伸び広がっていったのでございます。しかしながら、代を重ねていくうちに、感激、喜びが薄れ、結構な姿が当たり前になって、ご恩報じをさせて頂こうという意識が弱くなっているのが、今の姿だと思うのでございます。真柱様の仰せの通り、先輩たちが伏せ込んでくれた理までも失ってしまっているのが現状だと思うのでございます。その原因を思案致しますと、育てることに甘さがあったのではないでしょうか。初代がたすけて頂いて、そのご恩返しにどういう心を定められ、どのようにご恩報じの道を歩まれたのか、その心を受け継ぐ今の私たちは、どのように通らせて頂くことが大切なのかということを、親から子へ、子から孫へとしっかりと伝えて、それにふさわしい通り方を積み重ねていれば、教祖がお諭し下さるように、一代より二代、二代より三代と理が深くなっていくという姿になっているはずが、そうなっていないのは、育てる上での反省点があると思うのです。』
(第九十六回婦人会総会婦人会長 あいさつ みちのだい178号19ページ七行目から)

非常に厳しいお言葉だと思いました。育てる上での反省をお促しなっているのですが、私自身はどうなのかと考えた時にご恩報じの意識がまだまだ足りていないと感じました。

「ご恩報じ」と言う言葉は、まず恩を感じる心がなければでてきません。「ご恩報じ」の意識の薄い原因は、先程も述べたように受けたご恩を忘れてしまっているということもあると思いますが、慣れて、何もかもが当たり前になって、「ありがたい」と思わなくなっているところにあると思います。お互いに「ありがたい」と感じるセンサーが鈍くなっているのではないでしょうか。

天理教の教えの目標は「陽気ぐらし」です。どんな時でも、何が起こっても常に「勇んだ心」「陽気な心」で通ることです。そういう心になれるもとは「ありがたいと思える心」だと私は思います。

ある奥様から次のようにお話を聞かせて頂いたことがあります。

「私は何が起こっても、まず『ありがたい。』と言うんですよ。柱に頭をぶつけても『ありがたい』。主人に怒られても『ありがたい。』それから後で、何がありがたいかを考えるのよ。」

天理教の教えには、いろんなご教理がありますが、全てはこの『何がありがたいのか』の答えを見つける手がかりを教えて下さっているのだと思います。ですから人に話を聞いたり、本を読んだりして常に教えを求めていく姿勢を忘れてはならないと思います。

もちろん人間ですから、起こってくることに、時には心が揺らぎます。それでも最初に“その中にどういう親神様教祖の思いがあるのかを考えることが大切です。悩みをいかに切り抜けるかを考える前に、悩みを与えられた意味をどう読むか、何を悟るか、過去の自分をどう反省するか、これが大切だと思います。先ほどの奥様のように日々のちょっとした出来事にも意味を求める心の訓練、この日々の積み重ねが何が起こっても倒れない心の強さを生み出すことになると思います。一番大切なことは、どんな時にも親神様教祖の親心を忘れない、全ては親神様教祖の親心から見せて頂いていることと強く信じることです。しっかりすがりつけば必ずお応えを見せて頂けます。

河原町大教会の初代、深谷源次郎さんはいつでも『結構、結構』と通っておられたので、『結構源さん』のあだ名がついた程のお方です。事情があって悩んでいる方に深谷先生は次のようなお諭しをなされました。

『それは、この上もない結構なことやで。あなたを神様がお見込み下されて、ゆくゆくは偉いものにしてやろうとの思し召しから埃(ほこり)をかけて下さるのや。木の根元に芥(あくた)や埃をたくさんかければ、その木は大木になるのや。人間は埃をかけてもらうようにならなければならん。埃をかけられても芯を腐らしてはあかんで。芯さえ腐らなかったら、埃や芥が肥やしになって、ゆくゆくは大勢がもたれてくる程の大木になるのや。あなたを神様が見込んで下されているのや。』

また、部内の教会長の方に教会の様子をお尋ねになった時に、その方が「身の不徳のため、ご守護を頂くことができません。」と申し上げられると、きつく叱られたそうです。

「その挨拶の仕方は違う。おまえがお道を発展させようと思うから、不徳というような言葉が出るのや。以後は改めなさい。『お陰様でまたまた帰らせて頂きました。』と言うのや。何をさして頂くのも、みなみな親神様教祖のお陰ということを片時も忘れず、喜んでつとめさして頂くからご守護を下さる。それをともすれば忘れて、我がすると思うから不足心が湧き、案じ心が出てくる。この二つの心を去り、親神様教祖のご守護を日々喜んで通るならば末では結構なご守護を頂けるのや。」

このお言葉を読んだ時に、そういうことなんだと思いました。物事が自分の思うようにならない時には、あれこれ悩むよりも、今あること、今しなければならないことを喜んで、勇んで精一杯つとめさせて頂いていればいい。後の結果は神様の領域、神様にお任せしたらいいということなのです。陽気な心に神様が入り込んで、ご守護を下されるのです。

今日、ここに来れる健康を頂戴し、何の妨害もなくおつとめをつとめられ、この後には、おいしいご飯も待っています。ありがたいことだらけです。日々をお互い「ありがたい。お陰様で。」を合い言葉に勇んで通らせて頂きましょう。

ご清聴、ありがとうございました。

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